【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
49-1織田信長黒印状 天正十年四月十五日
先月(三月)二十三日の書状について、本日
(四月)十五日遠州懸河(の陣で)見させて
いただいた。東夷(武田氏)を追伐し、以前
宣言した通りに早々に落着したことに、我な
がら驚き入るばかりである。書中(の申し出)
はもっともなことである。東国は残すところ
なくわが軍に靡き属し、喫緊の課題がなくな
ったので(現地の差配は信忠に指示を授け、
自分は)早々に退却する途中である。近々安
土に戻ると思うので、かたがた(お会いした)
その時に(武田征伐について)お伝えしよう。
遥かな場所まで書簡を送っていただいたこと
に、悦び入る次第である。
天正十年四月十五日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正十年=1582年
**純野のつぶやき**
いよいよ本能寺の変が起きる天正十年(1582
年)となりました。天正十年四月十五日とい
えば、信長の一陣は武田征伐から安土へ戻る
ため田中→藤枝→瀬戸川と移動して掛川に宿
泊しています。武田征伐は三月下旬には完了
していましたので、この手紙の“書中の申し出
はもっともである”という部分は、おそらく長
岡藤孝が、信長・信忠父子の武田氏討伐を祝
い“いつお会いして軍働きのお話が聞けるのか?”
と問い合わせたものではないかと推測されま
す。
この前の書状が天正九年(1582年)九月十
六日付けですので、この7か月の織田家の主な
動きを見てみましょう。
<天正九年>
・9月 北畠信雄、伊賀平定
・10月 信長、伴天連屋敷の普請を指示
・10月 羽柴秀吉に攻囲されていた鳥取城は、
吉川経家・森下道与・奈佐日本介三人の頸
を渡すことで降参・開城
*飢えていた城のものに食事を与えたとこ
ろ食いすぎで過半が頓死
↓
「伯耆国の身方、南条元続・小野元清兄弟
のところへ吉川元春が進軍してきた」との
注進が、秀吉に入る
↓
秀吉、先手を派遣
↓
秀吉出陣
↓
秀吉、亀井玆矩の城に参陣
*南条は羽衣石城を守備
*小鴨は岩倉城を守備
↓
吉川元春は羽衣石に向けて馬の山に布陣
・11月 秀吉、7日間羽衣石に布陣。国中か
ら兵糧をあつめ蜂須賀正勝・木下平大夫を
馬の山に向かわせる
↓
羽衣石から岩倉の間に、段々に軍勢をおい
て敵に備える。兵糧・玉薬を「春まで持つ
ように」十分に供給
↓
秀吉、姫路へ帰陣
↓
吉川元春、仕方なく陣払い
↓
羽柴秀吉・池田元助、淡路島へと出陣
↓
岩屋城を攻陥
↓
秀吉、姫路へと帰陣。続いて池田元助も帰
陣してしまったので、淡路は領主不在とな
る。
・11月 犬山のお坊(織田勝長)、武田勝頼
のところから信長の元へ戻され、犬山城主
にしてもらった御礼を信長に申上
・12月 隣国・遠国から、諸将が種々贈り物
を持参し、安土の信長に歳暮の挨拶
↓
羽柴秀吉も信長に小袖二百を進上し、安土
の女房衆一人一人にも贈り物
↓
信長は秀吉に、感状と茶の湯道具名物十二
種を授ける
↓
秀吉は播州へと戻る
となります。
この期間で問題点があるとすれば、
1)伯耆の国のことは、信長が丹後国に派遣
した長岡藤孝・忠興父子が差配しているのに、
前線の羽柴秀吉が彼らと連動しない動きを取
ってよいものか?
2)犬山のお坊(織田勝長)が、武田勝頼の
ところから11月に信長の元へ戻されているが、
これは織田軍に木曽・信州・甲州を攻める大
義名分を与えたのではないか?
3)羽柴秀吉は「自分は播州・備州方面で死
ぬ思いで諸卒と戦っているのに、お屋形様は
のんきなものだ」と思ったのではないか?
