気ままに

大船での気ままな生活日誌

染付/藍が彩るアジアの器

2009-08-20 10:05:03 | Weblog


今まで、元時代(14世紀)にあらわれたいう、白地に青の文様の、青花(染付)は、どれもこれも同じようにに見えて、あまり面白くないと思っていました。でも先月、松岡美術館で、結構いいなと思うのが、いくつかあって、染付にも関心をもつようになりました。とにかく初心者ですから(汗)。

今回、東博の染付展をみて、染付もなかなかいいじゃないかと、さらに”前進”しました(笑)。染付の源流は元時代の青花ですが、それが、ベトナムや朝鮮、さらに日本に渡って”進化”してゆく、その様が一堂にみられ、なんとも楽しい展覧会になっていました。

ぼくは、源流の元時代のものより、支流の、朝鮮やベトナムの染付の方に惹かれました。18世紀、朝鮮時代の青花秋草文壺も気に入ったひとつです。余白をいっぱいとり、淡い青色の秋草が控えめに咲いている。ああ、これも染付の一種なんだ、生物の進化と同じで、ずいぶん多様性があるんだな、と思いました。

これは、朝鮮の青花秋草文筆筒(ちらしの写真から)


日本の染付は伊万里と鍋島対決(笑)。ふむふむ、なかなかいいですね。日本人好み(あたりまえ)の染付。ぼくが気に入ったのには、出品目録に○をつけていますが、3対0で鍋島の勝ち(笑)。あ、そうそう、元商工省陶磁器試験所長だった平野耕輔さんの伊万里染付大皿コレクションのコーナーがあって、それに二つの○がついていましたので、正確には3対2。甲乙つけがたしというところかな。ワイフは伊万里も鍋島も好き。九州出身だから、九州のものなら何でもいいのだろう(爆)。そういえば、唐津もいいと言ってたし。

鷺の文様の、鍋島皿。


はっと思ったことがひとつありました。前述の平野コレクションのコーナーだった思いますが、大皿ふたつに、それぞれ山の幸(まつたけ)と海の幸(えびや貝類)が盛りつけて展示してありました。白地に青の文様の、地味な大皿が、なんだか、とても活き活きとして、またうつくしくみえました。そうか、ぼくらは、普段、美術品としてしかみていないですが、本来はこうゆうときに、(働いているときに)美しく輝くのが、いい食器なのかもしれないと思いました。

ぼくの心を見透かしたように、ラストの展示室のテーマは”染付の美を活かす”。”お茶とお酒のおもてなし”の例として、染付を中心とした茶道具や食器類が、それぞれ、セッティングされていました。やはり、どの染付も、輝いていました。働いている姿はうつくしいのだ。

こんな食卓で毎日、晩酌ができたら、なんてすばらしいことだろう。ぐい飲みは、さすがに染付ではなく、唐津だった。この前、平塚の骨董屋さんでみた18万円の唐津のぐい飲みを思い出した。よく似ている。でも、これはその10倍の値だろうか。


染付の源流 元の染付


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酔芙蓉の一日

2009-08-18 21:50:30 | Weblog
ぼくの朝の散歩道に、一株の大きなスイフヨウ(酔芙蓉)があって、最近、咲き始めました。この花は、朝は純白ですが、次第に紅く色づいてきて、その様がまるで、お酒をいただいた美女に酔いがまわってゆくようなので、こんな粋な、名前がついたのです。

ここ2,3日、朝の白い花の酔芙蓉を観ていて、どうしても、ほろ酔いから、本格的に酔って、さらには、ぐてんぐてんに酔いつぶれる、美女の姿を時間を追って、観たくなりました。

それで、昨日、朝の散歩時と、午前中に、そして、午後の鎌倉ハイカイ(今日は八幡宮の国宝館と鏑木清方記念館等)前と帰宅時の、計4回、酒飲み美女の様子をそっと覗き見してきました。うふふ、見事な酔いぷりでしたよ。
。。。

朝6時半の、酔芙蓉。まだ、しらふの色白の美女。清純そのもの。大酒飲みと聞いていましたので、茅ヶ崎の名酒、天青と湘南ビール、それにつまみに井上蒲鉾の梅花はんぺんと鎌倉ハムのローストビーフを持っていきました。うれしいどす、また来ておくれやす、と喜んでくれました


