気ままに

大船での気ままな生活日誌

芸術の秋

2006-09-10 21:41:06 | Weblog
芸術の秋ですね。うちの近くの鎌倉芸術館でも、いろいろな展覧会が開かれるようになりました。今も、二つの絵画サークルの展覧会が開かれています。散歩がてら、ちょっと覗いてみました。まず、水彩画の部屋に入りました。淡い色彩の、ほっとするような、いい絵ばかりでした。それに、見慣れた風景が描かれています。鎌倉の華頂宮邸とか鎌倉湖、寿福寺の参道もありました。横浜の景色も、私の良く知っている建物や風景です。

横浜開港記念館の絵を見ていて、あれ、どこかで見たような絵だなと思い、しばらくして、気づきました。私の親父の絵です。親父は退職した後、しばらくして、色鉛筆による写生画をはじめました。製鉄所に勤めていた、いかつい親父でしたから、こんな趣味をもつようになるなんて、夢にも思いませんでした。数年すると、人にみせても恥ずかしくないような絵を描くようなりました。3人の子供達に自分の自信作を渡して、10数年前にこの世を去りました。私は、牛久シャトーの洋館と、パリの落葉がいっぱいのリュクサンブール公園のベンチに座っている私とワイフの絵をもらいました。どちらも私達夫婦にとって思い出の景色なのです。色鉛筆と水彩の違いはありますが、スケッチの描き方がよく似ていて、思い出したのでした。

隣りのギャラリーでも、地元の絵画サークルの発表会がありました。裸婦、自画像、娘とか、人物画が多くみられました。これがアマチュアの絵か、と思うレベルのものが、たくさんありました。こんな上手な人ばかりだと、ずぶの素人はサークルに入りたくても、躊躇するだろうなと思いました。私がもし絵を始めるとしても、やはり、親父のように、先生なしの自己流になるのではないかと思いました。

もうひとつ先のギャラリーでは、販売を兼ねた、有名作家の展示会がありました。東山かいい、平山郁夫、後藤純夫など錚々たる作家の日本画が飾られていました。ときたま、大船ルミネでこの種の展示があるときは、うるさいくらいに係りの人が寄ってくるのですが、ここでは、質問しない限り、黙っていてくれます。公共的な会場なので、きっとそういう条件で貸したのではないかと推測します(笑)。おかげさまで、ゆっくり鑑賞させてもらいました。

まだしばらく、芸術の秋は続きます。また、散歩の途中、覗いてみようと思います。











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黒四(くろよん)ダム、再び

2006-09-10 08:49:02 | Weblog
先月の旅行のとき、黒四ダムの一角にある、171名にものぼる殉職者に対する慰霊碑の前に佇んでいると、ワイフが、こう話しかけてきました。たしか、このダム工事は、NHKのプロジェクトXに取り上げられたよね、工事関係者が、この碑の前で話していたのを覚えている、と。

今日、そのことが、ふと頭に浮かび、是非、その番組を再度みてみたいと思い立ち、本郷台駅前のアースプラザに向かいました。夏の初めにワイフと何気なく、ここに入って、見学しているうちに、そこの映像ライブラリーが、プロジェクトXシリーズのビデオをもっているのを知ったからです。

すぐ目的のビデオは見つかりました。173回続いたこのシリーズのうち、この黒四関係は、第14回のものでした。2000年6月放送で、「厳冬黒四ダムに挑む」というタイトルでした。

早速、ビデオをスタートさせます。進行係の國井雅比古さんと久保純子さんの見慣れた顔が現れます。たしか、くぼじゅんは途中で代わったっけな、やっぱり顔が若いね、など余計なことを考えているうちに、あの独特の名調子のナレーションにどんどん、引き込まれていきます。

忘れてしまっていたことばかりでした。当時、関西の電力事情がそんなに逼迫していたとは思いませんでした。7年以内に黒部ダムが完成しなければ、関西の経済は一気にしぼんでしまう、そういう背景があったのです。ところが、この工事は前代未聞の困難が待ち受けています。3000メートル級の立山連峰の向こう側にダムをつくるのですから、大変なことです。山の向こうに60万トンの資材を運搬しなければなりません。

資材運搬のためのトンネル工事を長野側と富山側から行いますが、困難を極め、工期7年という絶対条件がくずれそうです。そこで、「大まむし」とよばれた現場総指揮者、中村精(くわし)さんが登場します。目標達成のため、前代未聞の大作戦を展開します。400人の強力(ごおりき)が、絶壁に作られた、1人がようやく通れる細い板の道を荷物をかついで運びます。また、立山の尾根を何十台もの(数の記憶はあいまいです)ブルドーザーで越え、そりで黒部側にすべり降りるという荒技を強行します。加えて、マイナス20度という厳冬期に、黒部側に数百人の若者を越冬させ、トンネルの向かい堀りをさせます。

筋金入りのダム屋、中村さんは口だけの人ではありません。朝一番に現場をくまなく回り、安全点検していたそうです。7年間、現場にはりつき、単身赴任を通したそうです。どんな無理を言っても部下がついてくるはずです。

越冬隊の辛苦は想像を絶するものでした。ご飯と味噌、それに缶詰という乏しい食料、困難な労働、そういう過酷な条件の中で、同時期に行われていた南極越冬隊に自分たちを重ね合わせ、使命感に燃えて頑張ります。若い医師、鈴木さんも、大まむしの、たっての願いで越冬隊に入り、若者の健康管理やよろず相談役として、兄貴と慕われます。新婚の奥さんを残しての単身赴任です。一時帰郷の人に、何か奥さんにおみやげはと、尋ねられ、私の手のぬくもりをと、その人に握手して渡します。手を洗わずに、奥さんに返したそうです。

延べ1000万人に及ぶ人々が関わった、この巨大なプロジェクトは、リスクもあった黒部川せき止めの大発破にも成功し、昭和38年、予定の7年で完成します。しかし、この間、多数の殉職者も出ました。中村さんも部下を51人もなくしています。

放送時、91才の中村さん、この碑の前で、この人達のおかげでこのダムが出来た、と涙ぐみます。昭和30年代の、このダム工事に携わった男達は、私の父と同じ世代です。父も製鉄所で汗と涙にまみれ頑張りました。戦後の日本の復興に力を尽くされたこの世代に最敬礼です。











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