「倫理学概説」の第3回の遠隔授業で幸福について考えてもらったとき、
ワークシートの質問欄に長文の所見を書いてくれた方がいらっしゃいました。
力作なのでぜひ引用してみましょう。
「今回の講義を受けて、あらためて人間はよくできている生き物だと感じた。結局人間は本能の中で種を残すことを考えているんだと思う。『幸福』は子孫を残すための手段にすぎないのだと思う。きっと『本能』の中で幸福=子孫を残すことになっているのだろう。それに気づいていないだけで。ただそれに気づかなかった古い哲学者たちが人間が生きやすいように『幸福』を定義して世の中に広めてきた。その結果が今の世の中なのだと思う。都合のいいように『幸福』の定義がされ、だれもそれを疑わない。疑ったとしても世の中の大多数の人間の考えにのまれ、自分は間違っているのだと勝手に思ってしまう、もしくは間違っているとして世の中から一方的に考えがかき消される。社会の上にいるものは世の中の考えが大きく変わることを恐れる。自分たちの支配が崩れるのを恐れる。だから、危険な新しい考えは普通の人にはわからないようにこっそりとかき消される。そうやって人間は人間を支配し、世の中の人は支配されるのが当たり前になってしまっている。かといって、私には世の中を変えるような定義は浮かばないし、浮かんだとしても世の中にそれを発信し、世界を全く別のものにする勇気もない。人間は現状維持を強く望む。新しいものを恐れる。ただ、新しいものを恐れ、現状維持をしたところで人間は生き残っていけるのか。この地球上で変化していないのは人間だけだろう。このままなら人間は確実に絶滅する。変化を求めないと確実に絶滅する。変化を恐れてはいけないのだと感じた。申し訳ありません。意味の分からない文章書きました。倫理学の講義を受けると、答えのないものを考えているのですごく深く考えてしまいます。今回の文章も自分が考えたことです。所詮1個人のどうでもいい文章なので、読んでいただかなくてもいいです。自分でもきっと寝ると忘れてしまうようなものなので。自分のような人間がこんなことを書いてしまい申し訳ありません。もしかしたら自分の中で思っていることも小野原先生のような普段から深いことを考えている人であればわかっていただけるような気がして書きました。このような無礼をお許しください。大変失礼いたしました。」
大変おもしろく読ませていただきました。
が、私はこの方とはだいぶ違う意見をもっています。
というか、この方も私がこれとは違う意見を持っていることを、
これを書いたのとちょうど同じ時期に聞いていた(読んでいた)はずです。
「倫理学概説」の第3回遠隔授業は5月26日から6月1日にかけて行われました。
その同じ週の5月27日から6月2日にかけて、
「キャリア形成論」の第3回「働くとは」の遠隔授業を行いました。
これを書いてくれた方は人間発達文化学類の1年生なのでどちらも履修しています。
「キャリア形成論」では例の「本能の壊れた動物」という話を読んでもらいました。
はたしてその話を覚えていた上で、それに対する反論としてこの文章を書いてくれたのか、
それともあの話とこの話が関係すると思わなかったのかわからないのですが、
せっかくですので、この件に関する私の見解を述べておきましょう。
まずこの方は「結局人間は本能の中で種を残すことを考えているんだと思う」
と書いてくれましたが、
「本能の壊れた動物」の話はまさにそんな本能はない(=壊れている)と主張したのでした。
古代ギリシアや江戸時代までの日本などでは
同性愛(男色)が当たり前の文化として根付いていたので、
そのことが種の保存本能がない(=壊れている)ことを証明していると思います。
したがってその次の「『幸福』は子孫を残すための手段にすぎない」という論にも、
「『本能』の中で幸福=子孫を残すことになっている」という論にも私は同意できません。
そういう人もいるだろうし、そのほうが多数派かもしれないけれど、
そうでない人が「13人に1人」とか「33人に1人」とかの割合で確実にいるのだとすると、
子孫を残すことが本能であるとか幸福であると言うことはできないでしょう。
その次の「それに気づいていないだけで」と「ただそれに気づかなかった」を除いて、
「古い哲学者たちが人間が生きやすいように『幸福』を定義して世の中に広めてきた」
から始まり、
「人間は人間を支配し、世の中の人は支配されるのが当たり前になってしまっている」
のところについては、私も同意見です。
ただしこの部分は本能の話ではなく、文化の話になっていると思います。
「人間は現状維持を強く望む。新しいものを恐れる」という部分は、
