まだ梅雨は来ませんね。
真夏の日差しがじりじりと照りつけます。
車も、日向に置いておくと中は蒸し地獄。
昔乗ってた内装は鉄板むき出しの軽自動車。といっても5年くらい前の話ですけど。
それはカセットテープでしたので、お気に入りを中に積んでいたのですが。
愛媛に居た頃はまったくありえなかったのですが、熊本で夏を迎えたとたんにべろべろに伸びきってしまいましたね。一夏でテープ全滅。
熊本の暑さを思い知った次第。というか日差しが違うのかもしれませんね。同じ日向に置いていても、車中の暑さが違うみたいで。
そこで、カセットにアタッチメントをつけると、ポータブルCDプレイヤーの音源が車内に流せるというやつを買って、その後はCD生活に切り替えました。今思うと、懐かしいアイテムです。
次に買った軽自動車は今も現役で妻が乗ってますが。それは内装がしっかりと断熱材で覆われているので、以前のような悲劇は今のところ無いですね。それにCDになってますし。
良く考えると、6年前はまだ自分はテープだったんですね。今はハードディスクですから。
車のオーディオも変化するものです。
ちなみに、今のMINIは天井ガラスなので、結構暑いです。サンシェードも網みたいなもんなのであまり意味ないし。
でも、以前の鉄板むき出しの軽自動車に比べると何のことはないですけどね。
熱くても乗れますから。
日差しを受けつつ、そんな事を考えていました。
そういえば、私の乗った車は2回目の車検を受けた直後にたいてい壊れている気がしますね。
そうやってバージョンアップしているのか、それとも散財しているのか・・。
ものは大切にしないといけません。説得力無いですけど。
さて、今日のヘミシンク。
昨日、妻に「彼は最近出てこないの?」と聞かれたので。
久々彼との対話です。なんで最近書かないかというと、思わず貴重な体験をしてしまった場合、それを書き留める時間が無いもので。
なので、なるたけ「当たり障りの無い」体験を最近しているところはありますね。
私の時間的都合で、ヘミシンク体験も制限されていたります。
でも、対話くらいならばそれほど時間を取らないのでちょっと久々対談。
結構上のほうに連れて行かれて、そこで対話開始です。
「最近、あまりガイドがガイドしてくれてない気がするんですが?」
「君が、自分でつながるルートを作り上げているからだよ。」
「ルート?」
「君が“向こうの世界”と呼ぶ世界だ。私達はガイド。ルートへ案内するガイドだ。ルートを作り上げた先は、自らの足で進んでもらう必要がある。創造するモノと直接つながるルートは個人がそれぞれに構築していく必要があるのだから。」
「じゃあ、ガイドはその先ノータッチ?」
「その先もガイドはしている。ただ、それほど表立って感じにくくなるだけだ。自らの内に出る直感、それはガイドの声でもあるのだから。」
「その“内からの直感”、ってある意味妄想と紙一重ですよね?」
「妄想には、その結果がついてこない。妄想の先に妄想を積み重ね、歪な楼閣が心の中に出来上がる。それは崩壊するまで積み重なりつづけていく。
自分の心に正直になることだ。自らの内から出でる感情、感覚。外からの意識による誘導、導き。それに従ったとき、自分がどのように感じるのか。
恐怖、焦り、恐れ、
喜び、充実感、創造性。
比べて判断すれば、すぐに分かることだよ。」
「でも、ガイドからの導きでも、直感に従おうと思っても、恐怖は必ず先に出るものじゃないですかね?未知の領域に踏み込むのに恐怖心がないのも問題でしょう?」
「それは恐怖とは言わない。」
「じゃあ、不安?」
「不安でもない。」
「じゃあ何?」
「捕らわれている意識だよ。」
「捕らわれ意識ですが。じゃあ、レトリーバルすればいんでしょうかね?」
「自分の中にある価値基準と直感で得られたものとを比較した時、その差を意識して立ち止まってしまう。今持っている価値基準と異なる領域を知覚しようとしているのだから。」
「そうなると、恐怖が生まれるんじゃないんですかね?」
「恐怖でくくってしまうと、その先に進めなくなる。恐怖に立ち向かおうとしたり、克服しようとしたり。すると恐怖はさらに力を増す。
先に進もうとするとき、迷う心、躊躇する意識、そういうものをかんじたら、『自分の意識にある捕らわれた部分を今自分は発見した』と考えてみるといい。」
「そう考えると何がいいんですか?同じじゃ?」
「そうではないだろう。捕らわれた部分だと思えば、それをレトリーバルすればいい。」
「それ、最初に言いましたよね。」
「非物質的なレトリーバルではない。現実世界ともリンクして行うレトリーバルだよ。」
「どういう事で?」
「何も君達の意識は向こうの世界だけにあるわけではない。そうならば現実世界にいる意味は無いのだから。
こちらにも意識が存在しているのならば、こちらの意識を活用する事も重要じゃないかな?
