映画「ジャージー・ボーイズ」
舞台の解釈、映画の解釈
ステージからスクリーンへ(1)はこちら
舞台ミュージカル「ジャージー・ボーイズ」は、その表現媒体をスクリーンに移すにあたって、どのように手が加えられたのか…もう少し、気づいたことを書いてみます。
ネタばれしていますので、ご注意ください。
★フランキーは「エンジェル」なのか?【内容を訂正しています】
舞台の「ジャージー・ボーイズ」の開始10分ぐらいは、本当に「神がかっている」と言っていいほどに素晴らしく、何度見ても鳥肌が立つシーンです。2000年にフランスで大ヒットしたOh、What a Night!のフランス語バージョンの強烈なビートで始まり、そして、まるでタイムマシンに乗ったように、舞台はノスタルジックな昔のニュージャージーに変わります。街灯の下でSilhouettesを歌うトミーとその仲間たち。それに高い声で唱和しながらキャットウォークに登場するのがフランキーとなります。無垢な少年の表情の残るフランキーは、途中まで来ると、その後小走りに階段を下り、途中で腰かけてトミーたちの演奏を見ます。
トミーの口から「この子はエンジェルのような声で、あちこちのクラブに顔を出していた」と述べられます…確かに、このシーンは、美しい声を持つフランキーが「掃き溜めのような場所に舞い降りたエンジェル」のように見えます。おそらく、セルジオ・ツルヒーヨの完璧な振付も、多分にそれを意識しているのではないでしょうか。
舞台を見ていると、私の中では、ここではフランキーは希望のない街に舞い降りたエンジェルであり、人々から愛されるも、その愛に応えるための苦しみも負っていかなければならないという運命が予感される…
映画では、オープニングのこのシーンはありません。「エンジェルの声」と紹介されもしません。映画では、土地の「顔役」ジップ・デカルロに、美しい声を持っていることで、特別に目をかけられていることを示すシーンから始まります。理容師見習いのフランキーに目をかけるジップが、フランキーに自分の顔そりをさせるように言います。慣れない手つきで剃刀を持つフランキーでしたが、突然店に飛び込んできたトミーに驚いて手が震え、ジップの顔を少し傷つけて出血させてしまいます。映画で見せられる、この「血」こそ、それからの二人の繋がりを象徴するものに見えました。
さて、話は「エンジェル」に戻りますが…トミーはフランキーの両親に「この子はエンジェルだよ」と言うシーンがあります。また、素行の悪さを詰るフランキーの母に「あんたはエンジェルだ!」と吐き捨てるように言い、ここで、舞台と同じようにEarth Angelを歌いますが、舞台と違うのは、映画ではほんのワンフレーズだけ。舞台では、刑務所から出たり入ったりするときにこの曲を歌うのですが、悪の道から抜け出ることができそうもないトミーが「おお地上の天使よ~」と歌うのが面白いシーンです。
さて、最初の「事件」に関しては…舞台ではトミーに命令されて無免許運転していただけのような印象のフランキーですが、映画では、実際に物損事故も起こし、そこから逃走しています。一方では、映画では、フランキーには愛情あふれた両親がいて、正装で法廷にやってきてフランキーに付き添い、保護者としての責任を果たしているのと、トミーには、保護者や後見人に当たる人も見当たらず、トミー自身も反省の色もまったくない姿が対照的に描かれています。トミーが「フランキーは直接事件にかかわっていない。俺の言ったとおりにしただけだ」と証言してくれますが、…どっちにしても、映画でのここの場面全体から受ける印象としては、トミーのほうに厳しい処分が下って当然、と誰もが思うことでしょう。
登場する警官たちがフランキーには比較的寛大なのは舞台でも映画でも同じですが…映画では、フランキーの家庭がしっかり機能していたことを、さりげなく強調されているのが興味深いですね。舞台の「エンジェルなイメージ」云々…よりは、非常にリアルな説得力があります。
また、夜中に教会に忍び込んで歌の練習をするシーンですが…私は一度このブログで、「教会は勝手に入るのは犯罪なの?」なんて惚けたを書いていたことがありますが(笑)映画では、ニックがしっかり(?)ドアのチェーンをぶち壊していますから、こりゃ立派な犯罪でしょうね、納得です。このときのニックは仮釈放中で、ちょっとでも問題を起こせば即アウトでした。フランキーが「何で僕を逮捕しないんだ?」と言うも、「お前は11時までに家へ帰ることになってるんだろう、帰れ!」と放免になります。映画では、非常に複雑な表情でその現場を去るフランキーの姿も見せられています。
映画で面白いのは、トミーの悪事にニックやフランキーが加担しているシーンがはっきり表わされているところです。まぁ、ニックは何度も出たり入ったりしているキャラクターではありますが…それでも、マリーとのデートのときに、フランキーが「トミーの盗品のジャケットを着ている」という台詞も舞台にはありません。この辺りの描写は個人的には衝撃的でした。舞台はぼんやりと想像に任せられているだけですから…しかし、スクリーンのうえでは必要だったのでしょう。
舞台では、フランキーは(ビリー・エリオットのように)希望のない街のエンジェルのような存在であったことが象徴的に描かれますが、映画はよりリアル。一方では、フランキーは悪い仲間と交わってはいても、現実として家族に恵まれていたことも描写しています。当時の彼らのコミュニティーでは、そういう条件で「線引き」されることもあったのでしょう。それでも…というよりは、それだけに…彼はトミーやニックに対し、ある種の「借りがある」という意識を持ち続けていたのでしょうか。やがては、それが、「聖人は悪党にも優しいのね!」と恋人に捨て台詞をされて去られることになります。
★ニック
問題解決のためにジップの家に集まったとき、最終的にニックは「俺はグループを抜ける!」と言い、帰ろうとします。ジップが「ちょっと待つんだ!」と後を追うも、ニックはそのまま外へ出て車に乗り、「家庭にも問題を抱えていること」「自分がフランキー&ボブの二人ほどの才能に恵まれていないこと」を吐き捨てるように言って去っていきます。
舞台でも、このふたつのことはニックの口から語られますが、それは独り言のようにニックの口から出る言葉になっています、特に前者は。舞台のニックは、言葉を巧みに操るキャラクターでもあります。
映画では、基本、舞台と同じく出演者が観客に向かって語りかけるのですが…なんというか、これらのシーンは、ニックが「誰かに向かって」語る方が映画的にしっくりする、という考えの上ででこういう流れにしたのだろうと思えました。このときのニックはサングラスをかけていて表情が完全に見えるわけではなく、そのあたりでバランスを取っているようにも見えます。
しかし、ここで疑問なのですが…私はギャングの世界のことは良く分かりませんが(笑)ジップほどの「大物」が、ひとりのベーシストがグループを抜けると言い出して、その場を去ろうとしたところで、「ちょっと待つんだ!」と、慌てふためいた表情で追いかけていくでしょうかね(?)ちょっと不自然にも感じましたが…とにかく、ここは、ニックを「ひとり語り」にさせない…ということの方を優先させている印象でした。
いずれにしても、この映画では、ジップ役のクリストファー・ウォーケンは、ホントよく働いていますよね
(続)
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