数日前の朝日新聞の文化欄に掲載されていた、越路吹雪さんの特集記事を読みながら、久し振りに彼女のシャンソンも聴いてみたいなと思っていました。それが、うまい具合に昨晩もう実現しました。NHKの「蔵出しエンターテイメント」の番組で、1976年の「越路吹雪、愛そして」が放送されたのです。
45分の番組でしたが、えっ、もう終わりなの、と言ってしまったほど濃密な、感動あふれるショーでした。「バラ色の人生」から始まり、夫君作曲の「ちょっとおたずねします」などを経て、後半は、アダモの「夢の中に君がいる」、「サン・トワ・マミー」、「ろくでなし」、「ラストダンスは私に」と名曲が続きます。越路さん独特のふるえるような、情感込められた歌声に魅了されます。「ラストダンス」がラストソングかと思わせておいて、流し目で次ぎのメロデーを呼びます。残っていました、名曲中の名曲「愛の讃歌」です。この歌を聴いていると、本当に越路さんはこの歌が一番好きなんだなと感じます。もちろんそれまでの歌もすばらしいのですが、この歌は越路さんにとっても特別なのだという感じが素人の私にも伝わってきます。それだけ聴き手にも深い感動を与えるのでしょう。
直接関係ないことなのですが、先週みた歌番組で春日八郎さんが「逢いたかったぜ」を本当に気持ちよさそうに歌っていましたが、春日さんの、おそらく自分のベストソングは別れの一本杉やお冨さんではなく、それで、越路さんのそれは「愛の讃歌」なんだと思います。
私が、越路吹雪さんに関心を持ち始めたのは、若いときの愛読書のひとつであった、草柳大蔵さんの「実力者の条件」シリーズで、越路さんのエピソードの数々を知って以来だと思います。今も私の本棚にありますので、開いてみますね。
舞台だけみていると、すごいしっかりした姉御肌の女性にみえますが、日常生活はひどいらしいですよ、なにも出来ないらしいです(笑)。ご主人の内藤さんまであきらめの境地に入って「とにかく珍しい動物を飼っていると思っています」と話していたそうです。
29才のとき、単身でパリに行きますが、ホテルの予約もしていなくて、そのときパリに滞在していた、小林秀雄さんと今日出海が身元引受人になって、自分のホテルに泊めてあげたそうです。そこでも面白いエピソードがあります。夜、部屋の外にあるトイレに行って、自動ロックされてしまった部屋に戻れないと言ってネグリジェ姿で今さんのドアをノックしたそうです。ホテルの人に開けてもらってなんとか収まりました。そして数時間後、またノック。またやっちゃたと、今度は泣き顔の越路さんがドアの外にいたそうです。
そのパリで、越路さんは藤浦洸さんにエディット・ピアフのリサイタルに連れていってもらいます。舞台をはねてからの彼女の興奮ぶりがたいへんだったそうです。劇場を囲む森の中で「アレンジよ、これからはアレンジよ」と、腕を振ったり、足を上げたりしながら叫んでいたそうです。まるで月に向かって吠えているようだった、と藤浦さんは語っていたそうです。先日の新聞の特集では、この日の出来事を越路さんの日記からと、こう紹介しています、「ピアフを二度聞く、語ることなし、私は悲しい、夜、ひとりで泣く、悲しい、淋しい、私には何もない、何もない、私は負けた、泣く、初めてパリで」。この若き日の、パリの一日が、その後のシャンソン歌手としての大成に大きな意味をもつことになります。そしてピアフの「愛の讃歌」が越路さんのベストソングになるのです。
越路さんは、語るようにシャンソンを歌いたい、そのためには日本語訳で、と早い時期から考えていたようです。そして、現在も91才でお元気な、岩谷時子さんが、すばらしい日本語訳をつけてくれて、越路さんの希望に添った、日本のシャンソンが出来上がったのです。