現実世界で、そのように直感に従うべきかどうか、迷ったらその迷いの原因を問いかけて見る事だ。なぜ自分はこの迷いを持つのか。
そして、その答えを現実世界に求めてみる。もしも直感に従うべきであれば、その迷いの意識を開放すべく、必ずガイドが現れてくるのだから。」
「ガイドって、非物質的にじゃないんで?」
「ガイドは君の周りに、今ここにあるすべての内に存在する。現実世界で出会う人、情報、すべてがガイドからの声、メッセージ。
そこにある、自分の直感に従う時に邪魔をする捕らわれた意識。
ガイドのメッセージは、それを開放するように働きかけてくる。」
「それと妄想や思い込みとの違いはなんですかね?『これはガイドの声だ!』って思うと全部そう思えるでしょう?」
「調和の中に答えがある。」
「調和ですか。でも、直感にしたがって家庭崩壊したり、家族との関係が悪くなる場合もあるでしょう?それはどうなんで?宗教の教祖の中でも、家族を捨てて出家した人もいるじゃないですか。それは調和とは言わないのでは?」
「バランスを取る場合、不要なものを自分から切り離す必要がある事もある。」
「それ言ってたら、何が調和かわかんないですけどね。結果論じゃないんですか?結果なにかを残したから、それはしょうがないと思えるだけで。」
「世界には結果しかない。過程は存在しない。」
「それ、『家庭』と『過程』をかけているジョークですか?」
「今選んだ道の結果が今。過去に選んだ結果の積み重ねが今。過程ではない、すべて結果なのだよ。」
「じゃあ、その教祖が家庭を捨てるというのは最終的に宗教を立ち上げるための過程ではないと?」
「結果がそう見えるだけだ。」
「なんか、騙されているような気が。」
「今、を調和させるのだよ。未来でも過去でもなく、今。意識が荒い時は、今の意識を落ち着けるようにする。恐怖に感じる時は、今感じる恐怖と対話する。未来の自分で解決はできない。過去の自分に原因を求めても解決しない。」
「良く言われる「今」を大切に理論ですね。」
「今を調和させる事。そこに意識をむけることだ。」
「難しい事軽くいいますけど、どういう状態が調和なんですかね?」
「意識を広げ、全てを知覚する状態。」
「それって、武道の達人しか無理じゃないですか。」
「完全な調和を目指す必要はない。それができる人間は今ここに居る必要がないのだから。
調和に近づく意識を強く持ち、それを実行しようとする行動。そういうものが必要なのだよ。」
「失敗したら?」
「失敗ではない。そういう結果になるだけ。」
「へりくつだぁ。」
「自分の周りに存在するすべてのものを受け入れ、愛を持って接してごらん。全てに調和する、という意味が理解できてくるから。」
「それ、出来る人は居ないでしょう。」
「それを心がけるだけでいい。」
「でも、それって、『調和を感じる』という結果を出すための過程を大切にしている、という理屈になりませんか?」
「そうではないよ。周りのものを受け入れた「結果」、愛を持って接した「結果」の積み重ねが『調和を感じる』という結果につながっていると思うからそう見えるのだよ。
調和を感じるというのも一つの結果に過ぎない。それが最終目的のように感じているから、それまでの過程を必要とするのだろう。
君は今日ご飯を食べた。明日も食べるだろう。これは何のためかな?」
「おなかがすくと怒りっぽくなる・・・・ではなくて、ご飯を食べないと死ぬじゃないですか。」
「では、ご飯を食べ続けた結果何を目的としているのかな?」
「それは難しいですね。10年ご飯食べ続けたからといって、何かを会得したとは思いませんし。まあ、死なずに生きてこられてはいますかね。」
「それは、死なずに生きてこられるという結果を得るために、その過程としてご飯を食べる事を選択したのかな? それとも、ご飯を食べた、という結果を得ていたら、結果的に死なずに済んだのかな?」
「まあ、言いたい事はわかりましたけどね。同じ結果でも、『過程』を考えるとそれが後付でついてくるって言いたいわけですね。」
「先付けでもかまわない。こういう過程が存在すると思っていると、そういう過程を作り出してしまう。」
「それ言われると、何も考えずに、目標も定めずに生きろって事ですか?」
「ただ、そういう風にも見える。という事を言いたいだけだよ。
結果を求めて行動したい場合はすればいい。過程を重視したければすればいい。そこから得られるもので自分の得たいものを得られれば方法論はなんでもいい。
