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流通した焼き損じのサンカンペーン盤・その2

2016-05-02 07:06:50 | サンカンペーン陶磁

<続き>

一旦、北タイ諸窯の噺から離れる。佐久間重男氏の論文に“蒋祈「陶記」年代考”がある。それによると・・・景徳元年(1004年)に景徳鎮の瓷業の生産および税収などを掌る監鎮官が任命され、後には瓷窯「博易務」を設けて、景徳鎮の瓷器に対する国家専売法が施行された。南宋に入っても、監鎮官が存在し、北宋より何倍も多い税金がかけられた。
更には、次のようにも記述されている。窯の大小で課税、かつ瓷器の半製品の段階で課税、つまり焼成の成否にかかわらず、焼成前段階で課税されたとある。
中国では、元から明の時代にかけて、窯の小型化が進んだと云われている。例えば龍泉窯では、北宋時代に長さが80mもあった龍窯が元時代には40mほどに小型化したと云う。
景徳鎮の窯は半倒焔式窯で、「鎮式窯」と呼ぶらしいが、元時代は全長19,8mあったものが、明時代には8,4mに小型化したとのことである。

(鎮式窯は、その平面形状が瓢箪に似ていることから、葫蘆窯とか瓢箪窯と呼んでいる。なるほど小型のようである。)
これらは、何を物語るのか。焼成ミスは、税金は徴収されるものの、それに見合う売り上げはできない。つまり即刻収入減につながり、場合によっては廃業につながる大事である。従って小型化し、焼成雰囲気を制御し易くし、焼き損じを防止するのが、最大の眼目になっていったであろうと推測される。
下の写真は、過去に紹介した北宋・徽宗期の雨過天晴磁を焼成した汝官窯の窯址である。その窯址は小型窯で秘色青磁を焼くため、小型にして温度制御に注力したという。それが下の写真であるが、窯高さは不明である。

写真といっても、発掘地点を図面化した映像で、Y19とかY20がそれであるが、図面からみるに単室窯である。やはり良質陶磁の焼成には、小型化による温度制御が不可欠のようである。

北タイに話を戻す。ランナー王国を建国したメンライ王はメンライ法典を定め王、貴族、(あるいは僧侶)、平民、奴隷の身分を定めた。そこには一定期間の賦役や徴税のことが記されているが、大雑把な話で詳細を知る術はない。記されているのは、樹脂、蜜、象牙、犀の角、カテキュ(黒色染料)、スオウ(蘇木・赤褐色染料)鹿の皮や角等の森林由来の製品は専売品とされ、人民から何らかの形で進上され、主にアユタヤに輸出されたとある。・・・この記述内容は、租税の一環であろうと考える。
では、焼物はどうであったろうか? メンライ王後期にランナー朝は元に朝貢した。その時に税制を学んだであろうか? それは窯の大小、焼成前の半製品に一律課税をしたのであろうか?
それらが結果として、サンカンペーン窯の小型化と、焼き損じ品といえども市場に出荷された・・・と、考えても大きな齟齬はないであろう。このことが、タイの輸出陶磁にサンカンペーン陶磁が、含まれていない①一因とも考えられる。
今回、「流通した焼き損じのサンカンペーン盤」とのテーマで、サンカンペーン窯について私見を述べてみた。考えようでは、面白いテーマである。織豊以降の茶道につながる作家は別として、大衆向けの焼物を作る職人は、どの地にあっても厳しかったであろうと推測される。
また、焼物そのものには商取引税も課税されていたと思われるが、これは何時の代も商人には痛くも痒くもなかった。税を払うのは庶民だったのである。
今日、我々はそれらの品をあーでもない、こーでもない・・・と、騒いでいるが、時には焼物職人の苦労に想いを、馳せてみたいものである。

①最近タイ湾ランクエーン島沖の沈船から、サンカンペーンの盤が発見されており、極一部の陶磁は輸出されていた可能性がある。


                               <了>




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