本当のことを言わねぇのが人間だ。人間ってヤツは自分自身にさえ白状しないことがたくさんあらぁ。
このセリフにこの映画の本質が言い尽くされている。自分の記憶でさえ嘘が混じってる。
2018-05-25 17:54:58
芥川龍之介の原作「藪の中」を推理小説のつもりで正面突破で誰が真実を述べているのかの謎を解こうとするとわからなくなる。
黒澤明監督の映画「羅生門」と芥川龍之介の原作「藪の中」もあわせて読むことで、なぜ各人各様の告白をするのかの謎がはたして解けるのか。実はこの映画と原作「藪の中」は各人各様に状況を述べる謎を解くためにあるのではない。人はそれぞれの物語の中でしか真実を語れないということを描くことで認識ということの本質を描きたかったのだ。
なんだか位置は確率的にしか定まらないという不確定性原理のようだ。この藪のなかの真理も現代物理学がたどり着いたこの不思議な真理と同様に確率的にしか定まらないということを芥川龍之介は悟っていたのかも知れない。(不確定性原理やシュレーディンガーの猫の提唱者シュレディンガーは1926年に波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱しているがこの作品は1922年なので時系列としては後先なのだが)
こんな事を認めると裁判などが成り立たないではないか、そのとおりなのだが芥川龍之介はこの「藪の中」で現実にはここまで証言の食い違う事件もないことを承知の上であえて事実の不確定性を拡大し、強調して見せたのだと思いたい。
一般的には次のような解釈が成り立つ。
人はそれぞれ耐えられない行為の記憶を無意識にあるいは意識的に変更して生きていくということにも読めないことはない。耐えられない行為とは根源的な罪であり、無明であり、四重禁戒として戒められている姦淫、偸盗、殺生、妄語の罪である。ちなみに五戒はこれに酒を飲む罪が加わる。
本人たちは嘘を言っている自覚はまったくないが、極限状態での不都合な真実はいつのまにか耐えられるように変更され、その改ざんも各人が罪を逃れるためでない。殺してもいないのに盗人も女も武士を殺したという。清水寺に来れる女は次のように懺悔告白し、盗人にその気をみせたことは全く忘れ去られている。
男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲るように笑いました。夫は、その刹那の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃めいていたのは、ただわたしを蔑すんだ、冷たい光だったではありませんか?
「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」
夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇を動かしました。「殺せ。」と一言ひとこと云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹の水干の胸へ、ずぶりと小刀を刺し通しました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交まじった杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。
そうすると各人がそれぞれ本当のことを言うと真実が浮かび上がるのか、答えは「そうではない」これがこの一読しても解けない物語の主題ではないか。
盗人にその気をみせる女。
死霊は次のように語るが真実だろう。だが一点だけ、短刀を胸から抜き去ったと思われるきこりの男の振舞を決して明かさない。きこりを守るためだろうがよくわからないところだ。
盗人は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。どうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬ましさに身悶をした。
妻はうっとりと顔を擡たげた。その美しい妻は、現在縛られたおれを前に「ではどこへでもつれて行って下さい。」「あの人を殺して下さい。」ただ一蹴りに蹴倒けたおされた、「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷うなずけば好よい。殺すか?」
おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺さした。
その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。そっと胸の小刀を抜いた。
男の告白ではいずれも男が戦っている間などのどさくさに女が逃げ去る。妻が逃げ去った後のち、一箇所だけおれの縄なわを切った。その跡はどこも静かだった。
しかし女の告白では逃げたことは記憶から消され、男と共に自害しようとして自らは死にきれないという結末にすり替わる。
盗人は本当は女の空恐ろしさに怖気をふるってこの場から去っていったのだが、戦って二十三合目に相手の胸を貫いたと美談にしたてた偽りを述べる。
あの男を殺したのはわたしです。
わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。
女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋りつきました。その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい(陰鬱なる興奮)
燃えるような瞳を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました 薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。
わたしの太刀は二十三合目に、相手の胸を貫きました。(快活なる微笑)
藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋すがりつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥はじを見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、男を殺したい気になりました。卑い色欲ではありません。
きこりは自害した男の胸から高価な短刀を抜いて持ち帰った。死霊がつぎのように証言している。おれの側へ来たものがある。そっと胸の小刀を抜いた。映画では貧しいきこりの短刀を盗むという行為に同情を寄せている。
太刀か何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄が一筋落ちて居りました。それから、そうそう、縄のほかにも櫛が一つございました。草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。