我が家には2匹の猫がいます。
2匹とも迷い猫で、我が家で保護されたまま居ついてしまいました。
ぷ~ちゃんは、初めて我が家で保護した猫ちゃん。
そのぷ~ちゃんが来てから、15年の月日が経ちました。思えば、早いものです。
我が家の上棟が間近な冬のある日。一匹の颯爽とした薄茶の猫を、近くの公園で見かけるようになりました。
ノラ猫にしては人なつっこいし、でも首輪はしていないし。
変だな?とは思いながらも、子供達と相手をした後マンションに入ろうとしたら、何故か付いてきてしまう。
こちらは飼い猫?と思っているから、「じゃあね、バイバイ」と手を振ると。
名残惜しそうに、それでも諦めてマンションの階段を上がってどこかへ消えて。
一度、冷たい(冷蔵庫に保存していたので)ミルクを出したら、ぺろぺろ舐めていましたが。決してガツガツしたそぶりはなく。
やっぱり、どこかの飼い猫?と思いながら何日か過ぎました。
捨て猫かなぁ?飼い猫?と子供達が気にしだした時期、雪がしんしんと降った寒い朝。
「あの猫ちゃんは、どうしたんだろう?こんな雪の中、どこで過ごしたのだろう?」と窓から外を眺めてはため息。
子供達も、夫も同じ気持ちで。万が一の事を考え、玄関前に小さな段ボール箱に古いタオルをしいて置いておきました。
一日中、何度も娘が玄関に様子を見にいっていましたが。突然・・・
「ママ、大変!あの猫が来てる!変な咳してる!」とバタバタと部屋に駆けこんできて。
慌てて玄関外に出てみると、可哀そうにあの凛とした姿の猫が苦しそうに咳き込んでいました。一目で「ただ事ではない」様子が見て取れました。
私の顔を見るや、その猫はしゃがんだ私の膝から左の肩にしがみつき。決して離れようとしませんでした。
きっと、この家で主導権を握っているのはこの人なんだわと、その時確信していたのかもしれません。必死な様子が伝わり、猫を体から離す事も出来ず。なおも、ゲホゲホッツと猫は咳き込んでいて。
「さっ、お家の中に入りましょう」と、意を決して猫を抱きしめ、家に入ろうとすると。
「わっ!いいの?ママ、連れて入って」まだ小学生の娘と、幼稚園児だった息子は大喜び。
私に抱かれた猫は、外の寒さとは打って変わった暖かい部屋に驚いた様子で。回りをキョロキョロ見まわしていました。その時の表情が、まるで昨日の事のように思い出されます。
猫カリシス肺炎にかかっていた捨て猫は、推定1.2歳。獣医さんには「助からない」と言われながら、その後は奇跡的に回復。
晴れて我が家の猫となった薄茶色の毛の色は、熊のぷーさんに似ているところから「ぷ~」と娘が命名。
ぷ~は実に賢く、回復した後「おしっこ等はどうするんだろう?」と思っていたら。明け方に、台所に置いていたキャベツを包んでいた新聞紙を口で細かくちぎって、その上にウンチを遠慮がちにしていました。慌てて、砂・新聞紙・猫用の固まる砂の3種類を用意して本人に選んでもらった経緯もあり。
娘とは特に仲良し。特に、私がきつく娘を叱った時は、娘にじっと寄り添っていました。寝る時も一緒布団で並んで枕をして眠るのが常で。少年ラグビーの練習で疲れてソファーに突っ伏した息子の。暖かいユニフォームの背中で眠るのも好きだったぷ~ちゃん。
子供達の成長の向こうには、いつもぷ~の姿がありました。
そうして15年の時が過ぎ。
今、お別れの時が近づいています。
漠然と、2・3年後に老衰で死ぬのかなと考えていただけに。「悪性リンパ腫」と予想もつかない病名を告げられた時は、ただただ茫然とするばかりでした。
細胞検査の結果が出た日。その日は丁度、娘も仕事で奈良に帰っていて。事の詳細を告げるとPCで情報を調べては、タオルで何度も目頭を押さえていました。
何も処置をしなくても60日以内(発病から既に1カ月経つかもしれないので、状況はかなり悪かった)で、最後は首筋のリンパ腫が器官を圧迫して窒息死。抗がん剤投与をしても25W持たないと言われました。
高齢だけに、抗がん剤治療は一か八かの勝負で。獣医さんは、「飼い主さんが選択してください」と。
私達は話し合い、ぷ~が少しでも食べられて安らかでいられるよう抗がん剤投与を決めました。決して助からないけれど、少しでも長く一緒にいられるように。
彼女は今、必死で癌と闘っています。小さな体が、まだ波打つように呼吸しているのを見るだけで。いつか別れがくるのだと思うと、本当にせつなくて悲しい・・・。胸が引きちぎられるように苦しい・・・。
でも、最後のその時がくるまで。しっかり家族で見守ってやりたいと思います。彼女を我が家に招き入れたその日から、ずっと心に誓った事だから。