“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論人文書院このアイテムの詳細を見る |
まずは、Ⅰの文学と哲学をつなぐもの
という部分の要約から
この部分で澤田氏が指摘しているのは、サルトルが、彼の後にウンベルト・エーコが『物語の読者』などで「〔読者は〕物語るという行為の要素としてだけではなく、物語そのものの要素として、いつでも必要なのだ」と述べる以前に、
読者の重要性を説いていたということ。
また、サルトルにおいては、その作者と読者の関係というものは、呼びかけという様態で示されており、それは、サルトルが後に『存在と無』『倫理学ノート』などで述べるような対他関係へとつながっていくということである。
以上のことをサルトルの言葉をこの本から抜き出すことで見ておこう。
サルトルが読者の位置づけをクローズアップさせたのが、一般的にアンガジュマン文学としての印象をもたれている『文学とは何か』という本にてである。
一般的には、サルトルというと、
特定の政治思想を伝えるメッセージとしての小説というものを重視しているというイメージがあるが、澤田氏の指摘によると、
サルトルがこの本で、伝えようとしていたのは、「〈呼びかけ〉としての文学」(20頁)であるという。
このことは、
「書くものは、読むもの自由に向かって書き、読むものにその作品を存在させることを要求する。しかし、それだけではなく、読むものが彼の与えた信用を返してくれることを要求し彼らが彼ら自身の創造的自由を承認することを要求し、読むものの側でも対称的に逆から呼びかけを行って、書くものの側の自由を喚起してくれることを要求するのだ。そこで、読むことのもうひとつの弁証法的逆説が現れる。われわれが、われわれ自身の自由を感じれば感じるほど、われわれは他人の自由を承認するし、他者が我々に要求すれば要求するほど、我々は他社に要求するようになるのである。」(本書23頁,『文学とは何か』からの引用として)
これは、澤田氏も述べるようにエーコだけではなく、バルトなどの読者論、作者の死などにも通じることである。
また、この読者論で述べられていることは、その人間存在の形態を対自存在の自由を条件とするサルトルの人間存在論へと通じていくことになる。
これまでに、ここで幾度か、対自-即自存在については見てきたので詳しい説明は省略するが、サルトルの人間存在論は、「実存は本質に先立つ」という実存主義の命題を元に成り立つ。
このことは、澤田氏も指摘するように、実存、つまりはここでは人間存在についてその上位概念としてたとえば、日本人であるとか、何々主義であるというようなものを認めない。
ということは、対他的状況において他社との共通項を持たないということになる。
共通項のない状態で倫理というものが成り立つのか?
成り立たないゆえにサルトルのモラル論は不在である。
というのが、澤田氏以前の去るとるモラル論に対する見解であったようだが、澤田氏は、
「モラルの不可能性こそがモラルを要請し、伝達の不可能性こそが伝達を要請する」(65頁)
というように指摘し、以降でサルトルのモラル論の構築を試みていく。