今の自分に必要な事は自分で判断するといい。そこにガイドからのメッセージも常に来ているのだから。」
「それと妄想の区別はどうやればいいんですか?」
「また振り出しに戻るのかい?」
「いや、できれば対話にも『結果』を得て終わりたいですから。」
「じゃあ君は“求める結果を得られない”という『結果』を得て、この話は終わるだろう。」
「そんな殺生な。」
「自分の身近な人との関係を常に見ておくことだよ。」
「それだけ?」
「自分の内面を見るのに一番いい方法は、自分の人間関係を改めて見つめ直す事だよ。」
「それって、この対話の結果でいいんですか?」
「今を生きる、全てに関する結果だね。」
「なんか、そういう事でいいのですかね。」
「ほら、君は『求める結果を得られなかった』という結果を得ただろう。」
「いっつも思うのですが、高次の存在って屁理屈ばっかですよね。」
「そう思うからそういう結果が目の前に出てくるのだよ。」
という感じで。久々の彼との対話ですが。
いっそ、神との対話みたいに、いろんなジャンルについて聞いてみようかと最近思う次第。
チャネリング本みたくなりそうですが、屁理屈で煙にまかれているような気もしないでもないですね。
対話で文章書くと、一番手っ取り早いので書くほうは楽ですけどね。自分で考えなくてもいいので。
ただ、こんな本は世の中にたくさん出回ってますから。今更という気はします。
バシャールでもラザリスでも、セスでも、たいてい言っていること同じようなものですからね。彼も同じようなとこ言ってますし。
チャネリグ、というと一対一の感じですが、今の世界はネット社会です。
せっかくブログやっているので、彼への質問コーナーとか作ると面白そう、とは思っています。
個人的なものはNGですけどね。
ただ、書く時間が・・・。
真夏の日差しがじりじりと照りつけます。
車も、日向に置いておくと中は蒸し地獄。
昔乗ってた内装は鉄板むき出しの軽自動車。といっても5年くらい前の話ですけど。
それはカセットテープでしたので、お気に入りを中に積んでいたのですが。
愛媛に居た頃はまったくありえなかったのですが、熊本で夏を迎えたとたんにべろべろに伸びきってしまいましたね。一夏でテープ全滅。
熊本の暑さを思い知った次第。というか日差しが違うのかもしれませんね。同じ日向に置いていても、車中の暑さが違うみたいで。
そこで、カセットにアタッチメントをつけると、ポータブルCDプレイヤーの音源が車内に流せるというやつを買って、その後はCD生活に切り替えました。今思うと、懐かしいアイテムです。
次に買った軽自動車は今も現役で妻が乗ってますが。それは内装がしっかりと断熱材で覆われているので、以前のような悲劇は今のところ無いですね。それにCDになってますし。
良く考えると、6年前はまだ自分はテープだったんですね。今はハードディスクですから。
車のオーディオも変化するものです。
ちなみに、今のMINIは天井ガラスなので、結構暑いです。サンシェードも網みたいなもんなのであまり意味ないし。
でも、以前の鉄板むき出しの軽自動車に比べると何のことはないですけどね。
熱くても乗れますから。
日差しを受けつつ、そんな事を考えていました。
そういえば、私の乗った車は2回目の車検を受けた直後にたいてい壊れている気がしますね。
そうやってバージョンアップしているのか、それとも散財しているのか・・。
ものは大切にしないといけません。説得力無いですけど。
さて、今日のヘミシンク。
昨日、妻に「彼は最近出てこないの?」と聞かれたので。
久々彼との対話です。なんで最近書かないかというと、思わず貴重な体験をしてしまった場合、それを書き留める時間が無いもので。
なので、なるたけ「当たり障りの無い」体験を最近しているところはありますね。
私の時間的都合で、ヘミシンク体験も制限されていたります。
でも、対話くらいならばそれほど時間を取らないのでちょっと久々対談。
結構上のほうに連れて行かれて、そこで対話開始です。
「最近、あまりガイドがガイドしてくれてない気がするんですが?」
「君が、自分でつながるルートを作り上げているからだよ。」
「ルート?」
「君が“向こうの世界”と呼ぶ世界だ。私達はガイド。ルートへ案内するガイドだ。ルートを作り上げた先は、自らの足で進んでもらう必要がある。創造するモノと直接つながるルートは個人がそれぞれに構築していく必要があるのだから。」
