夏目漱石の小説”彼岸過ぎまで”の題名は、この本を彼岸過ぎまで、書き上げないという単純な発想でつけたものだそうである。ぼくも、彼岸過ぎまで、大阪旅行の原稿を仕上げなければならないと思い、こういうタイトルにした(笑)。何故かというと、金曜日からまた、九州旅行にでかければならないし(汗)、クラス会の写真も出来上がったので、幹事として、その頃までには、郵送しなければと思っているのだ。なんとか、会費内でおさまって良かった(そんなこと、誰も聞いてないって?)結構、暇だけど、多忙なのだ(汗)。
それに今日はお彼岸のお墓参りに行くので、それまでに一本仕上げてから出掛けようと思っている。まるで、流行作家みたいだな(爆)。
大阪城は、梅が咲いているときに一度行ったくらいで、天守閣に登ったのも今回が初めてだし、ゆっくりと、城内公園を巡ったのも初めてだった。広大な敷地なので、それでも半分も廻っていない。
大阪城は秀吉が建てたものだが、その後、家康が天下をとったあと、ぶちこわし、新たに、全国の大名に普請し、立て直したものだそうである(知らなかった)。だから、石垣なども、全部、家康のときのもので、秀吉時代の石垣とはダンチにりっぱなものになっているノダ。たしかに、すばらしい石垣だった。ワイフの故郷、熊本城もりっぱだが、ワイフも、ここにはかなわんとシャッポを脱いだ。で、ぼくも、天守閣や櫓よりも、石垣に目を奪われた。実際工事費用の7割は石垣などの土木工事に使われたと、なにかの本に書いてあった。
天守閣もりっぱだが、ちなみに今の天守閣は3代目で、昭和3年に市長が再建を提案し、大阪市民の寄付をつのり、目標の150万円をあつめ、建てたとゆうから、当時の大阪市民はえらいと思う。今なら、一般市民は、なんとか手当てやら、なんやかんやら貰うことばかり考えて、金持ちは金持ちで、そんなのは税金でやれと、びた一文出さないだろう。
”大阪城の石垣は100%花崗岩の切り石ばかりで、石垣全体にみられる扇の紅梅の見事な曲線も石積みの技術の高さをしているし、巨石のふんだんな使用も目を見張るものがある”と図書館で借りた渡辺武著”大阪城歴史散策”に書いてある。たしかに、すごいなと思う。いくつか写真を撮ってきたので、そんな目でみて欲しい。
前述のように、これらの石垣工事は家康が、全国の大名にやらせているので、石材は全国からよりすぐりの石が集まっているのだが、それらの石には、自分らの家紋を刻んでいるのが面白い。肥後藩とか若狭小浜藩(オバマ大統領を応援した)、丹後宮津藩とかのシンボルがみられる。こうゆうのを探すのも面白いだろう。これは何藩だろうか、○に+が入っている。島津藩かな。
巨石も多い。よく運んだなと思う。
これが、大阪城で一番とゆう、桜門の巨石。真ん中のが最大で”蛸石”という。左側が振袖石で場内3位だとのこと。大きさがわかるように、美人モデルを立たせた。うちの奥さんである(汗)。
石垣以外にも、見どころたくさん。でも時間が足らなくて、とても全部はみられなかった。
これは豐国神社。秀吉の遺言で京都の東山に建てられたが、滅亡後、社は衰退したが、明治元年、天皇により京都に再建され、後に中之島に別社が建立され、昭和36年、それがここに移築されたとのこと。
なんとか櫓。櫓は重要文化財のものがいくつかある。これもそのひとつだと思う。
こんなに広い。築城前はこの地は、石山本願寺であったので、蓮如上人の袈裟架の松なども観たかったが、雨も降り出し、次回ということにした。