人間のある一面を捉えていると思いますし、
ひとりひとりの人間や短い時間に定位して考えるならばそういう傾向が強いと思いますが、
人類全体やちょっと長い時間(10年程度で十分)で見てみると、
むしろ人間はどんどん変化して新しいものに順応していっていると言えるでしょう。
文化は可変性が高いところにその特徴がありますので、
個人レベルでいくら現状維持を望んだところで、文化の変容を受け入れざるをえないのです。
私が福島大学に赴任した1994年当時、
喫煙者が多数派であって、禁煙場所は設けられていたとしてもほんのわずかでした。
教員会議が開かれる会議室には各テーブルに灰皿が置かれていました。
それから20年も経たないうちに福島大学がキャンパス内全面禁煙になるなんて、
まったく想像もできませんでした。
その頃はまだ「セクハラ」という概念自体が存在していませんでした。
男性教授が女性教員や事務職員に対して、
「まだ結婚しないのか」とか「付き合ってる人はいるのか」とか「子どもは産まないのか」
と聞くのは当たり前のことで、相手のために心配してあげているのだと、
本人たちは心から信じていました。
ボディタッチですらスキンシップという名の親密性を共有する行為として、
まったく悪気なく行われていました。
まさかそれが懲戒処分の対象になる日が来るなんて想像もできませんでした。
こんな短いスパンで変化していく動物は他に存在しません。
というよりも他の動物ははたして変化しているのでしょうか?
進化というのは元の生物が遺伝子レベルで変化して、
別の種の生物へと枝分かれすることです。
これは個体レベルでの変化ではありません。
ある動物が産まれてから死ぬまでの間に、遺伝子変化を遂げるのではなく、
突然変異として遺伝子変化を遂げた個体が産まれてきて、
それがたまたま何らかの環境変化に適応するのに有利に働き、
その遺伝子を受け継ぐ者たちが増えていくということによって新しい種が生じます。
その際、元の種は絶滅しない限りは元の種のまま存続しますから変化するわけではありません。
進化というのは、元の種から新しい種が枝分かれして増えるということであって、
現に存在している種が別のものに変化するというわけではないのです。
私たちホモ・サピエンスも、動物の種という意味で言うならば、
他の動物と同様、誕生以来20万年間、遺伝子レベルでは変化(=進化)していません。
その意味では人間はまったく変化していないと言えるでしょう。
しかしだからといって「この地球上で変化していないのは人間だけだろう」とは言えません。
他の動物も変化しておらず、チンパンジーはチンパンジーのままだし、
ボノボはボノボのままなのです。
この先、ホモ・サピエンスが進化して何らかの新しい種が生まれることがあったとしても、
それは新しい種が増えたというだけであって、
ホモ・サピエンスはホモ・サピエンスのままなのです。
しかしホモ・サピエンスはもはや進化なんかしなくとも、
たいがいの環境変化に適応していくことができます。
遺伝子レベルで変化せずとも、文化を変化させることによって適応できるからです。
その最たる例が宇宙ロケットです。
人類は地球外に飛び出ることができるようになりました。
地球という環境以外のところですら生活することができてしまうのです。
他の動物が何億年かかって進化したところで地球の外に出て行くことはできないでしょう。
それを人類は遺伝子を変えることなくたった20万年で可能にしてしまったのです。
そう考えるとこの地球上で人間ほど変化している動物はいないと言えるのではないでしょうか。
人間がただ本能にしたがって子孫を残すことだけを目的にしていたのなら、
こんな偉業はけっして達成できませんでした。
本能とは関係ないところで文化を発達させ、
変化し続けてきたからこそ今の私たちがあると思うのです。
というわけで、今回この意見を書いてくれた方と私は、
出発点の本能のとらえ方のところでまったく対立しているのですが、
最後の結論に関しては全面的に同意したいと思います。
「このままなら人間は確実に絶滅する。
変化を求めないと確実に絶滅する。
変化を恐れてはいけないのだ」
この方が何に関して絶滅の危機を感じていらっしゃるのかわかりませんが、
私もこのままでいったら絶滅する危険性を感じています。
日本なんか真っ先に滅びるでしょう。
(選択的夫婦別姓制度を導入することすらできなければ少子化→絶滅は必至です。)
変化を恐れず、新しい文化を生みだしていかなければいけないと思います。
こちらの思考を誘発するような意見をありがとうございました。
