特攻隊・・・ご存知ですよね。
国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら勇士たちは・・・・・・・
沖縄の海に散りました。
旅の2日目・9/11に鹿児島県南九州市知覧町の知覧特攻平和会館に行ってきました。
特攻銅像「とこしえに」
特攻隊員の出撃時の姿。右手は平和を左手は固い決意が秘められ
開聞岳を仰ぐ目は生もなく、死もなく、すでに我もない隊員の仏心をあらわしています。
「とこしえに母と共にやすらかに」の願いをこめて母の像
テレビや映画で見聞きして知ってるつもりでした。
しかし、遺影、遺品、戦闘機を目の当たりにすると
何もわかってなかった事を実感しました。
特攻隊の最年少は幾つだと思いますか?
4月に17歳になったばかりで5月に出撃されました。
殆どが20代の若者、1036名が特攻戦死。
知覧から沖縄まで約2時間。
出撃指令が出て戦闘機に乗り込むと2時間後には
戦闘機もろとも爆死で遺体さえもありません。
その事実を受け止めているのが10代・20代であった。
その我が子が死に行くのを見守るしかなかったご両親も40代位では?
平和ボケして命を粗末にする今・・・・
この方たちの命に申し訳ない気がしました。
三角兵舎
特攻隊員が出撃まで起居していた半地下式の三角兵舎。
日の丸に寄せ書きをしたり故郷へ送る遺書や手紙を書いていた。
映画「俺は、君のためににこそ死ににいく」の為に実寸大で精巧に製作された「隼」
特攻の母・島濱トメさんと隊員の碑
--館内は撮影禁止HPから写真をお借りしました。また、パンフレットを転載---
海軍零式艦上戦闘機
昭和20年5月鹿児島県甑島の手打港の沖約500m,水深約35mに
海没していたものを知覧町が昭和55年6月引き揚げた零戦。
機体が真ん中からパックリ折れています。
陸軍四式戦闘機「疾風」
若き特攻隊の英霊コーナー
1,036柱の隊員の遺影が出撃戦死した月日順に掲示、
その下には家族・知人に残した遺書・手紙・辞世・絶筆等を展示してある。
英語のパンフレット
死を前にして愛する人たちへどれだけの言葉が残せるだろうか?
印象深い遺書がありました。すべてカタカナ書き。
29歳で4歳の男の子と2歳の女の子のお父さんの遺書。
まだ文字が読めない子供たちのためにすべてカタカナ書きにした父でした。
小学校に入るとまっさきにカタカナを習うんだそうです。
字を覚えた時に目にするのが、父の遺書・・・・・・なんとも哀しい。
枝幹二大尉(22歳)の遺書
早稲田大学から学徒出陣し、第165振武隊長として指揮をとりました
“あんまり緑が美しい 今日これから 死にに行くことすら 忘れてしまいそうだ。
真っ青な空 ぽかんと浮かぶ白い雲
6月の知覧は もう蝉(せみ)の声がして 夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に 小鳥の声がたのしそう
「俺も今度は小鳥になるよ」日のあたる草の上にねころんで
杉本がこんなことをいっている
笑わせるな 本日13時35分、いよいよ知覧を離陸する
なつかしの祖国よさらば 使い慣れた万年筆を形見に送ります。”
英語のパンフレットの1を見て下さい。
「元気で征きます。」
I am happy to go.
