福沢諭吉は、1862年(文久2年)に、20日間ほどパリに滞在している。そのとき泊まったホテルが、ホテル・デュ・ルーブル。道を挟んで、ルーブル美術館のリシュリール翼の真ん前になる。ぼくらの泊まったホテルもその近くで、美術館に行くとき横を通る。そのホテルの前で、ホテルに背を向けて(笑)カメラを向けたこともある。オペラ大通りの突き当りにある緑の屋根がきれいなオペラ座を撮るためだ。
竹内下野守正使を団長とした幕府の遺欧使節団の一員(通訳方)としてやってきた。当時、ルーブル美術館はもちろん開設していたし、向かいのホテルに宿泊しているのだから、当然、見学していただろうと、思っていた。しかし、福沢らは、美術館には寄っていないということを聞いた。本当か、彼らは、いったい、二十日間パリで、どういう行動をとったのか知りたくなった。帰ってから調べてみた。福沢諭吉著の ”福翁自伝”と”西洋事情”をあたってみた。
まず、”福翁自伝”。これは速記者を前にして60年の自分の人生を語ったもので、中津の幼少期から大阪の緒方塾での修業、そして江戸へ出てきて、と続き、遺欧使節団のことが出てくる。パリ滞在の記述はわずか数ページである。
福沢は、この渡欧の1年前に咸臨丸で渡米している。そのときは軍艦奉行の従僕の名義での随行(自分で売り込んで押し込めてもらった)だったが、今回は堂々の通訳係で、四百両という高給ももらった。ついでながら、そのうち百両を”親不孝”ばかりしている、中津の母親に送り、残金は使うこともないので、英国での洋書購入に充てた。輸入洋書のさきがけだそうだ。さて、福沢らは、文久元年12月、英国の迎い船オージン号に乗り込み出航。香港、シンガポール、インド洋、 紅海と進み、スエズから上陸、カイロで二泊。地中海を船で渡り、マルセイユへ。蒸気車に乗り、リオン一泊、そしてパリに到着した。そこからの行動が面白い。
使節団は、外国では食事が不自由に違いないと、白米入りの何百の箱、また照明器具も必要だろうと、多数の行燈、提灯、蝋燭等を持参してきた。大名が東海道を通行し、本陣に宿泊するような考えだった。そこに、フランス側の接待員がやってくる。こちらの所望を伝える。荷物も多い、随行員も多いので、本陣のほか近くの下宿を用意してくれないかと。すると接待員が言うには、こればかりの人数、一軒の旅館で十分だという。
一軒で?怪訝に思っていたが、おどろくことに、その旅館は、ホテルデロウブルという広大な家で 五階つくりで600室、ひぼく(召使)500人で、旅客は千人以上差支えなしだった。各室には暖かい空気が流通するからストーブもなければ、蒸気もなし、無数のガス灯がつき明るい。食堂には山海の珍味を並べ、いかなる西洋嫌いも口腹に攘夷の念はない、みんな喜んでこれを味わう。必要がなくなった、米をはじめ、諸道具の一切を接待掛にあげた(原文をなるべく生かしている)。
失策物笑いは数限りなし。シガーをシュガーと間違えたり、人参と生姜を混同したり、一番の傑作は便所のことだった。二重の扉を開けっ放しにして、殿様が洋式トイレを日本式で用をたす、それを家来が腰のものを引き上げ、手助けをする、廊下は公道みたいなものだから、通行する女性にもまる見えになる。そっと、扉を締め、家来に事情を話してやったよ。
さて、パリでの行動は?これについては、何の記述もみつからない。ただ、使節団にお目付け役がいて、行動は制限されていたようだ。でも、いろいろな重要人物とは会っていたようだ。
福沢は、この渡米(2回)、渡欧の経験をもとに、のちに”西洋事情”を書く。これに、ルーブル美術館のことが載っているかもしれない、と探してみる。西洋の政治形態をはじめ、さまざまな項目についての論述がある。”新聞紙”の次に”文庫”がある。図書館のことだ。”西洋諸国の都府には文庫あり。ビウリオテーキと云う。日用の書籍調査 古書珍書、萬国の書。パリ(ス)の文庫には百五十万巻あり。仏人云う、文庫の書を並べると七里になるべしと”
さらにページを括ると、”博物館”の項がある。もしやこれに出ているかも。”世界中の物産を集めて人に示し、見分を博くする為に設けるものなり。そして、鉱物博物館、動物(剥製)博物館、動物園(世界中の珍獣・奇獣集めタリ)、植物園、医学博物館(骸骨や病気の臓器などを蒐集せり)と、言及するが、美術品の記述はここにはないし、他の項目の中にも触れられていない。
とうわけで、福沢諭吉がルーブル美術館に立ち寄ったか、どうかの確たる証拠はない。ただ、パリの国立図書館(ビブリオテーク・ナショナル)には寄って、係員から話しを聞いていることが分かった。旧国立図書館は今もあり、ホテルから5分くらいのところにある。”博物館”の記載から、パリの現自然史博物館、動物園、植物園を廻った可能性はある。(のちの英国での見聞の可能性もある)。また、ホテルの裏のルーブル博物館にも寄ったと考えるのは自然だろう。そこで、ミロのビーナスやモナリザを観ていたにちがいない。公務の海外視察だから、そのあたりは黙っていただけだろう。まあ、どうでもいいことだ。
結局、わけのわからない結論になってしまったが、こうして、パリから帰ったあと、いろいろ昔、読んだ本を引っ張り出して、ながめるのも、なかなかいいもんでごわす。
。。。。。
福沢諭吉の泊まったホテル ホテル・デュ・ルーブル
(これは夜のホテル/別冊太陽から拝借)
ホテルを背にして、みるオペラ座 たぶん、福沢はここも行っているはず
ホテルのうしろはルーブル美術館 絶対、行っているはず
ハムラビ法典もみているはず
ミロのビーナスも
歩いて5分、パリの市庁舎。ここは公務で訪れただろう
仕事帰りに近くのノートルダム寺院も行っただろう
そしてステンドグラスのうつくしさに驚き、ステンと転んだろう
ナポレオンのお墓参りも、当然だろう。アンバリッド。
凱旋門もね。
エッフェル塔は遠くから眺めただけだろう
ムーランルージュで息抜きをしたことは言うまでもない(断定)