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紀野一義氏を数年前に、このところは佐々木閑氏に関心を持ってお二方から主としてYouTubeで学ばせていただいた。両氏とも膨大な動画を残されているので大変な恩恵にあずかることができる。
このお二人の仏教伝道の巨人は極北の仏教観をお持ちだ。日本の仏教にある程度慣れ親しんだ方は佐々木閑氏の仏教観をしれば衝撃を受けるのではないか。「真理の探究」仏教と宇宙物理学の対話 佐々木閑 大栗博司 では以下のように記される。
「死ねのはいやだ」という、人の本能的苦悩に対処するため、「肉体は死んでも魂は死 なない。その死なない魂には永遠の安楽が約束されている」と説くキリスト教やイスラム教が大いに安心のもととなったことは当然です。これらの宗教が説く世観を疑いようのない事実 として受け入れることのできる人にとっては、それはこの世で最高の救済となります。「死んだあとに最高の幸福が待っている」と言うのですから、これ以上の商びはありません。もし私 が、これらの宗教が登場した時代に生まれていたなら、一も二もなく、その世界に身を委ねたでしょう。
しかし問題は、現在の科学的世界観の世の中で生きる私たちは、そういった自分の死後にとって都合よく組み上げられた死生観の実在性を信じることができないという点にあります。そ してそういった絶対者、救済者の存在を信じられない人にこそ仏教が説く「誰も生き る意味を与えてくれない世の中で、絶望せずに生きるためには、自分の力で生きる意味を見つ けていかねばならない」という教えが意味を持ってきます。
ですから、「自分の力で生きる意味を見つけていくなんていう困難な道は、とても進めない。私はまわりの誰かが指し示してくれる救済の道を信じて、それについていくしかないと考える人にとっては、釈迦の仏教は影響力を持ちません。実際、そう考えて、釈迦の仏教からの脱却を図ったのが大乗仏教です。
そう考える人たちに対して「あなたは間違っている。真実は 我々の教えにあるのだから、私たちのほうに鞍替えしなさい」と説得する力を、釈迦の仏教は 持ちません。釈迦は「分かる人にしか分かってもらえない教えだから、分かる人のためにだけ説き広めよう」と考えて仏教を創始したのですから。
紀野一義氏の人生への楽観的で肯定的な仏教観と比べるとなんと底冷えのするような佐々木閑氏の仏教観ではないか。さらには対談者の大栗氏ですら驚く次の言葉を吐く。
「私自身、輪廻は信じておりませんから、それはつまり、私に死後の世界はない、ということを意味します」
まさに驚くべき言葉を記し、また動画でも繰り返し述べる。
救いは初期仏教は救急病院だと述べていることだろう。行くところのない人が最後に頼る宗教だと述べる。ペシミズムから脱却できない人の最後の拠り所だと堂々と述べる。
仏教徒とは言われたくない、徒は徒党を組むニュアンスがあるから仏教信奉者だとも。
恐るべきことをYouTubeを使って話し続ける佐々木閑は魅力的な語り口で視聴者を魅了し、わたしも魅了される。このかたのYouTubeが見れる時代に生まれてよかった。(それゆえに紀野一義氏への信頼は揺るぐか、全く否だがこの不思議な感覚はまた追って記してみたい。)