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2006年のイタリア旅行を回想し紀行文にまとめました。58歳の時に行ったイタリア、スペイン、モロッコ、東南アジア、パタゴニア、マチュピチュなどの紀行はそのうち書けるだろうとたかを括って伸ばし伸ばしにしていたが既に76歳になってしまった。
ブログとして写真中心のまとめは一応していたのだがやはり文章が少なすぎる。
性根を入れて書かねばと決意しています。そしてアマゾンで電子出版を計画しています。長期にわたって連載の予定ですのでお付き合いしていただければ嬉しいです。
ギベルティとブルネレスキのライバル意識が歴史に残る名作を生むことになる。
ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキは、ルネサンス期のフィレンツェで活躍した二人の天才芸術家であり、そのライバル関係は美術史における重要なエピソードとして知られている。
ロレンツォ・ギベルティ (Lorenzo Ghiberti)1378年生まれの彫刻家および金細工師としてフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ大聖堂)の洗礼堂の「天国の門」(扉のブロンズ製レリーフ)製作。
フィリッポ・ブルネレスキ (Filippo Brunelleschi)1377年生まれの建築家、金細工師、彫刻家としてフィレンツェ大聖堂のドーム(クーポラ)を。
ギベルティとブルネレスキの骨がらみのライバル関係は、個人の恩讐を超えて、芸術と建築の世界に新たな地平を開く結果を生み出し、それぞれの得意分野での成功は、ルネサンス期のフィレンツェを芸術の中心地として栄えさせる原動力となった。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の前に立つとこの壮麗な建築の背後に人の野心や情熱が織り成す物語を思う。眼前のネオゴシックのファサードは、現実と夢の間にある幻影となって私を魅きつけた。身震いする恐怖とも何とも形容し難い人間の業を感じた。
大聖堂の出生にまつわる真の物語はこの写真の左はしに僅かに写る、天国の門と呼ばれるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の黄金に輝く扉の中に埋もれている。その扉を創り上げたロレンツォ・ギベルティと、このフィオーレ大聖堂のドームを設計したフィリッポ・ブルネレスキの二人の芸術家の間には野心と競争心が刻印されていた。
1401年のコンペティションで若いギベルティが勝利を収めたとき、ブルネレスキは深い挫折を味わった。その悔しさは彼をローマへの修学に旅立たせ、ローマは彼を建築の天才へと変貌させた。彼はギベルティに勝つために、フィレンツェ大聖堂ドームの建築に全てを賭けた。
ブルネレスキとギベルティの間には遡ること17年前の1401年に始まる確執があった。1401年街の羅紗生産者組合が費用を出し23歳の彫刻家ギベルティと24歳の金細工師ブルネレスキがコンペの予定がブルネレスキが共同制作を嫌ったためギベルティに決定。
フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂東側にある第三門扉(北扉)の装飾を担当する芸術家を選ぶためのコンペティションが開催された。課題は、旧約聖書の「イサクの犠牲」の場面を描いたブロンズ製のレリーフを提出するよう求められた。23歳の彫刻家ギベルティと24歳の金細工師ブルネレスキの他、ドナテッロやジャコポ・デッラ・クエルチャなどの有名な芸術家が参加した。コンペの予定がブルネレスキが共同制作を嫌ったためギベルティに決定したといういきさつがあった。
ギベルティは、流麗で繊細な表現力を駆使し、人物の優雅さや表情の豊かさを描いた作品を提出した。ブルネレスキは、より力強く、立体感とドラマ性を重視したスタイルで、彫刻的な構成が強調された。ここではギベルティがコンペティションに勝利し、洗礼堂の扉の制作を任されることになった。
サン・ジョヴァンニ洗礼堂の東側にある第三門扉「天国の門」はギベルティが手掛け、黄金に輝く「天国の門」が完成。「天国の門」はミケランジェロが「天国の門のようだ」と絶賛したことによるという。