午前10時半頃、また訪ねました。ほんのり、頬に赤みがさして、ほろ酔いの美女になっていました。おいしいどす、とご機嫌でした。ビールが半ダースほど開いていました。


お昼の冷やし中華を食べてから、また午後1時半頃、訪ねました。ピンク色に染まって、もうすっかりできあがったお顔になっていました。こんなに酔わしてどうするつもり、とどこかで聞いたセリフで色っぽく微笑んでくれました。よくみると、天青の一升瓶が開いていましたので、すぐ家に戻り、ワイフの里の名酒、美少年とつまみに辛子連根をもってきました。美少年好きどす、と言って、またぐいぐいやり始めました。相当な酒豪です。


かまくら散歩から帰り、午後5時半に訪ねました。もう顔は真っ赤に。酔いつぶれて、美顔もくしゃくしゃになっていました。美少年を飲みほしたようです。もっとお酒いただきマンモス、ああ、でももうだめぴー、どうでもしてぴーと支離滅裂になっていました。あの清純なふよぴーはどこに行ってしまったのか。

。。。
翌朝、6時に様子をみにいきました。朝になっても、昨晩と同じ赤い顔して、ぐっすり寝ていました。もう起きてきません。
たった、1日の命だもんね、楽しい1日で良かったね。”花の命は短くて”だね。でもぼくらの一生だって、地球の年齢に比べれば、一日どころか、1秒にもならないよ。みんな同じだね。さあ、今日も飲むぞ。



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松井稼頭央選手と柴田勲さんと甲子園と

2009-08-18 10:11:57 | Weblog


昨晩の甲子園、神奈川代表の、横浜隼人、花巻東に敗け2回戦で敗退、残念でした。剛腕、菊池雄星投手を打ち崩せるのは、薩摩隼人くらいでしょう(笑)。

さて、今日も、あとで、ぼくらの時代の高校野球にふれてみたいと思いますが、まずは、2000本安打を達成した、米大リーグ、アストロズの松井稼頭央内野手、おめでとうございます。球場に来ておられた、恩師、東尾元監督から名球会入りのブレザーを贈られ、どんなにうれしかったことでしょう。

松井稼頭央選手のすごいところは、少し前に、400盗塁も達成したことです。2000本安打、400盗塁の選手は、日本球界で、彼を含め、わずか5人しかいないのです。いずれも、名選手です。現役では、イチロー選手と松井稼頭央選手だけ、あとは福本、広瀬、そして柴田さんです。

ぼくは松井稼頭央選手というと、いつも柴田勲さんを思い出します。共通点がいっぱいあるからです。2000本安打、400盗塁のほかに、守備がまた超一流で、お二人とも、ゴールデングラブ賞を何度も採っています。走攻守、三拍子そろったすごい選手なのです。(イチロー選手は、さらにその上をいっていますが)

加えて、高校時代はいずれもピッチャーをやっていて、プロに入ってからは、右、左、どちらでもOKという、スィッチヒッターとして活躍しました。ですから、ぼくは、松井稼頭央選手というと、いつも柴田勲さんを思い出すのです。

それに柴田さんには特別の思い入れがあるのです。ぼくは、柴田さんと同世代であり、柴田投手を擁し、1960年の夏と翌年の春、全国優勝を成し遂げた、川崎の法政二高は、ぼくの自宅にほど近い場所にあったからです。

あの頃は、神奈川の強豪高校というと、これもまた自宅近くの、のちに南海(だったと思う)に入団した、渡辺投手を擁した慶応高校(日吉)でした。県大会の決勝戦は、大抵、この二高で争っていたように思います。でも法政二高にはとても、かないませんでした。

なぜって、あのときの法政二高は、おそらく空前絶後といっても良い、のちの清原、桑田のいた頃のPL学園を上回る、強力打線でした。4番は幡野(彼は、ぼくの中学校の出身、えへん、のちに阪神入団)、5番は柴田(巨人)で、あとは是久(東映)、的場(大洋)、高井(近鉄)と5人のプロ野球入団者を含む、すごーいメンバーだったのです。

そうそう、その時代、怪童と呼ばれた、尾崎行雄投手擁する、大阪の浪商も強かったです。法政二高の3連覇がかかった1961年の夏の甲子園では準決勝で対戦し、残念ながらこの浪商に負けてしまいました。たぶん浪商が、その大会に優勝したはずです。

