『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:31織田信長朱印状 天正六年三月四日

2020-06-11 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。


31織田信長朱印状 天正六年三月四日

<本文>

 近日丹州(丹後・丹波)方面へ出馬する予定

である。奥郡(丹後の国の地域)・多喜郡(丹波

の国の地域)へ行く道は二筋も三筋もある。人

馬の往還に差障りがないよう、来る(三月)二十

日より前に進軍開始となるだろう。大軍にした

ほうが良いという(貴殿の)意図は一理ある。油

断なく重ねて検使を(当方に)遣わせていただ

きたい。謹言。

天正六年三月四日 信長(朱印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

  ※天正六年=1578年


**純野のつぶやき**

天正五年(1577年)の前回の書状(十月三日)

の五カ月後の書状です。信長公の動きは、

・十月十日 信忠、信貴山城を夜攻めにする。

 松永久秀・久通、討ち死に。

・十月二十三日 羽柴秀吉、播磨に向け出馬→

 さらに但馬へ進軍 。

・十一月二十日 信長公、右大臣昇任。

・十二月 信長公、三河吉良でお鷹野。

・十二月二十八日 信忠、信長から呼ばれ岐阜

 から安土へ。惟住長秀の所に泊。

 →信長公、信忠に十一種の名物茶道具を譲り

  渡す。

・天正六年一月一日 信長公の援助もあり、内裏

 で元日の節会復活。

・一月十二日 津田宗及、安土へ参上。天主見学

 のあと、1万枚の黄金を見せられる。

・一月 信長公、三河吉良でお鷹野。

・二月二十三日 羽柴秀吉、播磨へ出働。

という次第であり、その直後、

・三月六日 信長、奥の嶋山で御鷹山狩。

・四月四日 信長、大将軍を信忠として大坂向けに

 軍勢を送る。

・四月十日 信長、滝川一益・惟任光秀・惟住長

 秀の三人を丹波へ派遣。

 →荒木山城を取り巻き、水の手を断つと、敵は降

  参の上退散。

となっていますので、「書状にある通り丹後・丹波

に出陣したが、長岡藤孝が進言したようには大軍

は遣わせなかった」ということのようです。

 なお、「一月十二日 津田宗及、安土へ参上。天

主見学のあと、1万枚の黄金を見せられる!」の件

ですが、戦国期の茶人かつ豪商の津田宗及に黄

金を見せてびっくりさせるという信長公の茶目っ

気ですかね。ちなみに、

黄金1万枚=金10万両=50万円×10万枚

     =現在の価値で500億円!!

ですから、宗及もお供のものも腰を抜かしたのでは

ないでしょうか。しかし、年末・年始はお鷹野ばかり

だし、嫡男信忠に十一種の名物茶道具を譲り渡して

しまうし、この頃の信長公のやる気の無さはどうした

もんでしょうか?ただやる気がないように見えて内裏

での元日の節会を復活させていますし、長岡藤孝は

信長公のうらはらな動きを感じ取っていたかどうか・・

以上



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