豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

イェリネク『法の社会倫理的意義』

2023年11月07日 | 本と雑誌
 
 祖父の蔵書を整理するする作業の途上で、イェリネク/大森英太郎訳『法の社会倫理的意義』(大畑書店、昭和9年=1943年)を読んだ。
 本書は、「序論 社会科学」「第1章 社会倫理学」「第2章 法」「第3章 不法」「第4章 刑罰」の5章からなる。
 「第1章」には、「全体は個のために、個は全体のために」(“Alle für einen,einer für alle”)という最近スポーツ番組でよく耳にする標語が出てくる(41頁)。この標語はイェリネックの造語なのだろうか。
 イェリネックによれば、社会倫理的立場から一切の倫理的命令を取り入れ得る形式は「汝の行状が社会を維持し進展せしむる如く振舞うべし」ということである(33頁)。

 本書の中核になるのは「第2章 法」である。
 「法は倫理の最低限に他ならない」(“Das Recht ist nichts anders,als das ethische Minimum”)は、彼の有名な言葉であり、本書「法の社会倫理的意義」の論旨を集約した標語である。
 この言葉につづけて、「法は、客観的には、人間の意志に依拠する限りでの社会維持諸条件、従って倫理的諸規範の最低限の存在であり、主観的には、法は社会構成員が要求せられる道徳的な生活行動及び意向の最低限である」と敷衍される(67頁)。訳文に頻出する「意向」が分からないのだが。

 イェリネックによれば、歴史的に法と道徳は分離の道をたどってきたが、近年ふたたび合一の傾向もみられる(75頁)。しかし法は、道徳的諸概念のもっとも外的な領域においてのみ道徳を防御するにすぎない(77頁)。彼は、法概念における道徳の過剰を批判する一方で、道徳を個人に帰し、法を共同倫理と見る見解も批判する(78頁)。
 著者によれば、法と道徳はともに習俗すなわち倫理的慣習から発生する。習俗の内的態度が道徳(の若い概念)であり、外的態度が法(ないし共同倫理、生活態様)であり(79頁)、法は原則として外部的態度(人間の行動)を要求する(79頁)。

 法は人間の行動によって発生すべき社会状態の保持を目的とするから、緊急の場合には(社会保持のための)強制力を備えていなければならないが、法の強制力は法的生活の病的諸現象に対処するものであり、法が何らの抵抗もなく行われる場合は無数にある。むしろ強制を用いなければならないような法秩序は、粘土細工の足で立つ人形のようなものである(80頁)。
 このように、イェリネックは強制力によって担保されることを法の特質に掲げる論者を批判する。その一例として、イェーリングの「法は社会の存立諸条件を強制の形式において確保するものである」という主張があげられている(81頁注7)。

 それでは、「倫理の最低限」(である法)の「最低限」はどのように設定されるか。
 社会は構成員に対して秩序の外部的維持を要求するだけでなく、秩序の内部的意欲をも要求する。社会全体の法的意向が増大すればそれだけ法的秩序は堅固になるが、法的意向が減少すれば規範が無力となり強制がますます必要になる。「倫理の最低限」もこの内部的意欲の程度に応じて増大することになる(84~5頁)。
 法と道徳の無関係を示すものとして、道徳上禁ぜられることが法律上許されることがある(85頁)。極貧の債務者から最後の生活資産を奪うことは不道徳ではあるが、不法ではない。これも「法は道徳の最低限」の内容である(らしい)。

 「第3章 不法」および「第4章 刑罰」では、規範に背く行為(=不法)の性質と、これに対する社会的な制裁(イェリネックはこの言葉を使っていないが)たる刑罰が論じられる。意志の自由論と決定論(言い換えれば責任論)をめぐる法哲学ないし刑法理論を検討し、刑罰の性質をめぐる応報主義と目的主義の対立が論じられる。イェリネックは、刑罰の報復的性質も認めるが、その本質は予防と犯罪者の改善にあるという立場を表明する(199~202頁)。犯罪は社会の所産であるとも言う(126頁)。

 以上、イェリネックの要約を試みたが、自分が十分に理解できていないことを自白する結果になってしまった。ただ読んだだけで、要約や感想を書かなければ「読んだ」ことにはならない。しかし、この程度のことしか書けないのでは、「書いた」としても「読んだ」と言えるのか。
 イェリネック「法の社会倫理的意義」が言う、道徳的に望ましくない行為のすべてが法規制の対象になるのではなく、法による規制は「最小限」の倫理的命令の違反に限られるということには賛成である。問題は、それでは倫理の「最小限」はどこに設定されるのか、倫理的規制と法的規制の境界線をどこに引くべきか、という点にある。
 残念ながら、その境界線はイェリネックの本書では明示されていなかった(と思う)。人は内心(心の中で思った)だけでは刑罰を受けることはないこと、ただし外部的行動を起こした場合には、その行動が内心で意欲したものか否かは問われることはどこかに書いてあった。

 法と倫理の境界線ないし法的な強制力行使の限界について、ぼくは、J・S・ミル『自由論』が唱えた、社会が強制力をもって個人の行動を規制できるのは、その行為が他人の生命・身体・自由・財産等を侵害するか、侵害される危険がある場合に限られるという原則(侵害原則)を支持する。
 他人の身体等を侵害する危険がない場合は、たとえその行為によって本人自身が傷ついたり(パターナリズム)、社会の道徳が損なわれたとしても(モラリズム)、それは法規制の対象にはならない。これらは、外部からの強制力によって規制されるのではなく、各人の倫理的判断に委ねたり、あるいは道徳的な批判にとどめるべきであるという考えに共感する。
 このようなミルの考え方を、ぼくは、加藤尚武「子育ての倫理学」(丸善ライブラリ、2000年)その他一連の加藤氏の著書から学んだ。

 家族法の世界でも「社会倫理」が関係する場面は、離婚理由としての「不貞行為」、相続廃除理由としての「著しい非行」などいくつかあるが、近親婚禁止の根拠としての「社会倫理的」理由がもっとも直接的である。
 わが家族法学者は、近親婚は「優生学的」および「社会倫理的」理由から禁止されるといいながら、2、3の学者を除いてほとんどの学者は、彼らがいう「社会倫理」の具体的内容を一言も説明していない。彼らの「社会倫理」は、内容のないレッテル貼りにしか思えない。もし現在の社会で共有されるべき「社会倫理」があるとしたら、それは婚姻の自由(=配偶者選択の自由)など個人の幸福追求権の尊重だと思うのだが。
 イェリネックの本書は「法の社会倫理的意義」と題しながら、後半部分は刑罰論に集中してしまい、法と倫理の関係が問題になるはずの「公序良俗」論など民事法の分野は残念ながらまったく取り上げられない。
 
 ちなみに、この本の巻末には大畑書店の既刊書目録がついているが、瀧川幸辰『刑法読本』と、スタリゲヴィッチ著/山之内一郎訳『サヴェート法思想の発展過程』の2書の定価欄には「禁止」とある。発禁本についても既刊書目録欄に掲載することで抵抗の意志を示したのだろう。

 2023年11月7日 記

 ※この連休は孫の相手などでバタバタしていたら、気がつかないうちに「豆豆先生の研究室」の閲覧数が210万件を超えていた。17年弱の間にどなたかが210万回以上も立ち寄って下さったとは有り難いことで、信じ難いことである。
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