アリョーシャ
アリョーシャはゾシマ長老に人的に入れ込んでおり、彼の神概念はキリスト神学に忠実であると言うよりロシアの土着的信仰心が基本にあり、それが組織としてのキリスト教修道院に「たまたま」つながってキリスト教という形をとっているように感じられる。兄と別れた後に見る天上の星たちに素直な宗教的感動を覚えるアリョーシャに共感を覚える。
アリョーシャが非常に慕っているゾシマ長老も直感や予知能力に優れ、彼の説教はキリスト教をベースにしてはいるが、もっと抽象的な神と置き換えても通用する、ロシアの土着的アニミズムだ。ゾシマ長老を仏教僧に置き換えても違和感はないほどだ。そのゾシマ長老を慕うアリョーシャも直観力に優れて人の深層に潜む考えを読むことに長けている。
アリョーシャが人の心を読むことに長けているのはイワンに向かって、父を殺した犯人は「あなたじゃない」と述べるところに端的に示される。(ちなみに亀山訳が、アリョウシャはイワンが法的な犯人ではないと解題で述べていると解釈していることに対して、とんでもない解釈だとブログ「連絡船」の木下氏は憤る) イワンが気持ちの上で父を殺したと内心ひそかに悩んでいるのを見透かしたアリョーシャがその内心の罪の意識を「あなたじゃない」の言葉で否定する。
これはイワンが自らの良心に潔癖過ぎてどんな人間でも持つ少しの罪の意識もゆるさない。これは実は罪の意識でさえなく、過去の蓄積の思考の泡のようなもので全く意に介する必要のないものなのだが、過剰に意識してしまう。あたかもトーレット症候群つまり汚言症にかかっているかのように、自分では否定したい汚言(この場合、気持ちの上で父を殺した)が意識の表層に浮かび上がり、それがあたかも自らの思いであるかのように彼を苦しめる。「あなたじゃない」はアリョーシャの深い慈悲と鋭い感覚を示している。
ちなみにドストエフスキーも彼の父の死(小作人に惨殺された)に関して同種の疾患に苦しめられていたのではとの思いも浮かんでくる。ゾシマ長老とアリョーシャは同質の宗教観をもっているのだ。(ゾシマ長老の若い時はドミトリーと重なるものを持っているのだが、老年になるに従いアリョーシャに近づく)
この小説は作者ドストエフスキー自らアリョーシャの伝記小説だと宣言している。アリョーシャは、いったいどこが優れているのかは「たぶん、小説を読めばおのずとわかるはずです」(p9原訳)と述べ、また、「奇人とは『必ずしも』個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており」(原訳)と書き、アリョーシャを誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年として描き出す。「誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年」は当時も今も十分に奇人なのだ。奇人アリョーシャにドストエフスキーの宗教観を託していることがわかる。(ドミトリーもイワンも、さらにスメルジャコフもフョードルも奇人だが)
「だが、困ったことに、伝記は一つだが、小説は二つあるのだ。・・・これはほとんど小説でさえはなく、わが主人公の青春前記の一時期にすぎない。」(原訳) 未完の第二部でなにか大きな変化を予想させるかのような書き方である。ドストエフスキーの友人にあてた手紙には第二部でアリョーシャが革命家になって処刑される筋が語られているが、作者は「この青年は人々を愛していたし、どうやら他人の事を完全に信頼しつつ、生涯をすごしたようである」とも書いている。どう考えればよいのだろうか。革命家になって処刑されるというのが当初の構想であり、しかし作品が独り歩きを始めると、「どうやら他人の事を完全に信頼しつつ、生涯をすごしたようである」と変化していったと理解してみる。
子供に石を投げられるがかえって子供をかわいがり、子供たちと未来を誓い合う場面があるが、このあたり法華経の常不軽菩薩を彷彿とさせる。
アリョーシャの追悼の言葉
「大声で泣き叫び、父親のために許しをこうた」イリューシャが「父親の名誉のために、侮辱をはらすためにたちあがった」
「立派な少年でした。親切で勇敢な少年でした。父親の名誉とつらい侮辱を感じとって、そのために立ちあがったのです。だから、まず第一に、彼のことを一生忘れぬようにしましょう。みなさん、たとえ僕たちがどんな大切な用事で忙しくても、どんなに偉くなっても、あるいはどれほど大きな不幸におちいっても、同じように、かってみんなが心を合わせ、美しい善良な感情に結ばれて、実にすばらしいときがあったことを、そしてその感情が、あのかわいそうな少年に愛情をよせている間、ことによると僕たちを実際以上に立派な人間にしたかもしれぬことを、決して忘れてはなりません」
「アリョーシャは・・・ヒステリーの発作に全身をふるわせはじめた。老人をとくにうちのめしたのは、その姿が死んだ母親と異常なくらい似ていたことだった」
