わたしが二十一の頃寮で2段ベッドに横になっている時だった。下段で寝転がっていたが上段のS君はいなかったような気がするが何せ55年も昔のことだ、曖昧で朧だ。片隅に転がっているだけでも奇跡なのだが今でもこうして記憶している実に不思議な体験だ。
そんな経験は初めてだったがある想念が我が頭をとらえた。結構ビジュアルなものだったかもしれないが確かではない。体の弱い女が登場した。あなたを一生面倒見てあげよう、それで我が人生は帳尻がつくとその時に思った。それまでの二十一の人生で、すでに我が人生は相当に業の深いものではないかと漠然と考え始めていた時期なのだろう。
のちに知ったのだが親鸞が29年に比叡山を去り、六角堂で100日間の断食で不断に聖徳太子に祈っていると救世観音が現れて親鸞に女犯させよう、親鸞を一生面倒みよう、死ぬ時は浄土に送ってあげようと誓ったという。これは恵信尼だと伝えられている。この時に法然を訪ねよともお告げがあったという。
わたしの予知夢は親鸞が見た救世観音ほどありがたいものではない、そんな滅相もないと遜る気は少しもない。この予知の通りに半年後に出会った女性が今となってはその予知の女性だったのだ。
女犯させよう、親鸞を一生面倒みよう、死ぬ時は浄土に送ってあげようとまでは約束しなかったが迎えに来て送ってくれるだろう。当時わたしは親鸞をほとんど知らず、関心も全くなかった。だから何かを読んであるいは話を聞いて影響されてこうした予知夢あるいは白日夢を見たわけではないと言い切ることはできる。
辻堂断食道場での出会い。
辻堂にあった断食道場で2週間の断食を経験したことがある、今から48年も前のことだが記憶に留まっている。
とにかく考えることは食べることばかりで、会話も何が食べたいかに終始する。新宿綱八の天ぷらが食いたいとか、新鮮なミルクが飲みたいとか、辻堂の駅前までを散歩しながら喫茶店のショーウィンドウに目が釘付けになるなどいい年をした青年が食い物のことに執心する。体調を整えることや精神的な何かを得ることが断食の動機だった、未熟な若者特有の悩みがあったのだ。
この断食道場で山中さんに出会った。彼は睡眠薬中毒を断つために来ていた。若いときに結核で肋骨摘除手術をしていて術後に不眠で睡眠薬に頼るうちに中毒になったのだ。睡眠薬中毒は危険なのだ、気が大きくなりとんでもないことをしでかす恐れがあるという、自分で睡眠薬中毒の自分を持て余してしまうのだ、睡眠薬が支配している間は街でヤクザと肩を触れ合っても平気で立ち向かうのだという。
二回りも年上の山中さんとはよく話をした。なにせ時間はたっぷりとあるのだ、時間をやり過ごすのが日課なのだ。
山中さんは同和運動にもかかわっていた、同和の発祥が差別とは全く関係のないところから始まっていることを私に教えてくれる。彼はその活動のために時々東京に出てくるので、東京のうまいものを知っている、たとえば新宿の綱八の天ぷらの味を話してくれる、それも私の食欲を刺激することを密かに楽しむいたずらっ子のように。
この断食道場で二人の女性と知り合いになった。最初に話しかけてきた女性とはそのうちに疎遠になった。二番目に知り合った女性との時間が増えだすに連れて引いてしまったようだ。私は二人の女性と話をすることが楽しかったのだがうまくいかないものだ。このお年頃は嫉妬がからんだ交友になってしまい等距離交際は不可能なのだと知った。
山中さんにそのことを相談すると「君はなんにもしらないのだな、そんなことは当たり前だよ」と笑いながら教えてくれた。