越路さんは若いときの日記に、「七十才まで、私は歌を歌おう、七十才にならなければ歌えぬ歌があるはずだ」と書き付けていたそうです。56才の若さでお亡くなりになりましたが、今もご存命であれば、”80才の愛の讃歌”をしみじみと聴いてみたかったです。
45分の番組でしたが、えっ、もう終わりなの、と言ってしまったほど濃密な、感動あふれるショーでした。「バラ色の人生」から始まり、夫君作曲の「ちょっとおたずねします」などを経て、後半は、アダモの「夢の中に君がいる」、「サン・トワ・マミー」、「ろくでなし」、「ラストダンスは私に」と名曲が続きます。越路さん独特のふるえるような、情感込められた歌声に魅了されます。「ラストダンス」がラストソングかと思わせておいて、流し目で次ぎのメロデーを呼びます。残っていました、名曲中の名曲「愛の讃歌」です。この歌を聴いていると、本当に越路さんはこの歌が一番好きなんだなと感じます。もちろんそれまでの歌もすばらしいのですが、この歌は越路さんにとっても特別なのだという感じが素人の私にも伝わってきます。それだけ聴き手にも深い感動を与えるのでしょう。
直接関係ないことなのですが、先週みた歌番組で春日八郎さんが「逢いたかったぜ」を本当に気持ちよさそうに歌っていましたが、春日さんの、おそらく自分のベストソングは別れの一本杉やお冨さんではなく、それで、越路さんのそれは「愛の讃歌」なんだと思います。
私が、越路吹雪さんに関心を持ち始めたのは、若いときの愛読書のひとつであった、草柳大蔵さんの「実力者の条件」シリーズで、越路さんのエピソードの数々を知って以来だと思います。今も私の本棚にありますので、開いてみますね。
舞台だけみていると、すごいしっかりした姉御肌の女性にみえますが、日常生活はひどいらしいですよ、なにも出来ないらしいです(笑)。ご主人の内藤さんまであきらめの境地に入って「とにかく珍しい動物を飼っていると思っています」と話していたそうです。
29才のとき、単身でパリに行きますが、ホテルの予約もしていなくて、そのときパリに滞在していた、小林秀雄さんと今日出海が身元引受人になって、自分のホテルに泊めてあげたそうです。そこでも面白いエピソードがあります。夜、部屋の外にあるトイレに行って、自動ロックされてしまった部屋に戻れないと言ってネグリジェ姿で今さんのドアをノックしたそうです。ホテルの人に開けてもらってなんとか収まりました。そして数時間後、またノック。またやっちゃたと、今度は泣き顔の越路さんがドアの外にいたそうです。
そのパリで、越路さんは藤浦洸さんにエディット・ピアフのリサイタルに連れていってもらいます。舞台をはねてからの彼女の興奮ぶりがたいへんだったそうです。劇場を囲む森の中で「アレンジよ、これからはアレンジよ」と、腕を振ったり、足を上げたりしながら叫んでいたそうです。まるで月に向かって吠えているようだった、と藤浦さんは語っていたそうです。先日の新聞の特集では、この日の出来事を越路さんの日記からと、こう紹介しています、「ピアフを二度聞く、語ることなし、私は悲しい、夜、ひとりで泣く、悲しい、淋しい、私には何もない、何もない、私は負けた、泣く、初めてパリで」。この若き日の、パリの一日が、その後のシャンソン歌手としての大成に大きな意味をもつことになります。そしてピアフの「愛の讃歌」が越路さんのベストソングになるのです。
越路さんは、語るようにシャンソンを歌いたい、そのためには日本語訳で、と早い時期から考えていたようです。そして、現在も91才でお元気な、岩谷時子さんが、すばらしい日本語訳をつけてくれて、越路さんの希望に添った、日本のシャンソンが出来上がったのです。
越路さんは若いときの日記に、「七十才まで、私は歌を歌おう、七十才にならなければ歌えぬ歌があるはずだ」と書き付けていたそうです。56才の若さでお亡くなりになりましたが、今もご存命であれば、”80才の愛の讃歌”をしみじみと聴いてみたかったです。