古い話で恐縮である。2010年7月24日、釜山博物館に出かけた。そこは新石器時代から三国時代~近代までの種々を展示している。
入り口にて入館券を求めると無料だという、日本語パンフレットによると土曜日は無料で、それ以外については、大人で500Wと日本円で約40円の安さである。一体どーなっている?
展示物は壬申倭乱(文禄・慶長の役)と倭館に関するもの、徳川期の朝鮮通信使に関するものは、日本で蒐集した資料も含め充実している。
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右写真が釜山博物館入り口である。入館料が無料である。下左の写真は10世紀の万徳寺址三層石塔である。梵魚寺石塔と類似している。韓国の学者は様式分類していると思うが、それは分からない。
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上右は9世紀の統一新羅の石造如来立像と説明にある。このように釜山博物館までのコンコースの両側に石像が立ち並んでいる。
下左は九州、山陰でも出土する細形銅剣である。釜山博物館展示品の出土地は不詳との説明書きである。
下右は内行花文鏡で日本国内でも多数出土する。それをもって日本から伽耶に運ばれたとする説を日本の一部学者が主張している。その可能性はどうであろうか?
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下左は一般的に鶏龍山と呼ばれる鉄絵文様の碗である。右の説明によると粉青沙器鉄文鉢とあり、アラベスク文と記述されている。何がアラベスク文?単なる草文様と内側の見込みに渦巻文が描かれている。これをアラベスク文とは云えないであろう。
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これはキャップションによると、白磁青華長生文瓶とある。いわゆる李朝青花である。
李朝治下、金海は陶芸が盛んであり、秀吉の文禄・慶長の役の時に、日本に連れてこられた陶工は、この付近の人も多数含まれていたであろうことは、容易に想定される。
その時に日本に連行される人もいれば、当地に残った日本人もいたと、司馬遼太郎は"韓の国紀行"で記述している。外国との戦闘で良いことはなにもないが、後ろ向きの評価であるものの人的交流がせめてもの救いか?
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この肖像画は李徳成という忠清道観察使で1688年42歳の時と説明されており、肖像画は国の宝物1501号とのことである。
李徳成なる観察使の事績をしらないので、肖像画の重要性も分からない。
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上右は東萊府地図とある。東萊とは現在の釜山市内の釜山大学のあたりで、釜山港から10kmほど北に位置している。李朝時代にはそこに李朝の出先政府があったことになる。なおこの絵図は1872年の作と記述されている。
以下、朝鮮で云うところの壬申倭乱である。写真は1592年4月14日の釜山鎮の攻防を描いたものである。画面いっぱいに秀吉軍が押し寄せている様子が描かれている。
史書によれば、加藤清正が釜山に上陸したのは、天正20(1592)年4月17日であったと記録されているので、その先遣隊の戦闘場面であろう。
秀吉軍は刀をかざしているが、李朝の守備兵は矢を雨の如くあびせている様子が描かれている。
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朝鮮通信使の模型展示といおうか、ジオラマと呼べばよいのか?対馬海峡を渡った後は、大阪まで瀬戸内海を船で移動した。
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日本についてからの通信使の費用は日本が負担したようである。瀬戸内海は幕府の三つ葉葵を旗印にかかげた御用船で移動したのである。
日本側にあっても貴重な資料を釜山博物館は多分日本で探し出して展示している。この朝鮮通信使に関する豊富な展示を日本では見たことがない。
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上は享保の丁銀で朝鮮人参の支払いに使ったとある。石州銀で鋳造されたものである。
これらの交易は対馬藩の宋家によって行われた。その釜山の出先に倭館なるものを設け、多くの藩関係者や商人が住まいした。その絵図が右上写真でそれは、現在の龍頭山公園の位置に存在していた。見るとそれなりの規模であったことが伺われる。倭館の横は防波堤に囲まれた船着き場まで隣接していたことが分かる。
朝鮮陶磁についてもっと多くを見たかったが、釜山博物館には多くのコレクションがないようで、多少なりとも物足りなさを感じた。
入り口にて入館券を求めると無料だという、日本語パンフレットによると土曜日は無料で、それ以外については、大人で500Wと日本円で約40円の安さである。一体どーなっている?
