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今回は字面のみの紹介で恐縮である。NUS博物館パンフレットは以下のように綴る。
15世紀から16世紀にかけての数多くの陶片が、トワンテ運河の土手とムラマン・クリークの支流に沿って少なくとも1キロも伸びている。トワンテ地域の陶磁器生産は長期の間で、膨大であったにちがいない。ヤンゴン川の広いデルタであるこの地は、河川交通に簡単にアクセスできるので、窯の製品を出荷するのは容易であった。
1988年、ロクサナ・ブラウンは「青磁釉薬陶は上ビルマで焼かれたが、現時点ではいつ、誰によって始まったのか?」(Brown 1988:111)と記している。1984〜85年のタイ・ミャンマー国境沿いのタークとオムコイの墳墓跡で、これまでに知られていなかった種類の施釉陶磁の発見は、ミャンマーが東南アジアの施釉陶磁生産文化群に属していた可能性が高まった(Shaw 1987:98 106)と述べている。この仮説は、1990年代に考古学者がトワンテ地域の何百もの中世の窯を特定したときに証明された(Myo Thant Tyn and Rooney 2001)。青磁を作る他の窯の複合体は、ミャンマーのいくつかの地域、主にイラワジ・デルタとモウラミャイン(Mawlamyien)地域で見つかっている。トワンテは、現地消費とアラビア半島からフィリピンまでの、広大な地域への輸出のために、数百年に渡って膨大な量の施釉陶磁を生産していたことが明らかになった。それはおそらく東南アジアで最も長く続いている陶業の中心地であったことになる。
トワンテ地区のKyauk Phya San村の近くのカンジーゴンには、Myo Thant Tyn氏が2つの窯を発見し、1999年にU Min Wai氏と考古学局によって発掘された。窯は、レンガ構築の横焔式単室窯であり、発掘址から出土したのは、主に緑色の盤、鉢、動物の置物、窯道具など、54種類以上であった。これらの窯はまだ存在し、それらは屋根で覆われて管理されている。
別の場所であるヤデシュ(Yadeshe)で、Myo Thant Tyn氏は9基の窯と、多くの陶片を発見した。ヤデシュのサンプルは、多くの形状をした陶磁片や種々の装飾、そしてより高品質陶磁片であり、その多様性を示している。容器は緑色と茶色の施釉陶で、盤、鉢、蓋、皿、小さな容器、球状の瓶、動物の置物と磚が出土した。刻花文による装飾は一般的なものであった。多くの盤は、見込み中心に小さな同心円を持っている。1つの緑色釉の瓶は、蓮の葉を代表する刻花文が表現されていた。鉢には刻花文で蓮のようなモチーフとブドウの唐草文で装飾されている。その他には、緑釉の牛と蓮の芽のついた蓋が出土した(Hein 2003:5)。
緑釉の蓮華座に座っている茶髪の金色の仏が、トワンテで発見されたと伝えられている。それには12世紀の暫定的な年代観が付与されている(Khin Maung Tin 1999)。トワンテの陶磁は丈夫で、色はライトグリーンからオリーブグリーンまで様々である。
トワンテの窯は、この期間(15世紀)の東南アジアの窯の中では中型で、平均12メートル、幅5メートルであった。窯の中で陶磁焼成中に、それらを置くため筒状の焼成具を使用した。この技術は、同じ時期にタイ中部のシーサッチャナーライのBan Ko Noi窯でも使用されていたものである。Ban Ko Noiでは、高台底に黒い傷跡を残しているが、このような傷跡はトワンテでは見つかっていないので、トワンテの陶工たちはシーサッチャナーライの陶磁を模倣していないと、推論することができる。トワンテ窯の一般的な窯構造と機能は、Ban Ko Noiと同様であるが同一ではないと云える。
<続く>
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