あの頃の高校野球が一番、面白かったなあ、といつも思います。やっぱり、地元の高校が活躍するといつまでも心に残るんですね。

。。。

こちらは、走攻守、そろって苦手なウミガメさん。スローな生活もいいよね


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夏休みの風景

2009-08-17 19:00:15 | Weblog
やっと夏らしくなりましたね。今日は一番、暑い頃に家を出て、湘南の夏休みの風景を楽しんできました。

藤沢から小田急で鵠沼海岸駅に。海水浴場への途中の、河口でカモメの夏休みの風景。こんな日は、カモメも海水浴。


鵠沼海岸は、江ノ島を望みながらの、子供連れの家族の夏休みの風景。


片瀬西浜の風景。若者の夏休みの風景。

虫さされ、クラゲに注意の風景。

えのすい(新江ノ島水族館)のイルカに夏休みはなかった。働きづくめだった。

子供たちに握手までさせられていた。

ただ、この金魚だけは、のんきに、涼んでいた。


帰宅途中、鎌倉芸術館前の出店に人だかり。何だと思って近づいてみると、氷川きよしのプロマイド等のグッヅ店だった。集まっているのは、中高年の女性ばかりだった。中高年の女性の夏休みの風景だった。

なぜかと思ったら、芸術館で昼の部、夜の部の”氷川きよしコンサート”があったのだった。

氷川きよしさんにも、夏休みはなかった。働きづくめだった。

ぼくは毎日、夏休みの風景の中にいる(大汗)。きよしのズンドコ節を唄いながら、帰ったら、横浜隼人高と花巻東高の対戦が始まっていた。甲子園の高校野球、これが、夏休み一番の風景だろう。
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夕涼みヨコハマ

2009-08-16 11:09:42 | Weblog
先日の鎌倉花火大会が雨で中止になって、花火好きなワイフがしょんぼりしているので、夕涼みがてら、ヨコハマの夜景見物に誘った(本当のこと言うとは、ワイフに誘われた)。

赤レンガ倉庫の3階の中華料理屋さんで、餃子、焼きそば、ピーマンと肉を炒めたもの等を食べながら、青島ビールを飲んで、外に出ると、もうブルーライトヨコハマになっていた。赤レンガ倉庫もライトアップされ、アカ抜けしていた。



ミナトミライ方面もうつくしく輝いていた。色っぽい夜の蝶になっていた。


赤レンガ倉庫の前の広場も、うつくしく輝く女性が、ホンダの車の宣伝をしていた。車より美人の方についつい目が向いてしまう。最近、松園や清方の美人画にこっているので仕方がないのだと、へりくつをつけて、自分の理性と折り合いをつけた(汗)。


さて、ここから、汽車道を通り、みなとみらい方面から桜木町駅のコースにするか、日本大通りから関内駅方面にするか、相談した。結局、横浜三塔、キング、クイーン、ジャックがライトアップされているということを最近知ったので、それらを観てみようと後者のコースを選んだ。

歩き始めて、すぐ象の鼻パークに出る。桟橋が象の鼻のようになっていて、最近、そこが整備され公園になっているのだ。ただ肝心の象の鼻の形の桟橋は街灯がわずかにあるだけで、夜ではよくわからない。手前のふたつの桟橋は、照明されていてよくわかった。横浜で最初の桟橋で、ここから物資が船から下され、汽車道を経て、運ばれて行った歴史的桟橋なのだ。象の鼻桟橋はそのあと、波よけ桟橋として象の鼻のように造られたのだ。



ここから、横浜税関の建物がみえる。クイーンの塔で、高さは51メートル。三塔で一番、高い。

日本大通りを歩くと、キングの塔、神奈川県庁が現われる。国の施設(税関)より高くしていけないと、高さは49メートルに抑えられたそうだ。でもキングの名称をつけてもらったのだから、文句はいえないだろう。ここの県知事は、たばこ嫌いで、先日の鎌倉のぼんぼり祭りのぼんぼりにまで、”受動喫煙防止”と書いていた。たばこを吸わないボクにはありがたいことだが、そのうち居酒屋でも吸えなくなるらしい。


そして、近くの道にジャックの塔が。横浜市開港記念会館である。36メートル。見ろ(36)と自信満々である。たしかにうつくしい建物だ。 王子さまのようだ。


日本大通りにはイルミネーションも。花火好きのワイフが喜んだ。フラミンゴが可愛かったが、横浜とフラミンゴとどういう関係があるのだろうか。


花火のように撮れた写真があった。シャッターを押すとき、ワイフに、逗子か土浦の花火大会に行かない?と急に話しかけられ、手が震えたのだった。ついでながら、土浦の花火大会は日本3大花火大会のひとつなのだ。何度、行ったかわからない。そうだな、久し振りに行ってみるかな。

