さて、話を戻すようだが、人が物事を理解するとは様々な前提があろう。彼らのように今でもそれを継承する人々は、何を持って受け入れたのであろうか。
2000年以上も前の言葉が、今も生きているという・・・それは命あるものに、つまり地上でいつかは必ず消滅する運命にあるものに対して、今も訴えているというのである。
それによって生き様まで変わってしまうというその言葉を受け入れるということは、かなり危険なことではないだろうか。それは自然に人として生まれて、それさえも根底から考えよ、と啓示されるということは。
始源に選ばれた彼らは、その生き、動き、働いているという至高なるXの言葉(ときにそれはロゴスと言われる)を人の限界のある理解を律法として固守してきたというのであった。人の世界のすべての決まりごと、つまり契約を守るということの始まりはここに由来する。
目に見えない契約の相手は、畏敬すべき、契約を守れねば不遇の代償が降りかかるという命の提供者であったのだから。
しかし、命に限界のある地上の人にそれを維持することは不可能にちかいことなのではないだろうか。普遍の変わらない生きた言葉といわれても、地上の命ある人にとって目には見えない啓示始源の言葉の提供者の本意を理解することは、殆ど不可能に近いことなのではないだろうか。
先にも書いたこの疑問は、その言葉に接していくにつれ、常に誰しもに起こってくる疑問であった。
その生きて働き、動いている観念的思考というべきことを、地上の命あるすべての人に理解してもらい信じてもらおうとするのに対し、言葉をゆだねられ選ばれた彼らが、人の歴史の中でその役割を担うこととなったのである。
言葉を与えられし特権をもつ彼らは、その言葉を理解しない者らを『異邦人』と呼んだ。逆にその異邦人らは、一般に彼らをユダヤ人と呼んでいる。・・・
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