豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

高橋治 『幻のシンガポール』

2010年09月15日 | 本と雑誌
 
 ゼミの学生たちと夏合宿(?)で箱根に行って来た。12日(日)までは今年の猛暑が箱根にまで及んでおり、きのう14日からは一転して、霧が立ちのぼり夜半に大雨も降った今朝の箱根は肌寒いくらいだった。

 箱根湯本に向かう小田急線ロマンスカーで、高橋治の『幻のシンガポール』(文春文庫)を読んだ。
 戦争宣伝映画の製作を大本営から命じられ、撮影のためにシンガポールに滞在する小津安二郎を描いた小説である。
 先日読んだ文春文庫版の『絢爛たる影絵』の巻末に併載されたものである。本体(「絢爛たる影絵」)のほうは「小説」といえるか怪しいものだったが、こちら(『幻のシンガポール』)のほうは高橋が自ら体験していないだけ小説らしくなっている。
 どこまでが史実で、どこからが脚色なのか分からないけれど、「大本営」からの命令であることを盾に、現地の南方軍を煙に巻いて撮影をサボタージュするあたりは痛快である。

 この小説の冒頭に箱根が出てくる。シンガポールの心地よい「風」を描写するために。
小津はシンガポールで最高級のキャセイ・ホテルの一室に滞在するのだが、自室の窓辺に風鈴を吊るしている。
 その風鈴がシンガポールの風に揺られて音を鳴らすと、小津は、この風は、二等車で箱根に行って、ハイヤーで芦の湯の『きのくにや』という宿の3階の一番高い部屋をとって、ひと風呂浴びた後に涼んでいるときに吹いてくる風のようだと形容するのである(327頁)。
 箱根湯本駅から(ハイヤーではなく)箱根登山バスに乗って元箱根方面に向かうと、芦の湯バス停を過ぎるあたりの車窓から、まさにその『きのくにや』の野立ての看板が見えた。
 小津安二郎もこのあたりを歩き、このあたりの空気を吸ったのだろう。蒲田とも大船とも鎌倉とも無縁の場所で育ち生きてきたので、小津とのわずかな(唯一の)接点を通過した思いがした。

 もう一つ、この小説を読んでいて思い当ったことの一つは、“風の中の牝雞”の、田中絹代が階段から突き落とされるシーンについてである(こだわるけれど・・・)。
 シンガポール滞在中の小津は、イギリス軍から接収した物資の中に大量のアメリカ、イギリス映画フィルムを見つけて せっせと上映する。そのうちの1本、“風と共に去りぬ”に、主人公のビビアン・リーが階段から転げ落ちるシーンがある。
 小津はフィルムを丹念に調べて、スタントマンを使わないでビビアン・リー本人が転げ落ちていることを知って、感嘆する(377頁)。
 ジョン・フォード、ウィリアム・ワイラーらの日本未公開作品から多くを学んだ小津は、「これで戦後数年間はどうにかなるな」と述懐している。

 この部分を読んで、ぼくは、「“風の中の牝雞”で田中絹代が転げ落ちるシーンのもとはこれだな!」と思った。ぼくもあのシーンをコマ落としで何度も観たが、確かに田中絹代が必死の形相で転げ落ちてくる。
 ひょっとしたら、“風の中の~”というタイトルすら、“風と共に~”から来ているのではないだろうか。

 シンガポール、キャセイ・ホテルの風鈴を鳴らす風、“風と共に去りぬ”の風、そして“風の中の牝雞”の風、そしてきょうの肌寒いくらいの箱根の風・・・。みんな、どこかで繫っているのだろう。

 * きょうの箱根、芦の湯“きのくにや”の看板。箱根登山バスの車窓から。

 2010/9/15

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