日本大通りを抜けると、横浜スタジアムに。大歓声があがっていた。今日は広島戦だ。帰ってニュースをみたら、ベイスターズが勝っていた。


関内駅で、小百合ちゃんのポスターがあったので撮った。小百合ちゃんと一緒の”ヨコハマ夕涼み”生涯に一度でいいから、してみたいなと心の中で思ったが、ワイフには、”今日のヨコハマ夕涼み”にぴったりの写真だね”と言うにとどめた。と、グルメ好きのワイフが、”ここは、たしか、大桟橋の突端のレストランから撮った写真よ、今度はここで食事しようよ” 余計なことを言ってしまった、と思ったがあとの祭りだった。

。。。

我々が、赤レンガ倉庫に着いたとき、ちょうど大桟橋から飛鳥Ⅱが出港するところだった。たしか、どこかの花火見物をするコースよ、とワイフが言った(本当だろうか)。一昨年、小樽から横浜の2泊コース、そして昨年の青島(ビールがおいしかった、かつてドイツの租借地だったので、ビールなのだろう)、上海をめぐる10泊コースと、2度利用した。来年は、2,3泊の花火見物コースもいいな、と、あとで思った。俺も結構、花火好きだなと、勇者(?)は赤面した(笑)。



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終戦の日

2009-08-15 10:42:37 | Weblog
終戦の日、昭和20年8月15日は、どんな空だったのだろうか、ふと今朝の空をみて、そんなことを思った。昭和20年3月生まれのボクはまだ、生後、5か月の赤ん坊だったから、憶えているはずがない。

今朝のような夜明けだったかもしれない。雲がいっぱいだけど、何か希望の光がさしこんでくるような。


この春に、母を亡くして、家の中を整理しているとき、父が還暦のときに書いた、自伝風の30枚ばかりの原稿をみつけた。父は、生前、ぼくには戦争時代のことを一言も話してくれなかったが、そこにはかなり詳しい記述があった。戦友の死のこと、父の所属する部隊がさらに中国の奥地に進軍すると思われていたのが、急きょ帰還することに決定し、みんなで万歳をしたこと、等々が切せつと書かれていた。

父が帰国して、昭和16年以降太平洋戦争に拡大してゆくが、父は軍需産業に勤務していた関係上、後方支援ということで徴兵は免れたようだ。そしてその頃、結婚話が出て、昭和19年に同郷の19歳の母と結ばれ、太田区田園調布に住む(うそどす)、太田区蒲田に住む。

昭和20年に入ると、米軍による大空襲が始まり、3月10日の浅草等の下町地区の大空襲、4月15日には、父母の住む、大森・蒲田地区が大空襲受け、多数の死傷者と約22万戸もの家屋が焼失した。

父の原稿用紙の文章から、そのときのすさまじさがひしひしと伝わってくる。父は布団1枚もって家を飛び出し、六郷の土手に穴を掘り、そこにもぐり布団を被り、明け方まで、間断なく続く焼夷弾の攻撃から必死に身を守っていた。

この大空襲が始まる約1と月前、すなわち、ボクが誕生する1、2週間前に、父の気丈な母が山梨からやってきて、こんなところで子供を生ませるわけにはゆかないと、強引に連れて帰ってくれたのだ。家は焼かれてしまったが、おふくろのおかげで、ふたりの命が助かった、と感謝の気持ちを述べている。

戦後すぐに、運よく三鷹に住宅が見つかり、父の会社も復活し、父と母と赤ん坊のぼくとの、3人の新生活が始まったのだった。

こんな戦争は二度とやってはいけないと思う。でも、先の戦争で、お国のために犠牲になられた方々には、心より追悼の意を表したい。靖国神社でお祈りしたい人もおれば、慰霊碑の前で頭を下げたい人もいてもいい。人それぞれである。どこかがいけない、どうのこうの、へりくつをいう人は、もともと宗教心のかけらもない人だろう。

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隠居丸

2009-08-14 09:25:54 | Weblog
先日、国府津の海辺を散歩して、駅へ戻る石段でみかけた。古いモーターボート。屋根の上にはお花畑が。まるでオブジェのようだ。幸せだな、お父つぁん。引退したあとも、捨てられず、こんなにも大事にされて。



舟先をみると、名前までつけてもらっていた。”隠居丸”(爆)。はじめから隠居丸でなく、隠居してからつけてもらったんだろうな。さっそうと海上を走りまわっていた頃は、加山雄三の”光進丸”みたいな、生きにいい名前だったんだろうな。こんな歌を歌いながら、相模湾を疾走するお前の姿が目に浮かぶようだよ。

