昨日は安部総理の突然の辞任発表、びっくりしましたね。徒然草第112段の心境なのでしょうか。
「日暮れ、みち遠し。吾が生(しょう)すでに蹉跎(さだ;つまずいて進まないこと)たり。諸縁を放下すべきときなり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂いともいへ、うつつなし、情けなしとも思へ。そしるとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ」
現代語訳しますね。「もう日が暮れているのに、道はまだ遠い。なのにつまずいてばかり、前に進まない。今こそ、世間のもろもろの縁を切るときだ。約束も守らない、礼儀も考えまい。この決心の真意の分らない人は、気がおかしくなったのか、ばかじゃないかとか、情けないとかいろいろ言うだろうけれども、そんなことは気にしない。また誉める人がいたとしても、その言葉も耳に入れない」
「清貧の思想」などの著作のある中野孝次さんも、この第112段で永年勤めてきた大学を辞めました。ただ中野さんの場合は、「すでに蹉跎たり」を「もう自分の人生はケリがついた、これだけのものだ」という解釈をして、しがらみが一杯の大学を離れ、自由気ままな文筆活動に入ったのでした。そして、すごいのは、その後、冠婚葬祭などの世間の義理ともきっぱり、おさらばしたそうです。
うらやましい人生ですね。兼好法師のような生活、これは男なら(女でも)きっと誰でも一度は、憧れると思います。でも、家庭をもつと、なかなか決心できませんよね。定年前に会社を辞めたら、妻子が路頭に迷うかもしれないし、それに、ぼんくらが、一人で、庵で住んで、哲学的なことばかり考えていたら、頭がおかしくなってしまうでしょうね(笑)。
あの兼好法師でさえ、のんきに暮らしていたわけではありません。小林秀雄さんの言を借りれば、「兼好は徒然なるままに徒然草を書いたのであって、徒然わぶるままに書いたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、眼が冴えかへって、いよいよ物が見えすぎ、物が分りすぎる辛さを、”怪しうこそ物狂ほしけれ”と言ったのである」。並の神経の持ち主では庵のひとり生活は無理ということですね。
ボクも結局、だらだらと定年まで職場に勤めてしまいました。せめて定年後はと、一切職に就かず、元の職場から遠く離れたところに引っ越し、気ままな生活を送っているのでございます。しがらみは大部減りましたが、”世間の義理”まで捨てきることはまだ出来ていません。まだまだ修行が足りませんね(笑)
・・・・・
兼好法師は二度ほど鎌倉を訪れています。現在は横浜市の管轄ですが、金沢文庫のあたりも当時は鎌倉幕府の領内でしたが、そこに住む知り合いを訪ねているのです。そのとき、ボクの散歩道、いたち川沿いを上って行ったようなんです。写真は当時の面影を今も残す、いたち川上流の風景です。
「日暮れ、みち遠し。吾が生(しょう)すでに蹉跎(さだ;つまずいて進まないこと)たり。諸縁を放下すべきときなり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂いともいへ、うつつなし、情けなしとも思へ。そしるとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ」
現代語訳しますね。「もう日が暮れているのに、道はまだ遠い。なのにつまずいてばかり、前に進まない。今こそ、世間のもろもろの縁を切るときだ。約束も守らない、礼儀も考えまい。この決心の真意の分らない人は、気がおかしくなったのか、ばかじゃないかとか、情けないとかいろいろ言うだろうけれども、そんなことは気にしない。また誉める人がいたとしても、その言葉も耳に入れない」
「清貧の思想」などの著作のある中野孝次さんも、この第112段で永年勤めてきた大学を辞めました。ただ中野さんの場合は、「すでに蹉跎たり」を「もう自分の人生はケリがついた、これだけのものだ」という解釈をして、しがらみが一杯の大学を離れ、自由気ままな文筆活動に入ったのでした。そして、すごいのは、その後、冠婚葬祭などの世間の義理ともきっぱり、おさらばしたそうです。
うらやましい人生ですね。兼好法師のような生活、これは男なら(女でも)きっと誰でも一度は、憧れると思います。でも、家庭をもつと、なかなか決心できませんよね。定年前に会社を辞めたら、妻子が路頭に迷うかもしれないし、それに、ぼんくらが、一人で、庵で住んで、哲学的なことばかり考えていたら、頭がおかしくなってしまうでしょうね(笑)。
あの兼好法師でさえ、のんきに暮らしていたわけではありません。小林秀雄さんの言を借りれば、「兼好は徒然なるままに徒然草を書いたのであって、徒然わぶるままに書いたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、眼が冴えかへって、いよいよ物が見えすぎ、物が分りすぎる辛さを、”怪しうこそ物狂ほしけれ”と言ったのである」。並の神経の持ち主では庵のひとり生活は無理ということですね。
ボクも結局、だらだらと定年まで職場に勤めてしまいました。せめて定年後はと、一切職に就かず、元の職場から遠く離れたところに引っ越し、気ままな生活を送っているのでございます。しがらみは大部減りましたが、”世間の義理”まで捨てきることはまだ出来ていません。まだまだ修行が足りませんね(笑)
・・・・・
兼好法師は二度ほど鎌倉を訪れています。現在は横浜市の管轄ですが、金沢文庫のあたりも当時は鎌倉幕府の領内でしたが、そこに住む知り合いを訪ねているのです。そのとき、ボクの散歩道、いたち川沿いを上って行ったようなんです。写真は当時の面影を今も残す、いたち川上流の風景です。