私は、
野良猫みたいに怖がりだ。
おはようございます。
子どもの頃は、黒豚と呼ばれていたけれど、
なんでもかんでも、怖かった。
ひょうきんな振りをしていたけれど、
本当は、なんでもかんでも怖かったから、人を笑わせて誤魔化していた。
誤魔化していたくせに、
明日はきっと良い日だなんて期待して眠りにつくほど、
楽天的ではなかった。
今だって、そうだ。
なんでもかんでも怖い。
明日、私は生きているのだろうか。
1年後、母さんは私を覚えているだろうか。
10年後、私はこの家にいて、猫達は穏やかに過ごしているのか。
人を笑わせていられるのだろうか。
ダサいダジャレしか言えず、すごくスベッていたら、どうしよう?
それは、今と大して変わりはしないから、まあいいか。
そんな怖がりな私には、やり過ごすための呪文がある。
胸の中に、ざわっと風が吹いた時、
私はいつだって、「うめさん、守って」と口にする。
そうすると、たいていは風が止まる。
止まらない時は、「うめさん、見ててね」と言ってみる。
そうすると、胸の中に日の光が差すような、微かな勇気が湧いてくる。
うめが居た17年間だけは、私は怖がりじゃなかった。
それまで重かった自分の命が、半分に軽くなった気がした。
私は独りで私を生きなくて良かった。
うめと一緒に生きていれば、なんでも半分になった。
布団も座布団も机も、半分はうめのスペースだったし、
私のどちらかの腕は、いつも、うめを撫ぜるためだった。
おかずが刺身だった時は、その時だけは例外だった。
うめが6、私が4の割合で食べることになるから、
この時ばかりは、理不尽だと嘆いた。
「稼いでるのは、私なのに」と、まったく大人げない事を言ってしまった。
猫を拾ったら、私とうめで育てた。
猫達が喧嘩したら、私が叱り、うめが慰めた。
うめが叱る時は、私も続いて叱ってしまうから、
叱られた猫は、私への遺恨だけが残った気がした。
考えてみたら、力量は半分ずつじゃない。
完全に、うめが上だった。
器量も気立てもだろうが、それは仕方がない。
だって、うめは、柔らかな被毛を持つ、美しい猫だったのだから。
私は、超合金みたいな髪質のくせに体毛は薄いから、仕方ない。
これを読んで、「そこじゃない」と言いたい人も多いだろうが、
分かっています。
うめが居なくなって以来、
私の半分が私に返されたから、
私は、また野良猫みたいに怖がりに戻ってしまった。
おたまとたれ蔵は、仲良く過ごして行けるのだろうか。
酷い喧嘩なんてしたら、どうしよう。
20年後、私は私のもとに居る猫達を、
無事に極楽へ見送ってやれているだろうか。
私は、空を見上げて、笑っているのだろうか。
そんなことを考えると、ざわっと風が吹き、
私は、ほんの少し、うめに似ている、のん太に言う。
「うめ、守って。見ていてね。」
のん太、たれ蔵を頼むぞ。
なぜか、のん太は人望ならぬ猫望が厚い。
というか、猫達の愛されキャラだ。
そういうところも、うめに似ている。
似ていると、思いたいだけなのかもしれないな。
うめさん、見ててね
うめ「へっ?あたしゃ、とっくにプロバンスの豪邸で
美人のお姉さんとテレビ観てるんだけど?」
生まれ変わって、プロバンス地方の豪邸で暮らしてんの?
プロバンスて!