山中さんとはその後に二番目に知り合った女性との新婚旅行で数泊させて頂き、旨いものをふんだんに食べさせて頂いた。そのときに山中さんは二番目に知り合った女性と結婚すると予感したという。空海の弟子の末裔たちは予知能力に優れているのだ。どうしてだと理由を聞いたら二番目に知り合った女性の作った俳句が気に入ったからだという。「現世(うつしよ)を しばし灯さん 能の舞」この句で山中さんがころりとこの女性の虜になった、だから私と結婚すると予感までそう結びつくのか、要は山中さんは二人を気にいってくれていたということなのだ。
仮に最初に話しかけてきた女性とつきあっていたらどのような人生を送っていたのだろうとふと空想に遊んでみると、パラレルワールドへの好奇心は人間の好奇心のなかで最も強く、これが物語の根源かもしれないなと山中さんに出会えたことを感謝しながら思う。
咳
今日ふとたち読みした本のなかに宮沢賢治の「この夜半おどろきさめ」の詩が。「あゝまたあの児が咳しては泣きまた咳しては泣いて居ります」が胸にしみる。咳というのは聞くほうがなんとも辛いものだと知っているから余計に胸にしみる。
この夜半おどろきさめ
耳をすまして西の階下を聴けば
あゝまたあの児が咳しては泣きまた咳しては泣いて居ります
その母のしづかに教へなだめる声は
合間合間に絶えずきこえます
あの室は寒い室でございます
昼は日が射さず
夜は風が床下から床板のすき間をくゞり
昭和三年の十二月私があの室で急性肺炎になりましたとき
新婚のあの子の父母は
私にこの日照る広いじぶんらの室を与へ
じぶんらはその暗い私の四月病んだ室へ入って行ったのです
そしてその二月あの子はあすこで生まれました
あの子は女の子にしては心強く
凡そ倒れたり落ちたりそんなことでは泣きませんでした
私が去年から病やうやく癒え
朝顔を作り菊を作れば
あの子もいっしょに水をやり
時には蕾ある枝もきったりいたしました
この九月の末私はふたゝび
東京で病み
向ふで骨にならうと覚悟してゐましたが
こたびも父母の情けに帰って来れば
あの子は門に立って笑って迎へ
また階子からお久しぶりでごあんすと声をたえだえ叫びました
あゝいま熱とあえぎのために
心をとゝのへるすべをしらず
それでもいつかの晩は
わがなぃもやと云ってねむってゐましたが
今夜はたゞたゞ咳き泣くばかりでございます
あゝ大梵天王こよひはしたなくも
こゝろみだれてあなたに訴へ奉ります
あの子は三つではございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱へました
如何なる前世の非にもあれ
たゞかの病かの痛苦をば私にうつし賜はらんこと
以下は宮沢賢治メモ
昭和3年(1928年)秋に急性肺炎を発症約2年間岩手県花巻の実家で療養生活。
昭和6年(1931年)東北砕石工場(現在の一関市)肥料工場に技師として勤務 石灰肥料の宣伝販売を担当 9月20日 上野駅に着いた時 発熱と頭痛 病に倒れ 帰郷して再び療養生活 10月20日にこの「この夜半おどろきさめ 11月3日に「雨ニモマケズ」
妹クニ夫妻は、療養の為に実家に戻った賢治の病床に、日当たりの良い二階の部屋を譲り、自分達は一階の寒い部屋に移っていた。その寒い部屋で三歳の姪っ子フジが夜中、咳き込んでいるのを聞いて自分が身代わりになるからフジを救って欲しいと切に願っている。
昭和8年(1933年)37歳で永眠、賢治の弟清六氏に依って遺書と共に発見された手帳に書かれていた「十月廿日(20日)この夜半おどろきさめ」である。
発見された手帳には「雨ニモマケズ」と一緒に書かれていた。
わたしにも同じような体験がある。電電公社中町社宅に住んでいた頃だ。隣の部屋から聞こえてくるゴーンという深い咳の音が壁越しに伝わってくるのを聞いてなんとかしてあげたいという気持ちとああ、諦める必要があるなとの諦観のあい合わさった悲しみの思いが湧いてくるが、そんな思いを持ちこしては毎日の生活が続けられない。振り払うようにして眠りそして頭から引き離す。