『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

斎藤長龍(さいとうながたつ)

2017-04-15 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
斎藤長龍(さいとうながたつ)

〔現代仮名遣い〕さいとうながたつ

※下線部は信長公記以外の記事によります。

新五。斎藤道三の子で、義龍の弟。Wikiでは

斎藤利治とある。

1565年加治田城主佐藤忠能の養子となる。

1569年8~10月の伊勢攻略戦に参戦。

1570年6月の浅井攻めに参戦。

1570年8~9月の野田・福島の合戦に参戦し

    「ろうの岸」を守備。

1572年4月三好義継・松永久秀・松永久通

    が畠山昭高に反発し、昭高の臣安見

    新七郎の守る交野城に向けて取手を

    築いたとき、信長軍として取手を攻撃。

1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。

1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、

    信忠の軍勢として市江口を攻撃。

1577年8月柴田勝家の北国攻めに参戦。

1578年9月信長の指示により越中に進軍。それ

    を聞いただけで太田保のつけの城は退散

    したので、神保長住をいれさらに軍働き。

1578年10月退散した河田長親・椎名道之は今泉

    に篭城。城下に火を放つと敵が攻め出して

    来たが、長龍は月岡野で軍勢を建て直し

    追撃。人質を津毛の城の神保長住に渡す。

1582年6月二条新御所で織田信忠切腹の後、

    攻めかかってきた明智光秀の軍と戦い

    討ち死に。


 ※兄の義龍が信長公に対応したのに対し

  長龍は信長の従順な家臣として奮闘努力

  しました。色々な生き方があるものです。


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