土馬は各地の遺跡から出土するが、今回は旧出雲国・旧伯耆国の遺跡から出土した土馬を紹介し、それと水辺の祭祀の関係を考えてみたい。
先ず島根県立古代出雲歴史博物館展示の土馬である。土馬は雨乞いの呪具とある。出土地は池の奥窯址、別所遺跡である。
次は、旧伯耆国で旧出雲国と境を接する米子市・陰田隠れが谷遺跡(古墳末期ー奈良時代)出土の土馬である。ここでも雨乞いの形代と説明されている。
これらの遺跡をグーグルアース上にプロットすると、以下の位置となる。
何れも中海の湖岸(海岸)に位置していることがお分かりと考える。なるほど水辺に近く、古代の水田であったろうことが伺える。その水辺で水田稲作のための雨乞いの祈りを行ったであろう。
ところで旧出雲国では、山奥の斐伊川上流部の川岸の遺跡からも土馬が出土する。それが上のグーグルアースの佐白である。場所は佐白の円満寺遺跡で、下流に設けられた尾原ダムのダム湖底に沈んでしまった。
(円満寺遺跡・奈良時代 出土土馬)
円満寺遺跡出土の土馬について、市町村合併前の仁多町教育委員会は、斐伊川の水辺の祭祀で使われた土馬との見解を示している。
これに関し、関和彦氏は水辺の祭祀と土馬との関係を風土記等の古文献を引用しながら縷々説明されている。その末尾には、住吉の大神が神域を巡検するのに際して馬を利用していたとするが、これと水辺の祭祀の関係が、良く分からない。
一般的に水辺の祭祀とは、水辺において生活や農耕に関わる河川や流路の恩恵や、水の恵みへの感謝に対する祭祀や、時として自然の脅威に対する備えとしての祭祀が行われたであろう・・・との説がある。
その祭祀に土馬が用いられているのは何故なのか。ここは、古代出雲歴史博物館や米子市福市考古資料館が示しているように、水辺の祭祀場において、雨乞いの儀礼にもちいたとの説が蓋然性が高いと考える。
それにしても、完形の土馬とともに破壊された土馬も多い。土に埋まる過程や掘り出す過程で壊れたのではなく、意識的に破壊されたと思われる。これが何を意味するのか? 既に学者の見解が表明されていると考えるが、出会っていない。何れ調べてみたいと考えている。
<了>
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