「じゃあ、ガイドはその先ノータッチ?」
「その先もガイドはしている。ただ、それほど表立って感じにくくなるだけだ。自らの内に出る直感、それはガイドの声でもあるのだから。」
「その“内からの直感”、ってある意味妄想と紙一重ですよね?」
「妄想には、その結果がついてこない。妄想の先に妄想を積み重ね、歪な楼閣が心の中に出来上がる。それは崩壊するまで積み重なりつづけていく。
自分の心に正直になることだ。自らの内から出でる感情、感覚。外からの意識による誘導、導き。それに従ったとき、自分がどのように感じるのか。
恐怖、焦り、恐れ、
喜び、充実感、創造性。
比べて判断すれば、すぐに分かることだよ。」
「でも、ガイドからの導きでも、直感に従おうと思っても、恐怖は必ず先に出るものじゃないですかね?未知の領域に踏み込むのに恐怖心がないのも問題でしょう?」
「それは恐怖とは言わない。」
「じゃあ、不安?」
「不安でもない。」
「じゃあ何?」
「捕らわれている意識だよ。」
「捕らわれ意識ですが。じゃあ、レトリーバルすればいんでしょうかね?」
「自分の中にある価値基準と直感で得られたものとを比較した時、その差を意識して立ち止まってしまう。今持っている価値基準と異なる領域を知覚しようとしているのだから。」
「そうなると、恐怖が生まれるんじゃないんですかね?」
「恐怖でくくってしまうと、その先に進めなくなる。恐怖に立ち向かおうとしたり、克服しようとしたり。すると恐怖はさらに力を増す。
先に進もうとするとき、迷う心、躊躇する意識、そういうものをかんじたら、『自分の意識にある捕らわれた部分を今自分は発見した』と考えてみるといい。」
「そう考えると何がいいんですか?同じじゃ?」
「そうではないだろう。捕らわれた部分だと思えば、それをレトリーバルすればいい。」
「それ、最初に言いましたよね。」
「非物質的なレトリーバルではない。現実世界ともリンクして行うレトリーバルだよ。」
「どういう事で?」
「何も君達の意識は向こうの世界だけにあるわけではない。そうならば現実世界にいる意味は無いのだから。
こちらにも意識が存在しているのならば、こちらの意識を活用する事も重要じゃないかな?
現実世界で、そのように直感に従うべきかどうか、迷ったらその迷いの原因を問いかけて見る事だ。なぜ自分はこの迷いを持つのか。
そして、その答えを現実世界に求めてみる。もしも直感に従うべきであれば、その迷いの意識を開放すべく、必ずガイドが現れてくるのだから。」
「ガイドって、非物質的にじゃないんで?」
「ガイドは君の周りに、今ここにあるすべての内に存在する。現実世界で出会う人、情報、すべてがガイドからの声、メッセージ。
そこにある、自分の直感に従う時に邪魔をする捕らわれた意識。
ガイドのメッセージは、それを開放するように働きかけてくる。」
「それと妄想や思い込みとの違いはなんですかね?『これはガイドの声だ!』って思うと全部そう思えるでしょう?」
「調和の中に答えがある。」
「調和ですか。でも、直感にしたがって家庭崩壊したり、家族との関係が悪くなる場合もあるでしょう?それはどうなんで?宗教の教祖の中でも、家族を捨てて出家した人もいるじゃないですか。それは調和とは言わないのでは?」
「バランスを取る場合、不要なものを自分から切り離す必要がある事もある。」
「それ言ってたら、何が調和かわかんないですけどね。結果論じゃないんですか?結果なにかを残したから、それはしょうがないと思えるだけで。」
「世界には結果しかない。過程は存在しない。」
「それ、『家庭』と『過程』をかけているジョークですか?」
「今選んだ道の結果が今。過去に選んだ結果の積み重ねが今。過程ではない、すべて結果なのだよ。」
「じゃあ、その教祖が家庭を捨てるというのは最終的に宗教を立ち上げるための過程ではないと?」
「結果がそう見えるだけだ。」
「なんか、騙されているような気が。」
「今、を調和させるのだよ。未来でも過去でもなく、今。意識が荒い時は、今の意識を落ち着けるようにする。恐怖に感じる時は、今感じる恐怖と対話する。未来の自分で解決はできない。過去の自分に原因を求めても解決しない。」
「良く言われる「今」を大切に理論ですね。」
「今を調和させる事。そこに意識をむけることだ。」
「難しい事軽くいいますけど、どういう状態が調和なんですかね?」
「意識を広げ、全てを知覚する状態。」
「それって、武道の達人しか無理じゃないですか。」