征くには遠方まで戦いに行く。敵を打ち倒すの意があります。
死の間際の魂の叫びを英訳は表現は出来ないでしょうね。
映画「月光の夏」で知られるフッペルのピアノ
ホタル館
富屋食堂は特攻の母として慕われた「島濱トメさん」の食堂でした。
トメさんの証言通り、当時の場所に資料館として復元。
「一つしかない命を投げ捨てて
散っていった若者の事・・・忘れてはならない」
「わたしは、みんなのお母さんになりたかったの・・・・・」(島濱トメ)
島濱トメさん(1902~1992)特攻の母として隊員に愛情を注いだのは
40代だったんですね。
特攻隊員と言い、親御さん、そしてトメさん・・・この時代を生きた人達。
思った以上の若さなのに、気高さと精神年齢の高さに驚きます。
私・・・何やってんだろうな・・・・
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そして、最後に
特攻花と地元の人たちに言われる花の逸話をご紹介します。。
※特攻花については諸説あります
大金鶏菊
特攻基地だった海軍航空隊鹿屋基地周辺に多く群生し、
毎年、特攻隊の出撃が始まった3月下旬頃から発芽し始め、
出撃が続いた6月頃まで咲き誇ることから、いつしか『特攻花』と呼ばれるようになった。
天人菊
九州と沖縄の中間に位置する喜界島は知覧から出撃する特攻機の中継地点で
自らの命を犠牲にして沖縄戦に向かう若い特攻隊員が、最期に飛び立った場所。
喜界島の特攻花の逸話はこちら。
特攻花には否定説はあるけど、私は信じます。
この花が咲き続ける事で風化することなく後世に
陸軍特別攻撃隊員の事が伝えられる事を願います。
もっともっと、伝えたい事、書きたい事があるのに・・・・・・
気持ちを言い表せない文書力のなさが悔しいです。
言える事は、是非一度訪ねて今の平和を感謝して欲しいです。
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実は・・この平和会館に行くのを正直、ためらいました
なんか背負いそうな気がしてた。
それは「霊がつく」とかではなく、
なんて言うのかな~。自分の気持ちの中で処理しきれない衝撃。
ズドンと居座りそうで・・・気持ちを引きずる。
大丈夫だろうか・・・・心配が当たってしまった。
突然なんだよね。それが来たのが・・・
会館を出た後、何気なく横を向いたら首がクチって・・・
寝違え状態になって痛くて首が回らない。肩も痛い。
「あ!やっぱり・・・」って思った。
「ごめんなさい。私は力不足です。何も出来ません」って語りかけた
痛みは3日間、ずっと場所を変えつつ続きました。
温泉にも入ってるのに治らない。
「こりゃ・・・病院に行かないと治らない」程の痛みが
家に着く頃には嘘みたいに痛みは消えた
単なる、偶然。疲れ。家に着く安心感でしょうか?
でも、私は何かメッセージをもらった気がしたんです
それは「今を生きなさい」みたいな・・・・
「わかるよ。」って言ってくれる方いますか?
長々と稚拙な記事を読んでいただき有難うございました。
戦争はやだねー
その頃の日本は情報統制もされてて
教育も、お国のため。。。って強制されてて。。。
大切な命がお国のためなんて、おかしいでしょ
(なーんていうと、その頃なら私もタイホされちゃってたね)
まめちゃん、具合悪くなったのね。。
実は私もその手の場所に行くと、テキメンに出てくるよ。。
40度の高熱が続いたときは、もうダメかと思った。。。
それもまめちゃんがいうように
「今をせいいっぱい生きなさい」
みたいなメッセージだったのかなぁ~
ちなみにロブパパは諫早の特攻隊の予備隊?
(まだほんと子供だったので)みたいなのに
入ってて、戦争が長引いてたらどうなってたか
わからなかったらしいよ。。。
いまだに当時の仲間たちと月一で集まってるよ。
記事をありがとう
行きたいと思っても、なかなか行けない場所
距離感もだけど、
軽い気持ちなんかでは行けない場所
でも、行きたいと思っていました。
涙がぽろぽろと落ちます
なんかね・・・ぐわーと泣くのではなく・・・
本当に、普通の顔して記事を読んでたのに
涙だけが、ポロポロと落ちています。
まめさん
もう一回書くよ
記事をありがとう
具合悪くなったの・・・偶然なんかじゃないよ
そして、悪い意味とかじゃない
きっと、来てくれて、気持ちを添わせてくれて
そんな人だから、何か伝えたかったんだと思うな
「俺も今度は小鳥になるよ」
きっと、空を自由に飛んでるのかな?
そうであることを祈って・・・
私はこういうとこ、あまり縁がなくって行く事ないんだけど(縁がないというか自分で行ってないだけですな)まめ太郎ちゃん、すごいね!
こういう歴史はやっぱり直に触れないとわからない事、た~~くさんあるんだろうなあ。。。
私の母の兄も、若い(多分10代)頃に特攻隊に出て、そのまま戦死しちゃったんだって。。。
古い写真一枚しか見た事ないおじさんだから実感わかなかったんだけど。。。
お爺さん(おじさんの父親)は「日本は負ける、死にに行かなくていい!」って当時はとても言えないような事を言ってたらしいんだけど、おじさんは行っちゃったんだって。。。
きっと当時の人それぞれ色んなドラマが詰まってて、簡単には語れない事だらけだと思うけど、思い出しちゃったよ。
ん~~。。。戦争はやっぱり不幸だね。。。
>まめちゃん 記事UPお疲れ様でした
史実を間違わない様にって必死でした。
知らない事ばかりで・・・・・
>教育も、お国のため。。。って強制されてて。。。
そうだよね。「日本が負けるなんて絶対にない!」って教えられるし。
>大切な命がお国のためなんて、おかしいでしょ
(なーんていうと、その頃なら私もタイホされちゃってたね)
私も、逮捕されちゃう位、ジタバタするよ。
愛する人が死にいくのに、「万歳」なんて言えないよね!
「天皇陛下万歳!」って叫んで死ぬなんて考えられない。
>まめちゃん、具合悪くなったのね。。
そう。ドン!ときた。
ジェットコースター乗った時に首にGがかかる感じって
言ったらわかるでしょうか・・・?
