荻原秀三郎氏の首記書籍は、過去に引用文として読み、興味を抱き是非読みたいと考えていたが日時が経過した。過日、地元の図書館で目にしたので読んでみた。
その表紙に記されている『古代の天の鳥舟や八咫烏の伝承・・・略・・・柱を継承したものと推理している。』との一文からして、興味深々である。この一文については、別途触れることにする。今回は巻尾に記された次の一節から、過去に出会った苗(ミャオ)族(タイでHmongと呼ぶ)C氏の思い出である。
先ず、その著書の一節をご覧いただこう。やや長文であるが御勘弁願いたい。
我が国(倭)に稲を伝えたのは楚の先住民苗(ミャオ)族であろう、として”我が国の稲作文化の淵源と考えられる中国の南托遺跡や河姆渡(かもと)遺跡には、稲作文化の複合的要素として太陽と鳥の信仰があった。その太陽信仰は、東に昇る太陽を尊ぶ東方崇拝や、民俗方位感覚としては東西軸重視の思想を展開させる起点となった。
苗族を含む殷の東夷族は東向きを吉とし、殷墟の早期住居址は東西向きの家屋が多い。そして殷人から太陽信仰を受け継いだ楚人は、日(太陽)の昇る東位を最高とし、日神を『東君』といって崇めた。高位者は自ら日と対面して東向きにすわり、楚国公族は墓も死者の頭位も同じ東向きにした。・・・略・・・ことに、荻原秀三郎氏が我が国に稲を伝えた民族と仮定する楚の先住民苗族に、東方崇拝は顕著である。田植えは東から始められ、木は東に倒され、最大の祖先祭りである鼓社節での木鼓は東西に引かれ、死者は西枕で脚を東に向けてすぐにでも東方の他界に旅立てるように埋葬される。稲を育む太陽の昇る東方に・・・。”
また次のようにも記されている。””現在、典型的なモチ文化を伝える民族は苗族であり、祖先祭りや苗年(苗族正月)など大切な行事には、モチ、おこわ、酒を欠かさない。モチイネは苗族が生み出した可能性が高い。それが殷の神祭りのための儀礼食文化の一環であったとすれば、苗族の出自はモチ性品種が最初に開発されたであろう地域、すなわち江淮荊州(長江中下流域)にしぼられる。苗族のモチへのこだわりは、広西壮族自治区融水県の苗族が雄弁に物語る。”
引用が長くなった。氏は貴州・広西の苗族村(苗寨)を幅広く調査されたうえでの分析結果である。その結果が、我が国に稲作を伝播したのが苗族であろうと仮定されている。参考までに、苗族の餅つきの様子がNHK for schoolに掲載されている。
以下、私事で恐縮である。1995年4月から4年半、タイ北部工業団地(ランプーン)で操業するM社に出向した。その時に出会ったのがモン(苗)族のC氏である。確か1995年の11月だったと思うが、下の写真を示して苗年(モン族正月)に来ないかと云う。
これは苗族の歌垣(歌櫂)である。日本古代にも歌垣は存在した。興味深々で彼の誘いを聞いたが、その田舎はターク県南西部でタークからソンテオに乗り換え更に3~4時間と云う。時期は会社が休みでもなんでもない。滞在と往復を考えれば4日間は潰れてしまう。興味津々ではあったが、行くことは叶わなかった。
そのC氏の顔を初めて見たときは、日本人かと我が目を疑った。色白で骨格も日本人そっくりであった。苗族は中國・揚子江中流域の三苗が漢族に追われて西南部に移動したものと云われている。清末にその一派が越境しタイ北部に逃れたものである。今思えば無理しても行っておけばと思うが、後のまつりである。今C氏はどうしているのか?
やや私事が長くなった。苗族と倭族は何やら関連があるのではと、彼の顔を見ながら考えたが、知識的裏付けもなく、長年夢物語であった。しかし、荻原秀三郎氏はフィールドワークで、上述の分析結果に至ったとのことである。感慨深い。
氏の当該書籍は、目から鱗が多い著書であった。折にふれ紹介したいと考えている。
<了>
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