海・その愛

作詞:岩谷時子
作曲:弾厚作
歌唱:加山雄三

海に抱かれて 男ならば 
たとえ破れても もえる夢を持とう 
海に抱かれて 男ならば 
たとえ独りでも 星をよみながら 波の上を 行こう 
海よ俺の海よ 大きなその愛よ 
男の想いをその胸に抱きとめて
あしたの希望を 俺たちにくれるのだ



でも、いいな、そこからいつも、むかし縦横無尽に走りまわった、大きな海がみえて。えっ、目がみえないのか、そうか、でも波の音は聞こえるだろう、なあ、お父つぁん。

波止場だよお父つぁん
 
作詞 西沢爽  
作曲 船村徹
歌唱 美空ひばり

古い錨が 捨てられて
ホラ 雨に泣いてる 波止場だよ
年はとっても 盲(めくら)でも
むかし鳴らした マドロスさんにゃ
海は 海は
海は恋しい ねーお父つぁん


。。。

ついでながら、ひばりさんの”波止場だよお父つぁん”はこの一番の歌詞が一番いいのですが、テレビでは、必ず、二番か三番しか放送されないんですよ。一番に”めくら”とゆう放送禁止用語が入っているからです。ぼくは、もともと、言葉の使用に”お上”が規制をかけることに対し、疑問をもっています。とくにこの詩の中で使用されている、”めくら”に差別的な意味を感じる人がどれほどいるでしょうか。やさしさばかりが、涙いっぱい込められているではないですか。
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序の舞

2009-08-13 11:17:19 | Weblog
一見、何でもない景色でも、その土地の歴史を知っていると、新鮮な感じを受けるものである。最近、宮尾登美子著”序の舞”を読んでから、よく図書館で、上村松園の画集をのぞいているが、今まで、何気なくみていた絵が、きらきらと輝きを増しているように感じている。この絵は、あの苦しかった時代に描かれたものだな、とか、やっと心が落ち着いて、絵に専心できた頃の作だなとか、等、思いながら観ると、絵の中の着物姿の女性がまるで松園自身のように感じ、そのときの彼女の心まで写されているようで、感動してしまう。

”序の舞”では、松園がもちろん主役で、小学校を出て、すぐに入った絵学校の先生、そして、成人後、二人の先生に師事する。それぞれ、鈴木松年、幸野楳嶺そして、竹内栖鳳なのだが、小説では、すこしだけ違った名前で出てくるが、その人が誰であるかはすぐ分かってしまう。その他、当時の画家や、松園の画題はそのまま記述しているので、その絵の描かれた彼女の”時代背景”がよくわかるのである。

歴史小説は、”話半分”みたいなところがあり、吉川英治のつくった宮本武蔵であり、司馬遼太郎のつくった坂本竜馬である。これも、宮尾登美子のつくった上村松園であることは百も承知だが、彼女の履歴は正確に示しつつ、履歴書には書かれていない、松園の男女関係などがかなり詳しく書かれていて(想像して?)興味深い(汗)。女性作家ならではの、松園のそのときどきの心理描写はさすがだと思った。

師の一人との間にできた、10歳の男の子をもつ37歳の松園が、7歳年下の京都帝大の学生に恋い焦がれる。彼は、以前、恋した男の弟なのである。彼への狂わしいまでの思いを絵にしたのが”花がたみ”である。謡曲の主人公”照日の前”をモチーフに描いた。”桂さまひとりにみてもらいたいとうおしたのやさかい”と彼とのつきあいが再開したときに述べている。

花がたみ。(大正5年作)京都の精神病院で患者の顔の写生をして、勉強したそうだ。


しかし、桂さまとの恋も家族に反対され破局。桂さまも若い娘さんと結婚、師匠の死にまつわるいざこざ、いろいろなことで悩み、スランプに陥っているとき、文展出品期限のせまる夜、ふと、この構図が浮かんだ。打ち掛けを着て、振り向きざまに怨嗟の眼差しを向ける、打ち掛けの模様は蜘蛛の巣と藤、という壮絶なものだった。”これを仕上げたら、性根つきて死んでしまうかもしれない、もとより死は覚悟の上”の制作だった。

