豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

里見弴「十年」

2024年12月12日 | 本と雑誌
 
 里見弴「十年」(「里見弴全集・第8巻」筑摩書房、昭和53年(1978年)所収)を読んだ。初出は東京新聞昭和20年の敗戦後から同21年にかけて計160回連載されたらしい。これも、尾崎一雄「あの日この日」か高見順「昭和文学盛衰史」で興味を持ったのだが、どちらがどのような理由で引用していたかは忘れてしまった。内容的に高見が取り上げるような小説ではなかったから、志賀直哉を師と仰ぐ尾崎の本に出ていたのだろう。

 いかにも新聞小説といった構成で、二・二六事件前夜から昭和20年の敗戦までの10年間の上流家庭の生活が描かれる。熟読する内容でもないので、新聞小説を読むように1時間に50頁くらいの猛スピードでざっと読んだ。挿絵でもついていればもっと端折って読むことができただろう。
 最近読んだ尾崎一雄「あの日この日」や高見順「昭和文学盛衰史」、「故旧忘れ得べき」などと同じ時代(の一部)を背景としているのに、まるで別世界のような話である。登場するのは著者自身と思われる人物、その作家仲間、有島生馬を思わせる画家などといった学習院出の自由人や、しかるべき企業の社員、大蔵省商工省の官僚などといった有閑階級の人々、および彼らの妻子、係累らで、その暮らしぶりが淡々と描かれる。
 舞台は主に東京山の手、最初の疎開先鎌倉、二度目の疎開先長野の上田だが、ちらっと軽井沢も出てくる。戦時下の軽井沢でも、この小説の登場人物のような面々が安閑とした疎開生活を送っていたのだろう。
 アジア太平洋戦争が戦われていた戦時下の日本で、この小説で描かれたような日常生活を送っていた人たちがいたのだということを知る意味では参考になるか。時おり東条英機をはじめ軍部や将官(畑、松井、杉山など実名で書いてある)に対する批判の片言も出てくるが、(戦後の執筆にもかかわらず)その批判はあまりに微温的で、登場人物たちの間に漂っていた厭戦気分がうかがえる程度である。
 建物の普請、庭の造園、家具什器(茶器や掛軸絵画など)の描写が結構出てくるが、こういった物に縁のないぼくにはまったく理解不能。(こういった体言止めもこの小説には頻出する。)挿絵があればイメージできたのだが。都心の一番町や九段坂上などで平成初期頃までは見かけたような(それ以降は大部分がマンションになってしまって今日ではほとんど見かけないが)、高さ2メートルを超す堂々とした門柱、石垣に囲まれ庭木が生い茂るような数百坪の豪邸の内部ではこんな生活が繰り広げられていたのだろうかと想像しながら読んだ。この小説には吉祥寺の3000坪の邸宅も登場する!
 高見順「故旧忘れ得べき」や丹羽文雄「鮎」などとは全く違う世界であるが、本小説に付されたあとがきによると、そんな里見でさえも(だからこそか)戦時中は事実上発表禁止の状態にあったという(748頁)。理由は高見の発禁よりは丹羽の発禁に近いもの、要するに「時局に反する」ということだろう。

 里見と言えば、学生時代に里見弴「多情仏心」を読み始めたことがあった。父親の書斎にあった筑摩書房かどこかの文学全集の1冊で、小さな活字の3段組みで数百ページもあったように記憶する。「多情仏心」を手に取った理由はというとーー。
 ぼくの通った大学の前身は七年制旧制高校で、同じ敷地内に付属高校もあった。「付属」と言いながら、付属高校が本家で大学のほうが「付属」のような新制大学だった。運動場と学生食堂だけは共用で、昼食時の学食は大学生と高校生が入り交って利用した。
 そんな学食の付属高校生の中に、ちょっと目立つ女生徒がいた。今では珍しくないかもしれないが、1969年のキャンパスで彼女ただ一人だけ膝上まであるソックスをはいていた。その彼女をデートに誘ったことがあった。千鳥ヶ淵だったか市ヶ谷の外堀だったかでボートに乗った(「赤頭巾ちゃん気をつけて」で学んだか)。
 その彼女が、付き合っている高校の先輩から「多情仏心」と墨書した手紙をもらったという。「どんな意味?」と聞かれたので、「気は多いけれど心は優しい」くらいの意味じゃないと適当に答えたが、ぼく自身が気になって、里見の「多情仏心」を読もうと思ったのであった。しかし、数ページで読む気がしなくなった。読んだところで彼女との関係に何のご利益もなさそうだった。今から思えば彼女の「多情」など、他愛のないむしろ可愛いくらいのものだったが。
 ーーこんなことを書いていたら、彼女の誕生日が5月12日で、1969年の5月12日に渋谷の東急文化会館1階の花屋で買った勿忘草(5月の誕生花だった)を春の嵐(may storm!)のなかNHKセンター近くの彼女の家まで届けたことを思い出した。
 それから50年を経てわが人生で2度目の里見弴が今回の「十年」だった。19歳の時とは違って、時間も有り余っているし、年もとったので何とか最後まで読むことはできた。
 
 きょう12月12日は小津安二郎の命日である。1963年(昭和38年)の今日、小津は亡くなった。この日は小津の60歳の誕生日でもあった。今朝のNHKラジオ「今日は何の日?」というコーナーでも、「小津安二郎、逝く」と言っていた。
 小津安二郎の「彼岸花」(昭和33年)、「秋日和」(昭和35年)は里見弴の原作であり、「青春放課後」というNHKのテレビドラマも小津と里見との共作らしい(松竹編「小津安二郎新発見」講談社α(アルファ)文庫315頁)。なお同書134頁では、里見の息子で松竹プロデューサーの山内静夫が小津への追想を書いている。
 そういえば、この里見弴「十年」という小説には小津映画のような雰囲気があったと思い至った。登場人物のセリフの語り口などは笠智衆、中村伸郎、佐田啓二、原節子、杉村春子、飯田蝶子、吉川満子らを思い浮かべながら読めばよかったかもしれない。ただし、息子の山内によれば里見は「半分べらんめえ調」だったということであり(α文庫134頁)、「十年」の登場人物の中にもそれに近い話し方をする人物がいた。小津映画の俳優たちのセリフのほうが端正な日本語である。
 小津は「十年」を映画にしようとは思わなかっただろう。昭和10年の帝国ホテルでの結婚披露宴の場面で始まり、昭和20年秋の上田の民家の座敷での結婚式(祝言)の場面で終わるあたりは小津調だが。
  
 蛇足を一本。里見の「五分の魂」という小説のことを志賀直哉は「ゴブダマ」と呼んだという(754頁)。今年の流行語大賞「ふてほど」のルーツは志賀にあったのか。

 2024年12月12日 記

 蛇足をもう一本。サリンジャーの短編の中に、ヨーロッパ戦線から帰還した兵士が戦死した戦友の遺妻を訪ねた帰りに、夏のニューヨークの夕暮れ時の街路で暢気に犬と散歩して歩く太った中年男とすれ違う場面があった。自分たちがドイツの森の中で塹壕戦を戦っていた時にもこの男は犬を連れてニューヨークの街中を歩いていたのか、と怒りを覚えたサリンジャーを思い出した。(12月13日追記)
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