【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
31織田信長朱印状 天正六年三月四日
<本文>
近日丹州(丹後・丹波)方面へ出馬する予定
である。奥郡(丹後の国の地域)・多喜郡(丹波
の国の地域)へ行く道は二筋も三筋もある。人
馬の往還に差障りがないよう、来る(三月)二十
日より前に進軍開始となるだろう。大軍にした
ほうが良いという(貴殿の)意図は一理ある。油
断なく重ねて検使を(当方に)遣わせていただ
きたい。謹言。
天正六年三月四日 信長(朱印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正六年=1578年
**純野のつぶやき**
天正五年(1577年)の前回の書状(十月三日)
の五カ月後の書状です。信長公の動きは、
・十月十日 信忠、信貴山城を夜攻めにする。
松永久秀・久通、討ち死に。
・十月二十三日 羽柴秀吉、播磨に向け出馬→
さらに但馬へ進軍 。
・十一月二十日 信長公、右大臣昇任。
・十二月 信長公、三河吉良でお鷹野。
・十二月二十八日 信忠、信長から呼ばれ岐阜
から安土へ。惟住長秀の所に泊。
→信長公、信忠に十一種の名物茶道具を譲り
渡す。
・天正六年一月一日 信長公の援助もあり、内裏
で元日の節会復活。
・一月十二日 津田宗及、安土へ参上。天主見学
のあと、1万枚の黄金を見せられる。
・一月 信長公、三河吉良でお鷹野。
・二月二十三日 羽柴秀吉、播磨へ出働。
という次第であり、その直後、
・三月六日 信長、奥の嶋山で御鷹山狩。
・四月四日 信長、大将軍を信忠として大坂向けに
軍勢を送る。
・四月十日 信長、滝川一益・惟任光秀・惟住長
秀の三人を丹波へ派遣。
→荒木山城を取り巻き、水の手を断つと、敵は降
参の上退散。
となっていますので、「書状にある通り丹後・丹波
に出陣したが、長岡藤孝が進言したようには大軍
は遣わせなかった」ということのようです。
なお、「一月十二日 津田宗及、安土へ参上。天
主見学のあと、1万枚の黄金を見せられる!」の件
ですが、戦国期の茶人かつ豪商の津田宗及に黄
金を見せてびっくりさせるという信長公の茶目っ
気ですかね。ちなみに、
黄金1万枚=金10万両=50万円×10万枚
=現在の価値で500億円!!
ですから、宗及もお供のものも腰を抜かしたのでは
ないでしょうか。しかし、年末・年始はお鷹野ばかり
だし、嫡男信忠に十一種の名物茶道具を譲り渡して
しまうし、この頃の信長公のやる気の無さはどうした
もんでしょうか?ただやる気がないように見えて内裏
での元日の節会を復活させていますし、長岡藤孝は
信長公のうらはらな動きを感じ取っていたかどうか・・
以上
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
31織田信長朱印状 天正六年三月四日
<本文>
近日丹州(丹後・丹波)方面へ出馬する予定
である。奥郡(丹後の国の地域)・多喜郡(丹波
の国の地域)へ行く道は二筋も三筋もある。人
馬の往還に差障りがないよう、来る(三月)二十
日より前に進軍開始となるだろう。大軍にした
ほうが良いという(貴殿の)意図は一理ある。油
断なく重ねて検使を(当方に)遣わせていただ
きたい。謹言。
天正六年三月四日 信長(朱印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正六年=1578年
**純野のつぶやき**
天正五年(1577年)の前回の書状(十月三日)
の五カ月後の書状です。信長公の動きは、
・十月十日 信忠、信貴山城を夜攻めにする。
松永久秀・久通、討ち死に。
・十月二十三日 羽柴秀吉、播磨に向け出馬→
さらに但馬へ進軍 。
・十一月二十日 信長公、右大臣昇任。
・十二月 信長公、三河吉良でお鷹野。
・十二月二十八日 信忠、信長から呼ばれ岐阜
から安土へ。惟住長秀の所に泊。
→信長公、信忠に十一種の名物茶道具を譲り
渡す。
・天正六年一月一日 信長公の援助もあり、内裏
で元日の節会復活。
・一月十二日 津田宗及、安土へ参上。天主見学
のあと、1万枚の黄金を見せられる。
・一月 信長公、三河吉良でお鷹野。
・二月二十三日 羽柴秀吉、播磨へ出働。
という次第であり、その直後、
・三月六日 信長、奥の嶋山で御鷹山狩。
・四月四日 信長、大将軍を信忠として大坂向けに
軍勢を送る。
・四月十日 信長、滝川一益・惟任光秀・惟住長
秀の三人を丹波へ派遣。
→荒木山城を取り巻き、水の手を断つと、敵は降
参の上退散。
となっていますので、「書状にある通り丹後・丹波
に出陣したが、長岡藤孝が進言したようには大軍
は遣わせなかった」ということのようです。
なお、「一月十二日 津田宗及、安土へ参上。天
主見学のあと、1万枚の黄金を見せられる!」の件
ですが、戦国期の茶人かつ豪商の津田宗及に黄
金を見せてびっくりさせるという信長公の茶目っ
気ですかね。ちなみに、
黄金1万枚=金10万両=50万円×10万枚
=現在の価値で500億円!!
ですから、宗及もお供のものも腰を抜かしたのでは
ないでしょうか。しかし、年末・年始はお鷹野ばかり
だし、嫡男信忠に十一種の名物茶道具を譲り渡して
しまうし、この頃の信長公のやる気の無さはどうした
もんでしょうか?ただやる気がないように見えて内裏
での元日の節会を復活させていますし、長岡藤孝は
信長公のうらはらな動きを感じ取っていたかどうか・・
以上