斎藤長龍(さいとうながたつ)
〔現代仮名遣い〕さいとうながたつ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
新五。斎藤道三の子で、義龍の弟。Wikiでは
斎藤利治とある。
1565年加治田城主佐藤忠能の養子となる。
1569年8~10月の伊勢攻略戦に参戦。
1570年6月の浅井攻めに参戦。
1570年8~9月の野田・福島の合戦に参戦し
「ろうの岸」を守備。
1572年4月三好義継・松永久秀・松永久通
が畠山昭高に反発し、昭高の臣安見
新七郎の守る交野城に向けて取手を
築いたとき、信長軍として取手を攻撃。
1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。
1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、
信忠の軍勢として市江口を攻撃。
1577年8月柴田勝家の北国攻めに参戦。
1578年9月信長の指示により越中に進軍。それ
を聞いただけで太田保のつけの城は退散
したので、神保長住をいれさらに軍働き。
1578年10月退散した河田長親・椎名道之は今泉
に篭城。城下に火を放つと敵が攻め出して
来たが、長龍は月岡野で軍勢を建て直し
追撃。人質を津毛の城の神保長住に渡す。
1582年6月二条新御所で織田信忠切腹の後、
攻めかかってきた明智光秀の軍と戦い
討ち死に。
※兄の義龍が信長公に対応したのに対し
長龍は信長の従順な家臣として奮闘努力
しました。色々な生き方があるものです。
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新五。斎藤道三の子で、義龍の弟。Wikiでは
斎藤利治とある。
1565年加治田城主佐藤忠能の養子となる。
1569年8~10月の伊勢攻略戦に参戦。
1570年6月の浅井攻めに参戦。
1570年8~9月の野田・福島の合戦に参戦し
「ろうの岸」を守備。
1572年4月三好義継・松永久秀・松永久通
が畠山昭高に反発し、昭高の臣安見
新七郎の守る交野城に向けて取手を
築いたとき、信長軍として取手を攻撃。
1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。
1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、
信忠の軍勢として市江口を攻撃。
1577年8月柴田勝家の北国攻めに参戦。
1578年9月信長の指示により越中に進軍。それ
を聞いただけで太田保のつけの城は退散
したので、神保長住をいれさらに軍働き。
1578年10月退散した河田長親・椎名道之は今泉
に篭城。城下に火を放つと敵が攻め出して
来たが、長龍は月岡野で軍勢を建て直し
追撃。人質を津毛の城の神保長住に渡す。
1582年6月二条新御所で織田信忠切腹の後、
攻めかかってきた明智光秀の軍と戦い
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長龍は信長の従順な家臣として奮闘努力
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