作者は癲癇の持病があり、アリョーシャもヒステリーの発作を起こす。アリョーシャ母子はイワンも含めて神がかりであり、神がかりはシャーマンやジャンヌ・ダークを想起するが教会に忠実であるよりもむしろアニミズムへの傾向をもち、ローマ教会からは異端である。キリストを奇跡よりもむしろ「神がかり」を手掛かりに理解するロシアの土着的傾向が作者ドストエフスキー、ゾシマ長老、アリョーシャ親子に共通してみられる。
「ふいに静かに甘い笑いをもらした。しかし彼はそこで、ぴくりと体を震わせた。その笑いが罪深いものに思えたのだ」 P430
アリョーシャの身障者の女性リズに対する屈折した性嗜好と自らの罪に対する鋭い感受性を暗示する。アリョーシャの子ども好きと脚萎えのリズに対する愛は通じており、作者は主人公アリョーシャにも容赦のない悪魔性、原罪の指摘を行い、常に善人の心にも入り込んでくる悪魔との戦いを描いている。
「僕はひょっとして神様を信じていないのかもしれない」 2巻p177
「さっき庵室の入り口につめかけた群衆の中に、動揺する他の人々にまじってアリョーシャの姿があったことに気づいたのだが、・・・アリョーシャは奇妙な、非常に奇妙な視線を投げた。3巻p37
「ぼくはべつに、自分の神さまに反乱をおこしているわけじゃない、ただ「神が創った世界を認めない」だけさ」…ゆがんだ含み笑いを浮かべた。」p48
これは元来イワンの台詞であるし、ゆがんだ笑いなどはイワンの持ち味である。ゾシマ長老の遺体からの腐敗臭と奇跡の起きないことに俗物的に落胆するアリョーシャが描かれる。「神が創った世界を認めない」だけさ」では既にイワンの影響をアリョーシャは受け始めている。アリョーシャもイワンと同じ血をひき、同じ懐疑に落ち込むのだがイワンの末路は哀れであり、一方アリョーシャの行く末は「どうやら他人の事を完全に信頼しつつ生涯をすごしたようである」と作者が説明する穏やかな人生を送る。イワンとの違いは「この青年は人々を愛していた」ことだろう。作者はアリョーシャの信仰への懐疑は許容しながら、彼が人々を愛し、信頼していたことがそれなりの穏やかな人生を送った要因であると示唆している。
「彼の頭上には、静かに輝く星たちをいっぱいに満たした天蓋が、広々と、果てしなく広がっていた。天頂から地平線にかけて、いまだいおぼろげな銀河がふたつに分かれていた。」
「微動だにしない、すがすがしい、静かな夜が大地を覆っていた。寺院の白い塔や、金色の円屋根が、サファイア色の空に輝いていた。建物のまわりの花壇では、豪奢な秋の花々が、朝までの眠りについていた。地上の静けさが、天上の静けさとひとつに溶けあおうとし、地上の神秘が、星たちの神秘と触れあっていた。…彼は、地面に倒れたときはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。…あのとき、だれかがぼくの魂を訪ねてきたのです」と、彼はのちに、自分の言葉へのしっかりした信念をこめて、話したものだった」 3巻109
アリョーシャの懐疑は輝く星や花々からの神秘な霊感によって「もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた」イワンが理性だけの人であり崩壊するのに対し、アリョーシャのこうしたアニミズム的感覚を基礎にした信仰が彼の崩壊を救った。
この作品の中で最も感動的な文章の一つだと思う。「ドーミトリーを乗せた馬車は、街道をまっしぐらに突き進んで行った。…アリョーシャが地面につっぷし、「有頂天になって永遠に大地を愛すると誓った」のと同じ夜、ことによると同じ時間だったのかもしれない。」と対応してみると兄弟ともに有頂天になっていたことが示されている。時間を一にして兄弟が大地を愛する瞬間をもつ。村上春樹作品でも見られる手法である。
「薔薇の名前」にも一輪の花に神秘を感じる描写がある。
「いや、むしろ目の中で。太陽の光線のなかで、鏡の映像のなかで、何ごともない事象のあちこちに拡散した色彩のなかで、濡れた葉に照り返す陽射しのなかで、光として感じとられる神・・・・・・そのようにして捉えた愛のほうが、被造物のうちに、花や草や水や風のうちに神を讃えた、フランチェスカに近いのではないか?この類の愛にはいかなる裏切りも潜んでいない。それに引き換え、肉体の触れあいのうちに感じた戦慄を、至高者との対話にすり変えてしまう愛は、わたしには好きになれない・・・・・・ 」薔薇の名前 p98
「そうそう、あなたにひとつ、おかしな夢の話をしてあげるわ。わたしちょくちょく悪魔の夢を見るの。夜みたいなの。ろうそくをともしながら部屋にいると、急にいたるところに、それこそ部屋の四隅に、悪魔があらわれるの。・・・ぼくもそれとまったく同じ夢を、なんどか見たことがありましたよ。・・・二人の別の人間が同じ夢を見るなんてことが、ほんとうにあっていいの?」 4巻 p205
リズとアリョーシャの会話だがアリョーシャもイワンが部屋で見たと同じ悪魔を夢ではみている。われわれ日本人で悪魔の夢をみるなどは極めて珍しいのではなかろうか。キリスト教文化のなかで人々に沁み込んでいる宗教的洗脳がある。