展示物は壬申倭乱(文禄・慶長の役)と倭館に関するもの、徳川期の朝鮮通信使に関するものは、日本で蒐集した資料も含め充実している。
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右写真が釜山博物館入り口である。入館料が無料である。下左の写真は10世紀の万徳寺址三層石塔である。梵魚寺石塔と類似している。韓国の学者は様式分類していると思うが、それは分からない。
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上右は9世紀の統一新羅の石造如来立像と説明にある。このように釜山博物館までのコンコースの両側に石像が立ち並んでいる。
下左は九州、山陰でも出土する細形銅剣である。釜山博物館展示品の出土地は不詳との説明書きである。
下右は内行花文鏡で日本国内でも多数出土する。それをもって日本から伽耶に運ばれたとする説を日本の一部学者が主張している。その可能性はどうであろうか?
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下左は一般的に鶏龍山と呼ばれる鉄絵文様の碗である。右の説明によると粉青沙器鉄文鉢とあり、アラベスク文と記述されている。何がアラベスク文?単なる草文様と内側の見込みに渦巻文が描かれている。これをアラベスク文とは云えないであろう。
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これはキャップションによると、白磁青華長生文瓶とある。いわゆる李朝青花である。
李朝治下、金海は陶芸が盛んであり、秀吉の文禄・慶長の役の時に、日本に連れてこられた陶工は、この付近の人も多数含まれていたであろうことは、容易に想定される。
その時に日本に連行される人もいれば、当地に残った日本人もいたと、司馬遼太郎は"韓の国紀行"で記述している。外国との戦闘で良いことはなにもないが、後ろ向きの評価であるものの人的交流がせめてもの救いか?
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この肖像画は李徳成という忠清道観察使で1688年42歳の時と説明されており、肖像画は国の宝物1501号とのことである。
李徳成なる観察使の事績をしらないので、肖像画の重要性も分からない。
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上右は東萊府地図とある。東萊とは現在の釜山市内の釜山大学のあたりで、釜山港から10kmほど北に位置している。李朝時代にはそこに李朝の出先政府があったことになる。なおこの絵図は1872年の作と記述されている。
以下、朝鮮で云うところの壬申倭乱である。写真は1592年4月14日の釜山鎮の攻防を描いたものである。画面いっぱいに秀吉軍が押し寄せている様子が描かれている。
史書によれば、加藤清正が釜山に上陸したのは、天正20(1592)年4月17日であったと記録されているので、その先遣隊の戦闘場面であろう。
秀吉軍は刀をかざしているが、李朝の守備兵は矢を雨の如くあびせている様子が描かれている。
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朝鮮通信使の模型展示といおうか、ジオラマと呼べばよいのか?対馬海峡を渡った後は、大阪まで瀬戸内海を船で移動した。
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日本についてからの通信使の費用は日本が負担したようである。瀬戸内海は幕府の三つ葉葵を旗印にかかげた御用船で移動したのである。
日本側にあっても貴重な資料を釜山博物館は多分日本で探し出して展示している。この朝鮮通信使に関する豊富な展示を日本では見たことがない。
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上は享保の丁銀で朝鮮人参の支払いに使ったとある。石州銀で鋳造されたものである。
これらの交易は対馬藩の宋家によって行われた。その釜山の出先に倭館なるものを設け、多くの藩関係者や商人が住まいした。その絵図が右上写真でそれは、現在の龍頭山公園の位置に存在していた。見るとそれなりの規模であったことが伺われる。倭館の横は防波堤に囲まれた船着き場まで隣接していたことが分かる。
朝鮮陶磁についてもっと多くを見たかったが、釜山博物館には多くのコレクションがないようで、多少なりとも物足りなさを感じた。
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