花の聖母大聖堂脇に立つサン・ジョヴァンニ洗礼堂が先に建った。1401年、街の羅紗生産者組合が費用を出した第二門扉のコンペで課題は「イサクの犠牲」23歳の彫刻家ギベルティと24歳の金細工師ブルネレスキがコンペの予定がブルネレスキが共同制作を嫌ったためギベルティに決定。
この結果は、ブルネレスキにとって非常にショッキングなもので彼にとって大きな挫折となり、彼はその後、ローマに去って建築の勉強に専念するようになった。しかしこの大きな挫折が後年フィレンツェ大聖堂のドームという一大傑作を生み出すきっかけとなった。
ブルネレスキは、自分の作品がより革新的で力強いものであると考えており、ギベルティの勝利を不当と感じていたのだ。あいつら選考委員には見る目がないという不満と悔しさが挫折感を一層強めたに違いない。
フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の建設は1296年に始まった。しかし長い間、大聖堂の主祭壇の上にはドームが建てられておらず、屋根がない状態が続いていた。これは、当時の技術ではこのような巨大なドームを支える方法が見つからなかったためだ。
1418年、フィレンツェ市の有力者たちは、未完成のドーム問題を解決するために設計コンペを開催した。優勝者には、フローリン金貨200枚と永遠の名誉が約束された。大聖堂の中心に巨大な柱を立ててドームを支える案やドームの重量を減らすために「スポンジ石」(多孔質の火山岩)を使う提案が出されたが凡庸で却下された。
ブルネレスキは、二重構造のドームを提案した。彼の計画では、外側のドームの内側にもう一つのドームを作り、全体をセルフサポート型にするというものでさらに通常の建設に必要な木製の枠を使わずに建設することで費用を削減する提案をした。
ブルネレスキは、アイデアをライバルに盗まれるのを恐れ、具体的な建設方法を明かすことを拒否したために造営の委員たちは、彼の態度に怒り、2度にわたって議論の場から追い出したとも言われている。
しかし非凡な設計を却下するわけにもいかずブルネレスキがフィレンツェ大聖堂のドーム(クーポラ)の設計を担当することになったとき、ギベルティはその進行の担保として駆り出され、ブルネレスキとともに共同でプロジェクトを進めることになった。ギベルティは後で述べる宿命のライバルだ。
ブルネレスキの野心はただの挑戦では終わらなかった。彼はギベルティを排除し、自分だけの方法でこのドームを完成させるため、あらゆる策略を尽くした。彼は仮病を使い、ギベルティを立ち往生させ、自分だけが知るドーム技術でドームを思う存分建設するという、悪辣とも言える策略を展開した。
二人は共同で作業を始めたが、設計や工法についての意見の相違が元々あるためギベルティはブルネレスキに懐疑的であり、当然の成り行きと言える摩擦が生じた。ライバルにそれぞれお目付け役と進行の責任を負わせてはうまくいくはずがない。(現代でも同じようなケースがありそうだ。)
ブルネレスキは技術的な専門知識と能力を発揮し、プロジェクトの進行を主導するようになった。その結果、ギベルティの役割は徐々に縮小され、最終的にはプロジェクトから事実上外されることになった。
決定的にギベルティを排除するためにブルネレスキは仮病を使い、わざとギベルティ一人で進めさせたがドーム建築の秘密の手法を明かさなかったためにギベルティは結果的に立ち往生して進めることができず、共同責任者から排除されることとなったとの伝説がある。陰湿な感があり本当かどうか疑わしいがともかくもそういうエピソードがあった。
結果的にブルネレスキは、フィレンツェ大聖堂のドームの設計と建築で大成功を収め、彼の技術革新は建築の歴史に大きな影響を与え、このドームは、彼の建築家としての才能を世界に示す象徴となった。
大聖堂のドームは完成し、ブルネレスキの名は歴史に永遠に刻まれることとなった。私はその背後に潜む人間の欲望と嫉妬、そして栄光の影に隠されたギベルティの苦しみを感じる。芸術とは美だけではない、人間の最も深淵にある醜い部分を映し出す鏡であり、実に実に冷酷なものなのだ。二人の芸術家は抱えた葛藤と栄光、深い闇の影を人類の永遠の業としフィオーレ大聖堂のドームに残した。