エツ(越)はコシ(越)か?
かつて司馬遼太郎氏は古代史はアミューズメントと評した。言い得て妙である。邪馬台国比定地論争は、親魏倭王印が仮に出土しても決着しない。なんとなれば本来の邪馬台国の地から出土地点に運ばれたとの論評が必ず唱えられる。銅鏡・親魏倭王印・黄幢・銀印・封泥などセットで出土した地点が邪馬台国となるが、そのような話しは、もしかしたら永遠に出土しないかもしれない。従ってプロとアマチュアの百家争鳴である。これを司馬遼太郎氏はアミューズメントと評したのである。以下、その類の話である。
中国の前漢初期(紀元前2世紀)から後漢末期(紀元2世紀)、列島では弥生時代中期後葉から後期の倭の風俗についてである。魏志倭人伝によれば、断髪文身し好んで沈没して魚蛤を捕るという沿海の漁撈生活者で、中国東南部の越人や東南アジアの習俗に似かよっていた。倭人と越人は種族としても同一視されたようで、龍や蛇、鳥に対する信仰や太陽信仰など日常生活における思想・信仰において、共通点をもっていたと考えられる。
3000年前の寒冷化で、中国の北方から畑作牧畜民が南下してくると、長江下流域に住んでいた人々が拡散する。その一部が雲南省や貴州省・江西省などに逃れ、もう一部は舟に乗り東南アジアに逃避した。それらが百越であると一般的に云われている。
其の中に東シナ海を渡り、対馬海流にのって遣って来た一群があった。その行き着いた先が日本海沿岸で、語呂合わせに過ぎないが、京都府宮津市の越浜や山口県萩市の越ヶ浜などの地名が存在する。つまり旧国名コシ(越)は、エツ(越)人が辿り着いた先だと云うのである。
(写真は稲吉角田遺跡出土の線刻土器で、羽人がゴンドラ風の舟を櫂で漕いでいる)
鳥取県米子市の稲吉角田遺跡の羽人や舟の絵画土器と、福井県坂井市の井向遺跡出土銅鐸の弥生時代中期の舟の絵に痕跡を残しているのではあるまいか。
羽人はシャーマンか?
唐子・鍵考古学ミュージアムでは『鳥装のシャーマン』なる想定復元フィギアが展示されている。
http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archi
(頭部には鳥の羽を刺し、口は鳥の嘴の如くである。両手の指には羽根をつけた翼を広げている。¨ホンマかいな¨・・・との第一印象だが)
鳥は農耕社会と関係し、『稲の穀霊』を運ぶとして、さらには結界を監視するとして神聖視されている。こうした鳥の信仰は、弥生時代の土器に描かれた『鳥装のシャーマン』や結界としての鳥居状の横木につけた鳥形木製品から、古墳時代では古墳に並べられた鳥形埴輪から伺うことができる。
(鳥形木製品 弥生時代:出雲弥生の森博物館)
(須恵器 古墳時代:みよし風土記の丘ミュージアム)
(佐賀県川寄吉原遺跡出土の鐸形土製品の人物は鳥の羽をつけた鳥装のシャーマンだとする見解がある)
羽人は本当にシャーマンなのか・・・と云う疑問が残る。誰が羽人はシャーマンと定義したのか、定かではないが、近藤喬一元山口大学教授はその一人であろう。
1984年10月29日、松本清張氏を司会に、島根県民会館大ホールで、その道の権威(近藤喬一氏、門脇禎二氏、佐原眞氏等々)を集めてシンポジウムが開催された。地元開催なので当然参加し、その全記録が『古代出雲王権は存在したか:松本清張編』として出版された。最近それを読み返している。近藤元教授はその単行本で以下のように記述されている。¨米子市の稲吉角田遺跡出土の弥生中期の線刻絵画土器に、ゴンドラ風の舟に櫂を漕ぐ羽人が数人描かれ、その頭部には鳥の羽と思われるものが描かれている。¨
¨更には一本の支柱から左右に数段にわたって横木が描かれ、その最下段に左右に頂部と最下部がやや尖った卵状のものが吊り下がる。¨・・・これを近藤元教授は銅鐸とする。つまり近藤元教授は弥生の遺物には、羽人と銅鐸がセットで描かれていると指摘する。
更に弥生後期前半の佐賀・川寄吉原遺跡出土の銅鐸土製品に描かれる人物は、左手に楯を右手に青銅武器(銅戈)を持ち、銅鐸の音に合わせて農作儀礼の踊りをしていると述べられている。
要するに羽人はシャーマン以外の何物でもないとの指摘である。この見解については個人的には疑義を抱いている・・・それについては後程私見を述べてみたい。
<続く>
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