「完全な調和を目指す必要はない。それができる人間は今ここに居る必要がないのだから。
調和に近づく意識を強く持ち、それを実行しようとする行動。そういうものが必要なのだよ。」
「失敗したら?」
「失敗ではない。そういう結果になるだけ。」
「へりくつだぁ。」
「自分の周りに存在するすべてのものを受け入れ、愛を持って接してごらん。全てに調和する、という意味が理解できてくるから。」
「それ、出来る人は居ないでしょう。」
「それを心がけるだけでいい。」
「でも、それって、『調和を感じる』という結果を出すための過程を大切にしている、という理屈になりませんか?」
「そうではないよ。周りのものを受け入れた「結果」、愛を持って接した「結果」の積み重ねが『調和を感じる』という結果につながっていると思うからそう見えるのだよ。
調和を感じるというのも一つの結果に過ぎない。それが最終目的のように感じているから、それまでの過程を必要とするのだろう。
君は今日ご飯を食べた。明日も食べるだろう。これは何のためかな?」
「おなかがすくと怒りっぽくなる・・・・ではなくて、ご飯を食べないと死ぬじゃないですか。」
「では、ご飯を食べ続けた結果何を目的としているのかな?」
「それは難しいですね。10年ご飯食べ続けたからといって、何かを会得したとは思いませんし。まあ、死なずに生きてこられてはいますかね。」
「それは、死なずに生きてこられるという結果を得るために、その過程としてご飯を食べる事を選択したのかな? それとも、ご飯を食べた、という結果を得ていたら、結果的に死なずに済んだのかな?」
「まあ、言いたい事はわかりましたけどね。同じ結果でも、『過程』を考えるとそれが後付でついてくるって言いたいわけですね。」
「先付けでもかまわない。こういう過程が存在すると思っていると、そういう過程を作り出してしまう。」
「それ言われると、何も考えずに、目標も定めずに生きろって事ですか?」
「ただ、そういう風にも見える。という事を言いたいだけだよ。
結果を求めて行動したい場合はすればいい。過程を重視したければすればいい。そこから得られるもので自分の得たいものを得られれば方法論はなんでもいい。
今の自分に必要な事は自分で判断するといい。そこにガイドからのメッセージも常に来ているのだから。」
「それと妄想の区別はどうやればいいんですか?」
「また振り出しに戻るのかい?」
「いや、できれば対話にも『結果』を得て終わりたいですから。」
「じゃあ君は“求める結果を得られない”という『結果』を得て、この話は終わるだろう。」
「そんな殺生な。」
「自分の身近な人との関係を常に見ておくことだよ。」
「それだけ?」
「自分の内面を見るのに一番いい方法は、自分の人間関係を改めて見つめ直す事だよ。」
「それって、この対話の結果でいいんですか?」
「今を生きる、全てに関する結果だね。」
「なんか、そういう事でいいのですかね。」
「ほら、君は『求める結果を得られなかった』という結果を得ただろう。」
「いっつも思うのですが、高次の存在って屁理屈ばっかですよね。」
「そう思うからそういう結果が目の前に出てくるのだよ。」
という感じで。久々の彼との対話ですが。
いっそ、神との対話みたいに、いろんなジャンルについて聞いてみようかと最近思う次第。
チャネリング本みたくなりそうですが、屁理屈で煙にまかれているような気もしないでもないですね。
対話で文章書くと、一番手っ取り早いので書くほうは楽ですけどね。自分で考えなくてもいいので。
ただ、こんな本は世の中にたくさん出回ってますから。今更という気はします。
バシャールでもラザリスでも、セスでも、たいてい言っていること同じようなものですからね。彼も同じようなとこ言ってますし。
チャネリグ、というと一対一の感じですが、今の世界はネット社会です。
せっかくブログやっているので、彼への質問コーナーとか作ると面白そう、とは思っています。
個人的なものはNGですけどね。
ただ、書く時間が・・・。
すごくリアルに響きましたね。
恐怖を直視する。。現実にもガイドの計らいが
活かされている。。そんな気がする瞬間があっても
「疑心暗鬼」が、それを無視する、ってことがよくあります。
後半戦は頭の悪い私には難解でしたが、それがわからないから生きているってことで(^_^;)
毎回ためになります。
彼を論破するまるの日さんをいつか見たいので、頑張ってください!
