希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
「職業・家庭・教育、すべてが不安定化しているリスク社会日本。『勝ち組』と『負け組』の格差が、いやおうなく拡大する中で、『努力は報われない』と感じた人々から『希望』が消滅していく。将来に希望が持てる人と、将来に絶望している人の分裂、これが『希望格差社会』である。」
これは、この表紙の帯に書かれている言葉であり、おそらく書評などで見かける本書の理解であるといえる。
頭をひねって理解するというのではなく、理解しようとするものを自らの問題へと接合を試みながら解読しようとするのでもなく、ただ流れてきた風評をフロス<froth=泡>のごとく賞味していく。そのような一般的な情報に対する姿勢を思い知らされる本だ。
この本のように特に「流行」した本は、まさにそのほんとうの内容の質などにまったく無関係に<froth=泡>のごとく消費されていく。
私がいいたいのは、この本はこの表紙に書かれている内容以上に意義深い本であるということである。
著者は、近年とくに進みだしているといわれている社会の不安定化について、「リスク化」「二極化」という二つのキーワードを分析することを中心に述べている。
まず近代まで(著者の主張と照合するなら、あえて1998年までとする)は、ある程度社会は安定していた。
もちろんそこには、職業、婚姻相手に対する選択などの自由はあったが、まだ経済的に膨張を続けてきていたこの時期には、今に比べて安定があったといえる。
この安定を脅かしていったのが、家族、労働組合、会社など社会と個人の間に横たわる「中間集団」(41項)ということである。
この「中間集団」の説明にはいる前に、一般的な意味での近代社会から市場を重視する資本主義社会に移行する中で顕在してきた選択とリスクについてみてみたいと思う。
選択をするということはリスクが伴うということである。
資本主義社会では、選択は自由にできる。しかし、必ずしもその選択が成就するということを保証するものではない。
「リスクは、『敢えてする、勇気をもって決断する』というものが原義であったことを思い出していただきたい。自由で人生の選択が可能な社会とは、逆に、選択に伴う新たな危険に出会う可能性がある社会なのである。」(31項)
と著者は述べた上で、これで最近よくいわれる自己実現について、その定義を「自らの意志で選択し、自分で思い描いた状態を実現すること」(33項)とし、
「自己実現の強調は、個人の生活や意識にとって、プラスの側面ばかりではない。まず、選択肢が多様化しても、その選択肢が実現できない場合が発生する。だから、リスクなのである。自己実現できない状態に出会えば、自己不全感に陥る。中には、絶望感に陥り、自殺する人も出てきてしまう。
自己実現ができずに、状態が悪くなったとしても、誰のせいにもできない。つまり。『自己責任』の概念が発生する。自己責任は、個人の感情状態に相当の負荷をもたらす。
同時に、自己実現の強要という事態も現れる。リスクをとることが賞賛されると、リスクをとらないでいること、自分の理想を持たないこと、目指さないこと自体が非難されるものとなる。」(33-34項)
という様に述べている。
選択ということの幅が広がるに連れ、能力がある者がより、富んでいき、そうでないものは貧しくなる。その結果として、能力がないものは、頑張っても仕方ないという風になってしまうというのが、希望格差が現れる前提ということだ。
(*ここでは、選択とリスクという観点からおもに自己実現ということを見たが、夢というもう少し意味を拡張した観点からは、220項周辺で述べられている「夢見る若者の不良債権化」を参考にされたい。)
次は、1998年頃までとくに個人を選択によるリスクから守ってきたとされていた「中間集団」について見てみよう。