ただ、秀吉が行った鳥取城の干殺しと信忠
が行った信州恵林寺僧侶焼き殺し(佐々木六
角義治をかくまいこの軍の前に逃していたこ
とがわかったため)は、残虐すぎる点ではい
い勝負と純野は思います。次の記事で天正十
年の出来事に続きます。
以上
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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
49-1織田信長黒印状 天正十年四月十五日
先月(三月)二十三日の書状について、本日
(四月)十五日遠州懸河(の陣で)見させて
いただいた。東夷(武田氏)を追伐し、以前
宣言した通りに早々に落着したことに、我な
がら驚き入るばかりである。書中(の申し出)
はもっともなことである。東国は残すところ
なくわが軍に靡き属し、喫緊の課題がなくな
ったので(現地の差配は信忠に指示を授け、
自分は)早々に退却する途中である。近々安
土に戻ると思うので、かたがた(お会いした)
その時に(武田征伐について)お伝えしよう。
遥かな場所まで書簡を送っていただいたこと
に、悦び入る次第である。
天正十年四月十五日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正十年=1582年
**純野のつぶやき**
いよいよ本能寺の変が起きる天正十年(1582
年)となりました。天正十年四月十五日とい
えば、信長の一陣は武田征伐から安土へ戻る
ため田中→藤枝→瀬戸川と移動して掛川に宿
泊しています。武田征伐は三月下旬には完了
していましたので、この手紙の“書中の申し出
はもっともである”という部分は、おそらく長
岡藤孝が、信長・信忠父子の武田氏討伐を祝
い“いつお会いして軍働きのお話が聞けるのか?”
と問い合わせたものではないかと推測されま
す。
この前の書状が天正九年(1582年)九月十
六日付けですので、この7か月の織田家の主な
動きを見てみましょう。
<天正九年>
・9月 北畠信雄、伊賀平定
・10月 信長、伴天連屋敷の普請を指示
・10月 羽柴秀吉に攻囲されていた鳥取城は、
吉川経家・森下道与・奈佐日本介三人の頸
を渡すことで降参・開城
*飢えていた城のものに食事を与えたとこ
ろ食いすぎで過半が頓死
↓
「伯耆国の身方、南条元続・小野元清兄弟
のところへ吉川元春が進軍してきた」との
注進が、秀吉に入る
↓
秀吉、先手を派遣
↓
秀吉出陣
↓
秀吉、亀井玆矩の城に参陣
*南条は羽衣石城を守備
*小鴨は岩倉城を守備
↓
吉川元春は羽衣石に向けて馬の山に布陣
・11月 秀吉、7日間羽衣石に布陣。国中か
ら兵糧をあつめ蜂須賀正勝・木下平大夫を
馬の山に向かわせる
↓
羽衣石から岩倉の間に、段々に軍勢をおい
て敵に備える。兵糧・玉薬を「春まで持つ
ように」十分に供給
↓
秀吉、姫路へ帰陣
↓
吉川元春、仕方なく陣払い
↓
羽柴秀吉・池田元助、淡路島へと出陣
↓
岩屋城を攻陥
↓
秀吉、姫路へと帰陣。続いて池田元助も帰
陣してしまったので、淡路は領主不在とな
る。
・11月 犬山のお坊(織田勝長)、武田勝頼
のところから信長の元へ戻され、犬山城主
にしてもらった御礼を信長に申上
・12月 隣国・遠国から、諸将が種々贈り物
を持参し、安土の信長に歳暮の挨拶
↓
羽柴秀吉も信長に小袖二百を進上し、安土
の女房衆一人一人にも贈り物
↓
信長は秀吉に、感状と茶の湯道具名物十二
種を授ける
↓
秀吉は播州へと戻る
となります。
この期間で問題点があるとすれば、
1)伯耆の国のことは、信長が丹後国に派遣
した長岡藤孝・忠興父子が差配しているのに、
前線の羽柴秀吉が彼らと連動しない動きを取
ってよいものか?
2)犬山のお坊(織田勝長)が、武田勝頼の
ところから11月に信長の元へ戻されているが、
これは織田軍に木曽・信州・甲州を攻める大
義名分を与えたのではないか?
3)羽柴秀吉は「自分は播州・備州方面で死
ぬ思いで諸卒と戦っているのに、お屋形様は
のんきなものだ」と思ったのではないか?
ただ、秀吉が行った鳥取城の干殺しと信忠
が行った信州恵林寺僧侶焼き殺し(佐々木六
角義治をかくまいこの軍の前に逃していたこ
とがわかったため)は、残虐すぎる点ではい
い勝負と純野は思います。次の記事で天正十
年の出来事に続きます。
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