焔(ほのお)(大正8年)。謡曲”葵上”の六条御息所の生霊がヒントになっている。はじめ”生霊”という画題を考えていたそうだ。ぼくは東博の常設展で今年、これを観ている。迫力満点である。そのときは、まだ、この小説を読んでいなかった。もう一度、観たいものである。松園の生霊がひしひしと感じられることだろう。


松園らしくない、このふたつの作品は、こうゆう苦しい時代に書かれたのである。そして、これも、松園としてはめずらしい”楊貴妃”を大正11年に描いた、



その後、昭和に入り、松園らしい美人画が復活。ますます円熟味が増してゆく。松園の代表作、”序の舞”は息子のお嫁さんがモデル。重要文化財。先日、芸大美術館で観てきたばかり。記念切手にも使われ、この小説の題名にもなった名作。

”序の舞”昭和11年。


”つれずれ”昭和16年。山種美術館で観てきたばかり。


”庭の雪”昭和23年。この絵の構想をねっているときに文化勲章の知らせが入る。最晩年の作。これも山種美術館所蔵。


ますます松園フアンになってしまった。
。。。

”序の舞”は映画では、名取裕子さんが主役であったことは知っていましたが、テレビドラマでは、先日、お亡くなりになられた大原麗子さんが主役だったそうですね。芸では妥協を許さない、芯の強さ、うつくしさ、そして波乱の人生、お二人とも、よく似ていますね。
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田沢純一投手 大リーグ初先発初勝利

2009-08-12 18:24:16 | Weblog


レッドソックスの田沢が、今日のタイガース戦に初先発するというのに、テレビ中継がありません。 しかたなく、テレビでは松井が出場している、ヤンキース対ブルージェイズ戦をみながら、田沢の試合は、ブログを書きながら、30秒ごと新情報が入る、試合速報をPCでチェックしていました。

1回表に3点を失い、ああもうだめだ、と思っていましたら、2回裏に3ランが出て同点。さらに3,5回にも点が入り、逆転。田沢はその後、5回まで無失点で勝利投手の権利を得て降板。 ところが6回に、降雨でしばらく試合中止。へたすると、ノーゲームか、と心配しながら、外に出たのでした。

午後5時に帰宅。もちろん、すぐ、MLBの試合結果をチェックすると、なんと、レッドソックスが勝ち、田沢が初先発初勝利の偉業。

日本のアマからいきなり渡米、2Aから3Aと順調に上がり、2日前に大リーグ入り。そして、いきなりの先発勝利。たいしたもんです。松坂復帰も、あとわずか。先発も日本人投手ふたり、中継ぎも斎藤と岡島のふたり。ボストン投手陣はすごいです。

一方、テレビ観戦の、松井もやってくれました。8回裏、17号同点ホームラン。これは、ばっちりみましたよ。そのあと、ポサーダも連続ホームランで逆転。ヤンキース好調ですので、今年こそ、松井に世界一の美酒を飲ませてあげたいです。

松井、17号を打った瞬間。


インタビューに答える松井。


それにしても阪神タイガース出身の、ヤンキースの井川、なかなか上がってきませんね。虎きちのみなさんも、イカンナとやきもきしていることでしょう(笑)
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わずか3畝のやせ畑に

2009-08-12 08:58:27 | Weblog
台風一過、数日ぶりの朝散歩は大長寺まで。そうか、もうお盆が真近なのですね。


お寺さんも、すだれをかけて、垂れ幕をたらし、準備万端。お搭婆も用意され、百日紅も咲きそろいました。

本堂前のほうづきも真っ赤に実って、

裏の墓所には、ほとんどのお墓に仏花が飾られています。実家のある川崎では7月盆ですが、この辺りは8月盆なんでしょうか。
このお墓は、墓前に黄花コスモスがまっ盛り。自然のお花でご先祖さまを供養する、一番いいかもしれない。ちょうどお盆の頃咲くし。


裏山にのぼると、ちょっとばかりの空地に、野菜がいっぱい。ご住職さんがつくっておられるのでしょう。


下りてくると、家畜供養塔が。このあたりは、今は住宅地ですが、むかしは、家畜飼育場だったのです。ぼくらは、植物や動物の命をいただいて、こうして生きているのです。お盆のときぐらい、感謝しないとね。手を合わせて。


はじめに載せた、掲示板の左側のポスター。よく見ると、とても、いい詩が載せられていました。

わずか3畝のやせ畑に
胡瓜茄子西瓜にトマトとうもろこし
里芋生姜に落花生
・・・ところ狭しとひしめいている
こんな愚かな人間(わたし)のために

(野菜賛歌)





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