悲しすぎる駒姫の最期とは
現在では秀次の謀反は冤罪という見立てだ。秀吉側近の石田三成らが、秀次からの政権交代を画策したという。しかし当時は、裏の事情など知る由もなく、世間では突発的な出来事として驚かれた。一方で、大名たちは恐れおののき、大慌ての様子。伊達政宗はいったん帰国したが、すぐに引き返す。徳川家康や上杉景勝も大急ぎで上洛。というのも、次期天下人であった秀次と共に謀反を企てたとの嫌疑がかけられる恐れがあったからだ。罪を犯した本人のみならず、その家族や親類縁者まで刑罰が科される「縁座(えんざ)」、また主従関係や特殊な関係の者まで刑罰が科される「連座」である。
そして、この縁座や連座に巻き込まれて処刑されたのが、お伊万の方(駒姫)を含む妻妾、侍女らであった。秀次が高野山へ出立したのが文禄4(1595)年7月10日、15日には切腹。妻妾らはというと、同年7月11日には、前田玄以の居城である丹波亀山城へ送られている。そうして、再度京都に戻され、8月2日には残酷ともいえる最期を迎えるのである。