「彼」には意外とファンの方が多いみたいなので、もっとご登場願わないといけませんね。
アステカ仮面と彼との将棋対決ですか。
たぶん、アステカ仮面が勝つと思いますよ。
なんて言っても「すべてはうまくいっている」の人ですから。たぶんうまくいくのでしょう。
こういう対話は他と違う圭さん独自のもので貴重です。
それに、高次の人たちとの絡みがおかしくて(笑)とても身近に感じられて楽しいです。それでいて細かい部分まで気づきがたくさん詰まっていて本当に勉強になりありがたいです。
ツボは彼やイワンさんとの対話、エランさんのゴールドクロスでのコピー取り、アステカ仮面の一言です(笑)
ルリカさんやマダムとかの対話もとても楽しく、しかも勉強になりますし、今後もまた機会があれば対話が読めたら嬉しいです。よろしくお願いします。
とはいえ、もしここでまるの日さんが、優勝チーム予想を発表すれば、何かと影響が大きそうなので、チーム名は置いときまして。
あと、こういう時の未来予想に関してはガイドさんも話しにのってくるものなんでしょうか?ガイドさんと優勝予想の会話なんかできたらなんだか楽しそうだなぁと思いまして。
まるの日さんは本名を知っておられますよ。
山口県下関市の三菱重工に勤めている豊永大作の嫁です。実家は彦島本村で、家族から人と職場を使って嫌がらせにいじめとストーカーを受けてた嫁ですね。これで十分わかりますよ?。
だから、ガイドさんも ”もの申さず” ですか・・。
しかし、非物質世界と繋がる事の素晴しさというか魅力というか価値を”彼”さんが教えてくれていますね。
普通は ここまで踏み込んで”人の道”を説けないでしょう。
直感と調和の哲学ですね。
つまり ”調和”とは 例えて言えば、腕が放射状に幾つもある”天秤棒”とでも言えましょうか。
腕の長さは それぞれ違い、その先にある皿に のせている質量物も それぞれ重さが違うというように、それぞれの腕の条件は違えど天秤棒としてのバランスは絶妙に取れているといった具合に、その放射状に伸びた腕のバランスの基点となる部分を如何に発見するかが 言い換えれば”調和を探す旅”といえるのでしょう。
つまり、ここでいうところの”腕”とは、人それぞれの価値観であり、 ”質量物”とは、執着心や囚われた心といった 人が持つ宿命的な業(カルマ)と同時に、その執着心や囚われた心を打消す強い心でもあるのですね。
そのバランスが取れた時、人は精神的に心地よくなるのでしょうね。
”内からの直感”とは、つまり、 ”瞬時にバランスの基点を知る”ということではないかと思います。
直感と妄想の違いは、妄想は 一方向からの見た眼で判断すること。
直感は ”腕の長さ”を知り ”質量物の重さ”を知った上での判断ということですね。
ただ、 彼さんの説教を ルリカさんに もっと分かりやすく説いて頂けたらとも思います。
ちなみに、 ”アステカ仮面”さんと ”彼”さんが将棋差したら どちらが勝つんでしょうね?
先日まるのさんのブログを読み返していたのですが、まるの日さんが『ぼくマリ』をご存知だという話を読んでいて大変嬉しく思いました。知り合いのどんなマニアックな奴に話しても『ぼくマリ』の事を知らない奴が多いんです「お前らそれで自分の事オタクとか言うなよ!」って説教している次第なのですが、自分は宮村優子のCDドラマやOVA等全て網羅する程ハマリました。コミックスの最後に出てくるキャラクターは少しエヴァンゲリオンに似ている気もします、影響を受けているのでしょうか?
明日は祖父の四十九日、大好きだった祖父が亡くなってこの所非常に落ち込んでいたのですが、あの世の会いたい人に会える本を読んで希望を持つことが出来ました。ありがとうございます。
有難うございました。
最初車にミュージックテープが付いたのが、8トラックのでしたね。
そう、カラオケの最初も、8トラでした。
それから、カセットになり、CDになり、今は、HDDですか。
ほんと、ここ数年の進歩は、すごいですね。
さて、ガイドさんとの、禅問答いいですね。
分かったような、分からないような。
高次の方って、禅僧みたいですね。
まるの日さんの、突っ込みも、するどいですね。