東京江戸博物館
6月4日、手話サークルの遠足で、東京江戸博物館に行って来ました。
両国には相撲部屋もたくさんあり、地図にあるように、周辺は見所満載ですが、今回は江戸博物館だけでした。
菊竹清訓さん設計はユニークです。国技館との調和を考え高床式と言われていますが、なんでなのかは私には全くわかりません。
JR両国駅のホームに向かう階段は、まるで進入禁止の柵のようでびっくりしました。
数年前に来た時にはこの巨大で辺りと不釣り合いなDOCOMOビルはなかったように思うのですが。
長い歩く歩道(エスカレーター)で二階に。シニアは780円(特別展を含みます。)
原寸大の日本橋
芝居小屋中村座の模型 朝野新聞社
日本橋からの市街 大名屋敷
江戸図屏風 大名の籠
江戸城模型 江戸城内の部屋
徳川家康像 体験できる籠
長屋[4.5畳から6畳ほどに1畳ほどのカマドなどがあるだけ、押し入れなどはありません。]
浮世絵の版木や馬連など
二枚の錦絵の原盤は同じで顔と化粧まわしだけを別刷りしたそうです。
錦絵屋
江戸時代は大衆文化も花開きました。
屋台
千両箱、14kg程だそうです。
三越の模型
江戸時代は海運・船交通も盛んでした。
玉川上水 上水道の樋と貯水桶など
43km程離れた山間部から高低差約100mで水を引きました。飲料水だけでなく農業用水としても使われ、稲作だけでなく
豊かな畑作も開かれ、庶民の台所・胃袋を支えたそうです。
1km辺り230cmと言えます。ローマの水道橋は1km辺り34cmと言われます。ローマの技術の高さに改めて驚かされます。
両国橋界隈
1500体ほどの人形があるそうですが、中には人目を忍んで逢瀬を楽しむカップルも描かれています。
江戸城の鬼門に当たる上野は寺社地区、その右は浅草で芸庶民の芸能、そのちょっと北部は吉原の遊廓街でした。
私が今回知って一番驚いたのは、武士階級が江戸の町の土地をほとんどを占めていたと言うことでした。
博物館内にその地図が表示されていてとても興味深かったですが、写真を撮り忘れました。
上の資料は分かり易いのですが、身分区分は諸説あり、ネットで調べると細か過ぎ全体像がよくわかりません。
大まかには、武士階級100万、町方50万人、つまり全国的には農民町方が人口の大半を占めていたのに、
江戸は特殊で、武士階級の人口の方がはるかに多かったようですが、土地の占有場所も異常と言えます。
そして、町方の多くは、江戸城の南東つまり今の中央区辺りに限られていました。
この地域は、以前は海でまさに埋め立て地です。
地震の時は、液状化で大変だったろうと想像すると恐ろしくなります。
幕府は、街道を整える一方、水運・運河・用水路を大開発しました。
それは、当初は確かに堀としての役割が強かったのですが、鉄道のない時代は物流の大動脈でした。
さて、庶民の家・長屋は本当に狭いです。4.5畳~6畳の広さで、カマドと水桶の台所があるだけです。
押し入れ、衣装箪笥、茶箪笥などもありません。もちろんトイレも風呂もありません。
夜具・服などは多端で部屋の隅に置いたままです。
壁は薄く、外扉は上が障子です。一端火事があれば、逃げる暇など無くあっという間に燃え広がります。
「江戸っ子は宵越しの金持たない」は、まさに家財や貯金などあっても火事があればゼロとなるので、
余分なお金は持たないという言うことから派生したようです。
家賃は、ほぼ職人の一日の日当(400~500文)、1万円程度だったようです。
しかし、飲み水は、井戸水よりも玉川上水などから引かれた共同水場が豊だったようです。
歌舞伎の様子
今ブームとなっている葛飾北斎の部屋 地層の標示
ここから近現代ゾーンですが、時間がないので終了となりました。 レストランから両国駅
食事後、「没後150年・龍馬特別展」に行きましたが、すごい込みようと、手紙類などが主でした。(龍馬像と手紙は引用です。)
江戸時代は、今日の日本の文化が作られた時代と言われますが、知らないことが実にたくさんあることに気づかされました。
この日は暑くはなくさわやかな気候でした。ここでもたくさんの外国人と会いました。
無料のボランティアガイドを個人でも頼むことが出来ます。無料音声ガイドもあります。
江戸博物館は、入場料も安く、現代に通じる江戸時代をのんびり楽しめるお薦めポイントです。
"フラッシュ撮影可能"標示があるところでは、フラッシュ撮影出来ます。(私は気がつきませんでしたが。)
3時頃、現地解散となりました。私は、夕方から家族との食事会があったので周辺は寄らずに帰りました。【終わり】