【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
46織田信長黒印状(長岡忠興あて) 天正九
年九月十六日
その国(丹後国)の船手などの朋輩を伯州
(伯耆国)方面へ移動させた状況について、
委細聞き届けた。もっとも神妙であると、
長岡藤孝に対してつぶさに申し遣わした。
よくよく粉骨(砕身)の族(やから)とし
て(父長岡藤孝と)専一に(軍働きを)究
めるよう願う。
天正九年九月十六日 信長(黒印)
長岡与一郎(忠興)とのへ
※天正九年=1581年
**純野のつぶやき**
これは信長公から丹後国在陣の長岡忠興に送
られた書状です。父長岡藤孝と嫡子長岡忠興
に対しては、一緒に括らないでそれぞれの功
績について評価を伝えるところが信長公の細
かいところです。長岡忠興は1563年月生
まれなので、この時19歳。父藤孝も信長公
も、手塩にかけて育て上げようとしている様
子が分かってほほえましいですね。
以上
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<明治神宮に向かう道>
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通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
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はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
46織田信長黒印状(長岡忠興あて) 天正九
年九月十六日
その国(丹後国)の船手などの朋輩を伯州
(伯耆国)方面へ移動させた状況について、
委細聞き届けた。もっとも神妙であると、
長岡藤孝に対してつぶさに申し遣わした。
よくよく粉骨(砕身)の族(やから)とし
て(父長岡藤孝と)専一に(軍働きを)究
めるよう願う。
天正九年九月十六日 信長(黒印)
長岡与一郎(忠興)とのへ
※天正九年=1581年
**純野のつぶやき**
これは信長公から丹後国在陣の長岡忠興に送
られた書状です。父長岡藤孝と嫡子長岡忠興
に対しては、一緒に括らないでそれぞれの功
績について評価を伝えるところが信長公の細
かいところです。長岡忠興は1563年月生
まれなので、この時19歳。父藤孝も信長公
も、手塩にかけて育て上げようとしている様
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