『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:49-1織田信長黒印状 天正十年四月十五日<天正九年の出来事>

2022-05-29 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


49-1織田信長黒印状 天正十年四月十五日
 
先月(三月)二十三日の書状について、本日

(四月)十五日遠州懸河(の陣で)見させて

いただいた。東夷(武田氏)を追伐し、以前

宣言した通りに早々に落着したことに、我な

がら驚き入るばかりである。書中(の申し出)

はもっともなことである。東国は残すところ

なくわが軍に靡き属し、喫緊の課題がなくな

ったので(現地の差配は信忠に指示を授け、

自分は)早々に退却する途中である。近々安

土に戻ると思うので、かたがた(お会いした)

その時に(武田征伐について)お伝えしよう。

遥かな場所まで書簡を送っていただいたこと

に、悦び入る次第である。

天正十年四月十五日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

    ※天正十年=1582年


**純野のつぶやき**

いよいよ本能寺の変が起きる天正十年(1582

年)となりました。天正十年四月十五日とい

えば、信長の一陣は武田征伐から安土へ戻る

ため田中→藤枝→瀬戸川と移動して掛川に宿

泊しています。武田征伐は三月下旬には完了

していましたので、この手紙の“書中の申し出

はもっともである”という部分は、おそらく長

岡藤孝が、信長・信忠父子の武田氏討伐を祝

い“いつお会いして軍働きのお話が聞けるのか?”

と問い合わせたものではないかと推測されま

す。

 この前の書状が天正九年(1582年)九月十

六日付けですので、この7か月の織田家の主な

動きを見てみましょう。

<天正九年>

・9月 北畠信雄、伊賀平定

・10月 信長、伴天連屋敷の普請を指示

・10月 羽柴秀吉に攻囲されていた鳥取城は、

 吉川経家・森下道与・奈佐日本介三人の頸

 を渡すことで降参・開城

 *飢えていた城のものに食事を与えたとこ

 ろ食いすぎで過半が頓死
 ↓
 「伯耆国の身方、南条元続・小野元清兄弟

 のところへ吉川元春が進軍してきた」との

 注進が、秀吉に入る
 ↓
 秀吉、先手を派遣
 ↓
 秀吉出陣
 ↓
 秀吉、亀井玆矩の城に参陣

 *南条は羽衣石城を守備

 *小鴨は岩倉城を守備
 ↓
 吉川元春は羽衣石に向けて馬の山に布陣

・11月 秀吉、7日間羽衣石に布陣。国中か

 ら兵糧をあつめ蜂須賀正勝・木下平大夫を

 馬の山に向かわせる
 ↓
 羽衣石から岩倉の間に、段々に軍勢をおい

 て敵に備える。兵糧・玉薬を「春まで持つ

 ように」十分に供給
 ↓
 秀吉、姫路へ帰陣
 ↓
 吉川元春、仕方なく陣払い
 ↓
 羽柴秀吉・池田元助、淡路島へと出陣
 ↓
 岩屋城を攻陥
 ↓
 秀吉、姫路へと帰陣。続いて池田元助も帰

 陣してしまったので、淡路は領主不在とな

 る。

・11月 犬山のお坊(織田勝長)、武田勝頼

 のところから信長の元へ戻され、犬山城主

 にしてもらった御礼を信長に申上

・12月 隣国・遠国から、諸将が種々贈り物

 を持参し、安土の信長に歳暮の挨拶
 ↓
 羽柴秀吉も信長に小袖二百を進上し、安土

 の女房衆一人一人にも贈り物
 ↓
 信長は秀吉に、感状と茶の湯道具名物十二

 種を授ける
 ↓
 秀吉は播州へと戻る

となります。

 この期間で問題点があるとすれば、

1)伯耆の国のことは、信長が丹後国に派遣

した長岡藤孝・忠興父子が差配しているのに、

前線の羽柴秀吉が彼らと連動しない動きを取

ってよいものか?

2)犬山のお坊(織田勝長)が、武田勝頼の

ところから11月に信長の元へ戻されているが、

これは織田軍に木曽・信州・甲州を攻める大

義名分を与えたのではないか?

3)羽柴秀吉は「自分は播州・備州方面で死

ぬ思いで諸卒と戦っているのに、お屋形様は

のんきなものだ」と思ったのではないか?

 ただ、秀吉が行った鳥取城の干殺しと信忠

が行った信州恵林寺僧侶焼き殺し(佐々木六

角義治をかくまいこの軍の前に逃していたこ

とがわかったため)は、残虐すぎる点ではい

い勝負と純野は思います。次の記事で天正十

年の出来事に続きます。

以上


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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

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