世界116ヶ国中の92位とは:
昨日取り上げたスイスの機関による調査の結果を見て、複雑な思い(mixed feelingsと言うようだ)にとらわれたのだった。
我が国では「国民の英語力を高めて、国際化された時代に備えていこう」という極めて尤もらしい考え方が広く普及して、何年前だったから「児童の頭が柔らかくて、受け入れやすい小学校低学年から英語教育を開始して時代に備えよう」という高邁な思想の下に、外国人まで雇って幼児からの英語教育の強化を始めていた。
そこで、何故、折角、国を挙げて強化しようとしている英語教育が、何故このような残念な結果になってしまったのかを、私の独自の視点から分析してみようと思う。
小学校から英語を:
この「小学校から」という方式については、ある我が国を代表するような大企業のK元副社長は「万人に強制することとは思えない」と厳しい意見を述べておられた。また、私が昭和20年(1945年)に入学した英語の教育に定評があった公立の中学校でも、既に「イヤ語」と呼ぶような英語を嫌う者が多く出てきた始末だった。それと同じようなことになりそうな英語教育を70年経ってもまた開始したという事。
検定試験方式:
文科省も英語教育には重きを置いているし、民間(なのだろう)ではTOEIC、TOEFLという試験を実施し、民間であっても文科省公認の「実用英語技能検定(通称「英検」)」もあって、専ら試験の成績で英語力を認定する仕組みになっている。これをある外国語の講師は「答えが一つしか無い試験の為の試験に備える外国語教育」と批判していた。
私は「このように各種の検定試験で好成績を挙げられるように英語学を科学的に教える教育」を批判してきたが、否定している訳ではない。それは学校教育における英語は「生徒または学生の成績を5段階で査定する為」であって、会話の能力を付けるような実用性を高める意図はない」のだから。くどいようだが、試験対策の一環なのである。
10数年前のことだったか、私が主張する英語論とその勉強法に対して、TOEICで高い点を取ったと自称する方から「貴方はTOEICを受けていないのだから、論じる資格が云々」と強烈に非難されたことがあった。敢えて反論しなかった。それは、アメリカの大手企業でアメリカ人の中にあって何ら問題が無かった英語力を、今更TOEICで試す意味などないと確信しているから。
アメリカ人と意見交換をする場合に「私はTOEICが600点にも満たないので(英検2級でしないので)、ご理解のほどを」などと断っておく必要でもあるのか。
学校教育の成果:
20年以上もの間、日本向けの輸出担当マネージャーとして、多くの我が国の一流企業の方々に色々な交渉の場で接してきた。そこで、改めて認識できたことは「我が国の一流企業の責任ある地位についておられる方々は、文書になっている英語の理解力(読解力)は非常に高いが、自分の思うところを英語にして表現する能力(会話)や英語で論旨を組み立てて議論をするのを得手とはしておられない」という残念な点だった。
何故そうなってしまうのかと言えば「我が国の英語教育では日本語と英語の間には明らかな文化と思考体系の違いが存在するのだが、その相違があることに触れて教えていないので、多くの方は日本語の思考体系と歴史と伝統がある文化に基づいて論旨を展開するのだから、同様に異文化の存在を知らないアメリカ側の意見や見解や意思の表示とは噛み合わない結果を招いている」のである。
指摘しておきたいことは、単語の知識や文法等々を科学的に教えることは否定しないが、「英語とは歴史も文化も思考体系の異なる国の言語である事」を教えるようになっていないという問題が生じる。故に、「幾ら説明しても通じない」とか「何を言っても解って貰えない」と言うような結果になってしまう。彼等は「妥協しよう」とか「何処に落とせば話が纏まるのか」のような考え方はしない人種なのである。
我が国で万人が英語での自己表現の能力を備える必要があるのか:
私は無用だと確信している。だが、海外に出て勉強/研究を続けようとか、外国の企業に転身してそれまでに鍛え上げてきた実力を発揮しようというような確固たる目的を持つ方々が、「科学としての英語」だけではなく、海外でも通用するように”I know how to express myself.”の英語の能力を備えておく必要はあるのだ。
専門語の知識を養う必要もあれば、native speakerたちが日常的に使う(学校では教えていないような)慣用句(idiom)や口語的表現(colloquialisms)を習得しておかねば、毎日悩まされるようなことになるだろう。日本語にも慣用句も、口語的表現もあるのではないか。
私は今日までに繰り返して「我が国は世界にも希な英語乃至は外国が介在せずとも、全ての学問から近代科学までを学べるようになっている国」なのであるから、万人に強制することなく「イヤ語」嫌いを作らないような英語の教育の仕組みを考えても良いときが来ているのではないだろうか」と主張してきた。「音読・暗記・暗唱」の勉強法も推薦した。
結び:
もうそろそろ「街中で外国人に道を尋ねられて答えられず、恥ずかしい思いをした」などと嘆く人が出てくることないようになって欲しい。答えられないのは「その方の責任ではなく、我が国の学校教育における英語の教え方にある」のだから。ではあっても、116ヶ国中92位では、誰かが何かを改革する必要があるのではないのだろうか。
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