気ままに

大船での気ままな生活日誌

小林秀雄さんのモーツアルト論

2006-11-01 07:27:13 | Weblog
私は小林秀雄さんの本が好きです。内容はよく理解できなくても、心に響く文章がところどころに散りばめられているからです。その文章をまた、目で追い、朗読してみたいために何度も読み返すのです。たとえていえば、クラシック音楽のある一節だけが好きで、それを聴きたいために、そのレコード(CD)を何度もかけてみるのとよく似ています。

私の好きな文章がたくさんちりばめられている小林さんの作品は、「モーツアルト」、「徒然草」、「西行」がベスト3です。今日は、生誕250周年記念で演奏会の多い、「モーツアルト」の中から、いくつかの文章を紹介しましょう。それぞれについてはコメントしません。音楽と同じです。それぞれの人の感じ方でいいのです。

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「確かに、モーツアルトのかなしさは疾走する。涙はおいつけない。涙の裡(うち)に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなしい」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家はモーツアルトの後にも先にもいない」

「ワグネルの曖昧さを一途に嫌ったニイチェは、モーツアルトの優しい黄金の厳粛を想った。ベートーベンを嫌い又愛したゲーテも又モーツアルトを想ったが、彼はニイチェより美について遙かに複雑な苦しみを嘗めていた。」

「僕の乱脈な放浪時代のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていたとき、突然、このト短調シンフォニーの有名なテーマが頭の中に鳴ったのである。僕がこの時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとかそういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう。とにもかく、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった・・・」

「僕は、その頃、モーツアルトの未完成の肖像画の写真を一枚持っていて、大事にしていた。それは巧みな絵ではないが、美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が表れている奇妙な絵であった。モーツアルトは、大きな眼を一杯に見開いて、少しうつむきになっていた。人間は、人前で、こんな顔が出来るものではない。彼は、画家が眼の前にいる事など、全く忘れてしまっているに違いない。二重まぶたの大きな眼は何にも見てはいない。世界はとうに消えている・・・ト短調シンフォニーは、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いない、僕はそう信じた。何という沢山の悩みが、何という単純極まる形式を発見しているか。内容と形式との見事な一致という様な尋常な言葉では言い現わし難いものがある。」

「構想は、あたかも奔流のように鮮やかに心の中に姿を現わします。しかし、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とてもこれに一指も触れることはできません」

「音楽の代わりに、音楽の観念的解釈で頭をいっぱいにし、自他の音楽について、いよいよ雄弁に語る術を覚えた人々は、大管弦楽の雲の彼方にモーツアルトの可愛らしい赤い上着がちらちらするのを眺めた」

「天才とは努力しうる才だ、というゲーテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。努力は凡才でもするからである・・・」

「モーツアルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたということであった・・・」

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これらの文章を読むと、まるで、モーツアルトの音楽を聴くようです、私には。
コメント
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