――荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』―― シリーズ(1)
過日、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓の南に立つ一本柱の天辺に鳥が止まっていたかどうかについて、荻原秀三郎氏はその可能性があろうとの指摘を紹介した。北タイのラック・バーン(ムラの柱)に鳥はいないことを前回紹介した。以下、混乱を与えて恐縮であるが、タイのお隣ミャンマーでは、それを見ることができる。過去に紹介したココをご覧いただきたい。
以下のスケッチは、ハムサ柱と呼びミャンマー・カレン州のパアンでみることができるという。
ところが、このハムサ柱をチェンマイのワット・クータオで見たときには、軽い感動を受けた。そのワット・クータオはもう一つのモン族(MONと表記し、苗族(Hmong)モン族とは異なる)の菩提寺のようである。
(上掲2葉の写真はチェンマイのワット・クータオのハムサ柱)
このハムサ柱に載る鳥は、鳳凰ではなく、ハンサとかハムサ、さらにはヒンタないしはヒンダと呼んでいる。従って芦笙柱とは趣旨がやや異なるようであるが、苗族の周辺に単に柱(ラック・バーン)のみならず、鳥が載る柱が存在している事実がある。
しかし、これをもって吉野ヶ里の一本柱にも鳥が載っていた・・・とは云えないであろう。それは、時代的背景が異なると考えられることによるが、苗族の周辺に現実に鳥柱が存在することは、苗族が稲作を伝播したとする荻原秀三郎氏の説を明確に否定しない限り、吉野ヶ里・一本柱云々の全否定は無理とも思われる。
いずれにしても傍証かとは思われるが、周辺の状況は韓国のソッテの事例にもあるように、吉野ヶ里の柱に鳥はとまっていた可能性は考えられるであろう。
<続く>
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