ワークシートの質問欄に長文の所見を書いてくれた方がいらっしゃいました。
力作なのでぜひ引用してみましょう。
「今回の講義を受けて、あらためて人間はよくできている生き物だと感じた。結局人間は本能の中で種を残すことを考えているんだと思う。『幸福』は子孫を残すための手段にすぎないのだと思う。きっと『本能』の中で幸福=子孫を残すことになっているのだろう。それに気づいていないだけで。ただそれに気づかなかった古い哲学者たちが人間が生きやすいように『幸福』を定義して世の中に広めてきた。その結果が今の世の中なのだと思う。都合のいいように『幸福』の定義がされ、だれもそれを疑わない。疑ったとしても世の中の大多数の人間の考えにのまれ、自分は間違っているのだと勝手に思ってしまう、もしくは間違っているとして世の中から一方的に考えがかき消される。社会の上にいるものは世の中の考えが大きく変わることを恐れる。自分たちの支配が崩れるのを恐れる。だから、危険な新しい考えは普通の人にはわからないようにこっそりとかき消される。そうやって人間は人間を支配し、世の中の人は支配されるのが当たり前になってしまっている。かといって、私には世の中を変えるような定義は浮かばないし、浮かんだとしても世の中にそれを発信し、世界を全く別のものにする勇気もない。人間は現状維持を強く望む。新しいものを恐れる。ただ、新しいものを恐れ、現状維持をしたところで人間は生き残っていけるのか。この地球上で変化していないのは人間だけだろう。このままなら人間は確実に絶滅する。変化を求めないと確実に絶滅する。変化を恐れてはいけないのだと感じた。申し訳ありません。意味の分からない文章書きました。倫理学の講義を受けると、答えのないものを考えているのですごく深く考えてしまいます。今回の文章も自分が考えたことです。所詮1個人のどうでもいい文章なので、読んでいただかなくてもいいです。自分でもきっと寝ると忘れてしまうようなものなので。自分のような人間がこんなことを書いてしまい申し訳ありません。もしかしたら自分の中で思っていることも小野原先生のような普段から深いことを考えている人であればわかっていただけるような気がして書きました。このような無礼をお許しください。大変失礼いたしました。」
大変おもしろく読ませていただきました。
が、私はこの方とはだいぶ違う意見をもっています。
というか、この方も私がこれとは違う意見を持っていることを、
これを書いたのとちょうど同じ時期に聞いていた(読んでいた)はずです。
「倫理学概説」の第3回遠隔授業は5月26日から6月1日にかけて行われました。
その同じ週の5月27日から6月2日にかけて、
「キャリア形成論」の第3回「働くとは」の遠隔授業を行いました。
これを書いてくれた方は人間発達文化学類の1年生なのでどちらも履修しています。
「キャリア形成論」では例の「本能の壊れた動物」という話を読んでもらいました。
はたしてその話を覚えていた上で、それに対する反論としてこの文章を書いてくれたのか、
それともあの話とこの話が関係すると思わなかったのかわからないのですが、
せっかくですので、この件に関する私の見解を述べておきましょう。
まずこの方は「結局人間は本能の中で種を残すことを考えているんだと思う」
と書いてくれましたが、
「本能の壊れた動物」の話はまさにそんな本能はない(=壊れている)と主張したのでした。
古代ギリシアや江戸時代までの日本などでは
同性愛(男色)が当たり前の文化として根付いていたので、
そのことが種の保存本能がない(=壊れている)ことを証明していると思います。
したがってその次の「『幸福』は子孫を残すための手段にすぎない」という論にも、
「『本能』の中で幸福=子孫を残すことになっている」という論にも私は同意できません。
そういう人もいるだろうし、そのほうが多数派かもしれないけれど、
そうでない人が「13人に1人」とか「33人に1人」とかの割合で確実にいるのだとすると、
子孫を残すことが本能であるとか幸福であると言うことはできないでしょう。
その次の「それに気づいていないだけで」と「ただそれに気づかなかった」を除いて、
「古い哲学者たちが人間が生きやすいように『幸福』を定義して世の中に広めてきた」
から始まり、
「人間は人間を支配し、世の中の人は支配されるのが当たり前になってしまっている」
のところについては、私も同意見です。
ただしこの部分は本能の話ではなく、文化の話になっていると思います。
「人間は現状維持を強く望む。新しいものを恐れる」という部分は、
人間のある一面を捉えていると思いますし、
