
アディジェ川を渡り、ベローナの古代遺跡を訪れたときのこと。石造りの階段が私を誘うように、その先へと導いていた。階段を登るたびに、背後に広がる街の喧騒が徐々に遠ざかり、目の前には遺跡と自然が織りなす静かな空間が広がっていた。
階段の両側には、古代ローマ時代の建築物の残骸が無造作に積み上げられ、まるで歴史そのものが生き続けているかのような錯覚に陥った。緑豊かな木々と植物が、崩れかけた石碑や壁と絡み合い、自然と人工の境界が曖昧になっている。その様子は、時代を超えて存在する場所のようで、異世界に足を踏み入れたような不思議な感覚を覚えた。
階段を上り切ると、小さな広場にたどり着いた。そこには、古い邸宅が立っており、その外観はまるで堅固な城のように見えた。この建物が現代のものであることは明らかだったが、古代の遺跡と見事に調和しており、その存在が自然であるかのように思えた。
広場には、石造りのベンチがぽつんと置かれており、その隣に一人の女性が座っていた。歳のころは65歳くらいか。彼女は、まるでこの場所の守り人のような雰囲気を纏い、静かに微笑んで私を見つめていた。何故か私は彼女の元へ足を運び、無言のままベンチに腰を下ろした。
「一息入れていきなさいな。」女性が静かに言うと、手元にあった古びたポットからカップにコーヒーを注いで差し出してくれた。私は驚きつつも、彼女の言葉に従い、カップを手に取った。コーヒーの香ばしい香りが鼻孔をくすぐり、その温もりが手のひらに伝わってきた。
「この場所は不思議な力を持っているのよ。」女性はゆっくりと語り始めた。「この場所に足を踏み入れる者たちは、皆、何かしらの答えを見つけて帰っていく。」
彼女の言葉には、不思議な説得力があった。私がその場にいる理由も、また彼女に出会った理由も、すべてが必然のように思えてきた。コーヒーを一口含むと、その味は今まで飲んだどのコーヒーとも異なり、豊かで深みがあり、その上爽やかでもあった。
私はしばらくの間、その場で静かにコーヒーを味わいながら目の前に広がる遺跡と自然の調和に包まれた。コーヒーを飲み終えると、私は老婆に礼を言って立ち上がった。彼女は静かに微笑み見送ってくれた。私は階段を下りていったが、後ろを振り返ると広場には誰もいなかった。