<続き>
主題はインターキンの御柱(サオ・インターキン)である。以下、2015年の記事の焼き直しで恐縮だが、メンライ王がチェンマイに遷都し、建国した様子からレビューしたい。チェンマイ旧市街を取り囲む堀と城壁は、1296年ランナー王朝の初代メンライ王により、約2km四方の正方形に近い形で建設された。
メンライ王が正方形にした理由は、仏教の宇宙観に答えを見出すと云うことである。その宇宙観とは”スメール山(須弥山)が宇宙の中心にあり、9つの惑星がその周りを回っている”と云うもので、北タイの人々はその現象を『タクサムアング』と名付けた。
ランナー朝の人々は、都城の9つの方角全てに固有の惑星があると考えていた。その惑星とは太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星、天王星(羅ゴウ星)、海王星(計都星)の9星で、海王星を真ん中にして、その他の8惑星がその周りを回り、その現象が国や人々に影響を及ぼすというものである。
それは人々の暮らしや運不運を左右し、疫病を引き起こす原因になると信じられていた。もし都に伝染病が蔓延したり、戦争が起こった場合は、都は悪い星に左右されているとみなされた。そのため、全ての国民が1年に1度、都の安泰を祈って国の柱『インターキンの御柱』に布施をする行事、『スーブチャター(通称:カオインターキン)』を行っている。スーブチャターは、翌年の国の趨勢を占うためのものであった。
(写真がインターキンの御柱であるが、基壇の上にモンドップが載り仏陀立像が鎮座している。仏教に取り込まれ変質した感じがする・・・これについては後述したい。)
アジア・アフリカ言語文化研究所 森幹男氏に優れた論文がある。それによると、ランナー社会に継承される『スワン(ナ)カムデーン伝承記』によれば、ランナー・タイ王国の創建と存続に対する正統性について、神意による王国の創建と、『インドラ神の柱(=インターキンの御柱)』の獲得による、王国の安定と繁栄のさまが叙述されている・・・とある。
以下、論文の概要を紹介する。『ラック・ムアン』は北タイ、雲南、シャン州、北ベトナム、ラオスにおいて広範に観察されるとして、ラック・ムアンは物質的な象徴であり、通常木製の柱で土地の守護霊と結び付けられ、ローカルの政治権力とその正統性についての威信を示している・・・と説明されている。
チェンマイのインターキンの御柱は先に紹介したので、北タイ少数民族のラック・ムアンを以下紹介する。
写真は北タイ・チェンダオの少数民族パローン族の『ラック・ムアン』である。まさに心の御柱で集落の守護霊に他ならない。このような柱は北タイで見ることができる。
『インドラ神の柱』は、チェンマイの危機を救うため、インドラ神によってもたらされたが、後に市民が柱への崇拝を怠ったため都市が荒廃した。再度市民の依頼に応じてインドラ神が柱のレプリカを建立することを命じた、という神話に由来する。旧市街の中心部のチェディルアン寺の中にある『インターキンの御柱』、すなわち『インドラ神の柱』は、北タイの慣習では、伝統的国家ムアンの守護霊(Sua muang)と同一視され、さらにムアンの守護霊はより一般的なラック・ムアンと呼ばれる『クニの柱』となる。これは守護霊信仰における土地神(チャオ・ティー)と解釈される・・・としている。また、以下のようにも説明されている。タイ・ユアン族社会においても『インドラ神の柱』は、しばしば『男根柱』として認識されている・・・つまり豊穣を祈願するのが目的かと思われる。以上のまとめとして、『インドラ神の柱』=モン(Mon)=ラワ族経由のヒンズー・仏教的世界観と、その中心観念を表象すると結んでおられる。いずれにしても、メンライ王がランナー朝を建国した当時、『インドラ神の柱(=インターキンの御柱)』を国の礎として建立したという点である。このインドラ神とは、仏教でいう帝釈天である。
それにしても北タイ人(コン・ムアン)はインドラ神に何をみるのであろうか? インターキンの御柱=インドラ神の柱はもとより、至るところでインドラ神像をみる。以下順にチェンマイ空港西方のワット・ドイカムのインドラ神像、ニマンへーミン通りのユー・ニマンホテルの広場に勧請されたインドラ神像、インターキン祭りがおこなわれているワット・チェディールアンのインドラ神像である。
まさにインドラ神の氾濫である。その理由がありそうだ。上座部仏教の教義に存在しないもの、それは蓄財神であろうかと思われる。蓄財神であれば頻出する理由と、コン・ムアンに人気であることが理解できそうだ。
<続く>
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