ひとりひとりの人間や短い時間に定位して考えるならばそういう傾向が強いと思いますが、
人類全体やちょっと長い時間(10年程度で十分)で見てみると、
むしろ人間はどんどん変化して新しいものに順応していっていると言えるでしょう。
文化は可変性が高いところにその特徴がありますので、
個人レベルでいくら現状維持を望んだところで、文化の変容を受け入れざるをえないのです。
私が福島大学に赴任した1994年当時、
喫煙者が多数派であって、禁煙場所は設けられていたとしてもほんのわずかでした。
教員会議が開かれる会議室には各テーブルに灰皿が置かれていました。
それから20年も経たないうちに福島大学がキャンパス内全面禁煙になるなんて、
まったく想像もできませんでした。
その頃はまだ「セクハラ」という概念自体が存在していませんでした。
男性教授が女性教員や事務職員に対して、
「まだ結婚しないのか」とか「付き合ってる人はいるのか」とか「子どもは産まないのか」
と聞くのは当たり前のことで、相手のために心配してあげているのだと、
本人たちは心から信じていました。
ボディタッチですらスキンシップという名の親密性を共有する行為として、
まったく悪気なく行われていました。
まさかそれが懲戒処分の対象になる日が来るなんて想像もできませんでした。
こんな短いスパンで変化していく動物は他に存在しません。
というよりも他の動物ははたして変化しているのでしょうか?
進化というのは元の生物が遺伝子レベルで変化して、
別の種の生物へと枝分かれすることです。
これは個体レベルでの変化ではありません。
ある動物が産まれてから死ぬまでの間に、遺伝子変化を遂げるのではなく、
突然変異として遺伝子変化を遂げた個体が産まれてきて、
それがたまたま何らかの環境変化に適応するのに有利に働き、
その遺伝子を受け継ぐ者たちが増えていくということによって新しい種が生じます。
その際、元の種は絶滅しない限りは元の種のまま存続しますから変化するわけではありません。
進化というのは、元の種から新しい種が枝分かれして増えるということであって、
現に存在している種が別のものに変化するというわけではないのです。
私たちホモ・サピエンスも、動物の種という意味で言うならば、
他の動物と同様、誕生以来20万年間、遺伝子レベルでは変化(=進化)していません。
その意味では人間はまったく変化していないと言えるでしょう。
しかしだからといって「この地球上で変化していないのは人間だけだろう」とは言えません。
他の動物も変化しておらず、チンパンジーはチンパンジーのままだし、
ボノボはボノボのままなのです。
この先、ホモ・サピエンスが進化して何らかの新しい種が生まれることがあったとしても、
それは新しい種が増えたというだけであって、
ホモ・サピエンスはホモ・サピエンスのままなのです。
しかしホモ・サピエンスはもはや進化なんかしなくとも、
たいがいの環境変化に適応していくことができます。
遺伝子レベルで変化せずとも、文化を変化させることによって適応できるからです。
その最たる例が宇宙ロケットです。
人類は地球外に飛び出ることができるようになりました。
地球という環境以外のところですら生活することができてしまうのです。
他の動物が何億年かかって進化したところで地球の外に出て行くことはできないでしょう。
それを人類は遺伝子を変えることなくたった20万年で可能にしてしまったのです。
そう考えるとこの地球上で人間ほど変化している動物はいないと言えるのではないでしょうか。
人間がただ本能にしたがって子孫を残すことだけを目的にしていたのなら、
こんな偉業はけっして達成できませんでした。
本能とは関係ないところで文化を発達させ、
変化し続けてきたからこそ今の私たちがあると思うのです。
というわけで、今回この意見を書いてくれた方と私は、
出発点の本能のとらえ方のところでまったく対立しているのですが、
最後の結論に関しては全面的に同意したいと思います。
「このままなら人間は確実に絶滅する。
変化を求めないと確実に絶滅する。
変化を恐れてはいけないのだ」
この方が何に関して絶滅の危機を感じていらっしゃるのかわかりませんが、
私もこのままでいったら絶滅する危険性を感じています。
日本なんか真っ先に滅びるでしょう。
(選択的夫婦別姓制度を導入することすらできなければ少子化→絶滅は必至です。)
変化を恐れず、新しい文化を生みだしていかなければいけないと思います。
こちらの思考を誘発するような意見をありがとうございました。
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