>実は私もその手の場所に行くと、テキメンに出てくるよ。。
40度の高熱が続いたときは、もうダメかと思った。。。
ジェニちゃんは熱が出たのね。
突然きて、突然去るから不思議です。
>「今をせいいっぱい生きなさい」
みたいなメッセージだったのかなぁ~
特にね、ここではそう思えた。
高尚な魂の英霊の方が、私を苦しめるわけはないって
感じとりましたし。
「ほんと!生きていられる幸せ」を感謝しました。
>ちなみにロブパパは諫早の特攻隊の予備隊?
(まだほんと子供だったので)みたいなのに
入ってて、戦争が長引いてたらどうなってたか
わからなかったらしいよ。。。
調べてみたら、大村海軍航空隊をの分遺隊として
諫早海軍航空隊が増設とありました。
知覧の特攻隊の方も戦争が長引いてれば・・・
まだまだ多くの若い命が散っていったんですね。
>いまだに当時の仲間たちと月一で集まってるよ
うちの父も戦友会を毎年やってたよ。
もう皆さん亡くなってしまい自然消滅。
戦友ってそれは固い絆で結ばれてるようです。
>行きたいと思っても、なかなか行けない場所
距離感もだけど、
軽い気持ちなんかでは行けない場所
距離的に近くても、ずっと行けずにいました。
特攻隊員と同じ年代にも行けばよかったなって後悔してる。
自分の年でどう気持ちが変わるか見つめたかったです。
今は母親の立場ですもんね。
>でも、行きたいと思っていました。
是非機会があれば。。。。
>本当に、普通の顔して記事を読んでたのに
涙だけが、ポロポロと落ちています。
気軽に外の石碑を見てたら、いつの間にか涙が溢れ出て来てた。
タオルタオル・・・・だったよ。
>記事をありがとう
こちらこそ読んでもらって嬉しい。
何も出来ないけど、ほんのちょっとでも平和の有難味を
アピールできたらと思います。
>具合悪くなったの・・・偶然なんかじゃないよ
ですよね・・・・
>そして、悪い意味とかじゃない
きっと、来てくれて、気持ちを添わせてくれて
そんな人だから、何か伝えたかったんだと思うな
何故かしら、怖さはないんです。
この世に未練はあったとしても、自分の死に方に誇りを持ってた方々ですもんね。
>「俺も今度は小鳥になるよ」
きっと、空を自由に飛んでるのかな?
そうであることを祈って・・・
うんうん。きっと小鳥さんになってるね。
ハワイあたりでも青い海を見つめ飛んでるかもね。
鷹とか鷲とか大きな鳥ではなくて小鳥ってのが泣けるな。
>私はこういうとこ、あまり縁がなくって行く事ないんだけど
いや。。私も鹿児島に行き、近くだから行ってみるって話です。
普段は頭の隅っこにもないのがほんとです。
>こういう歴史はやっぱり直に触れないとわからない事、た~~くさんあるんだろうなあ。。。
実際、戦争のきっかけさえよく知らない・・・
うちの両親はしっかり戦中派なんだけどね。
>私の母の兄も、若い(多分10代)頃に特攻隊に出て、そのまま戦死しちゃったんだって。。。
全国から特攻隊って集まってたんです。
お写真はあっても身元とか分らない方いるんですよ。
>古い写真一枚しか見た事ないおじさんだから実感わかなかったんだけど。。。
きっとご遺骨もないんでしょうね。
そうだよね・・・10代のおじさんっていわれてもね・・・
とうに自分は通り越してるわけだし。
>おじさんは行っちゃったんだって。。。
信じられないくらいの使命感。
もしかしたら、私、しゃるさんのおじさんに出逢っていたかも?
>きっと当時の人それぞれ色んなドラマが詰まってて、簡単には語れない事だらけだと思うけど、思い出しちゃったよ。
息子さん4人亡くされてお家断絶もあるとか。
お兄ちゃんが特攻で亡くなったから、弟には行って欲しくなくても
「お国の為」って希望して亡くなった方も・・・・辛いね。
>ん~~。。。戦争はやっぱり不幸だね。。。平和っていいね
うんうん。平和っていいね。感謝
なんかね、いじめの問題が歯がゆくて仕方ない。
自殺が歯がゆくて仕方ない。
文章中に
『平和ボケして命を粗末にする今・・・・』
とありますが、命を粗末にしてるのは確実に特攻していたこの時代だと思います。
それと、いつまでも平和ボケしていたいものです。
はじめまして。
そうですね・・・・
そうかもしれません。
戦争は多くの人たちの命を奪うものでしか
ないですよね。
今ある命を、悔いがないように生きたいなって思います。