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バリの奥深く、タンパクシリンの寺院を訪れたとき、私はその光景に息をのんだ。
目の前に広がる池、 ああ、何と澄んだ水なのだろう。
底に生い茂る緑の水草さえ、手が届きそうなほど鮮明に映し出されている。水鏡には青空と寺院の石垣が揺らぎ、そこに佇むと、どこが水面なのかさえわからなくなるほどだ。
池の中央では、静かに湧き上がる水の波紋。まるで大地が息をするかのように、澄んだ水が絶え間なく生まれてくる。その神秘的な動きは、まさしくこの寺院が「聖なる水」を湛える場所であることを物語っていた。
バリの大地が抱く聖なる泉、そこに生きる小さな命。すべてが調和し、時を超えた静寂が流れている。
ここで手を浸せば、私の旅の疲れも、心の曇りも、すべて洗い流されてしまいそうだった。
池の水面をじっと見つめると、そこに小さな変化があることに気づいた。
ただ静かに澄んでいるわけではない。水の奥底から、ふつふつと湧き出る何かがある。水草がわずかに揺れ、光がゆらめくその場所、そう、ここはただの池ではなく、生きている泉なのだ。
バリの大地が抱く清らかな湧水。どれほどの時を経ても、絶えることなく流れ続けるこの水は、寺院の人々にとって神聖なものなのだろう。
耳をすませば、水が生まれる音が聞こえてくる気がした。
この泉の水をすくえば、過去の旅人たちと同じように、清らかな力を分け与えられるのかもしれない。
心まで洗い流されるような感覚の中で、私はただ、この湧き出る水を見つめ続けていた。
タンパクシリンの寺院を訪れたとき水面に目を奪われた。
静寂のなか、透き通る泉の底には緑の藻がゆらめき、柔らかな光が水を揺らす。風がそっと撫でると、映り込んだ空や木々が歪み、形を変えて溶け合っていく。
湧き上がる水の流れは、目には見えぬほど穏やかで、それでも確かに大地の底から生まれ、絶え間なく巡っている。その揺らぎはまるで、時の流れそのもののようだった。
手を伸ばせば届きそうで、決して掴めない。
この水の揺蕩いのなかに、古の祈りと静寂が息づいている。
水鏡に映る緑が、風のささやきに揺れ、形を変えていく。
静かな水底には、柔らかい藻が漂い、わずかな流れを映し出していた。
水と光と緑が混ざり合い、どこまでが現実で、どこからが映り込みなのか——
その境界さえ曖昧に溶け合い、ただ「揺蕩う」という時間だけがそこにある。
ふと、水の奥底から小さな泡が生まれ、ゆっくりと上昇する。
それは、古の大地が今も息づいている証なのかもしれない。
ここでは、水も、風も、そして時さえも、
すべてが静かに流れ続けている。
風がそっと触れるたび、
水面はまるで絵筆が描くかのように揺らぎ、滲み、混ざり合う。
緑の藻が浮遊する水底、
その上に映る空と木々の影。
現実と幻が溶け合い、
水の流れが時間を曖昧にする。
静かな水の中には、
大地が紡いできた歳月が眠り、
無数の物語が揺蕩っている。
この一瞬を切り取れば、
それだけで一幅の絵画となる。
水は、ただそこに在りながら、
見る者の心に静寂と詩を映し出す。
水底に揺れる藻、
水面に映る木々、
そのどちらが実体で、どちらが影なのか。
水はすべてを飲み込み、
すべてを映し出す。
風がそっと撫でるたび、
さざ波が境界を曖昧にし、
映り込んだ景色は滲み、溶けていく。
音のない世界で、
ただ水だけが、ゆっくりと語り続ける。
時間の流れさえも、ここでは
水の揺蕩いに溶け込んでいる。