『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:30織田信長黒印状 天正五年十月三日

2020-06-10 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。


30織田信長黒印状 天正五年十月三日

<本文>

 一昨日の朔日(十月一日)に(貴殿らが)大和

片岡城を攻め崩し、数多くの首注文が到来した。

粉骨の(軍働きの)段神妙である。なおもって、

戦功を抽んでるよう願う。

天正五年十月三日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

  ※天正五年=1577年


**純野のつぶやき**

天正五年(1577年)の前回の書状(六月五日)の

四カ月後の書状です。信長公の動きは、

・六月某日 信長、安土城下を楽市・楽座とする。

・七月三日 伊達輝宗が鷹を安土の信長に進上。

・七月六日 信長上洛。二条の新造御座所へ引越し。

・七月十二日 近衛前久の子息信基の元服式を

 新造御座所でおこなう。

・八月八日 柴田勝家、加賀攻め。

・八月十七日 天王寺の城番をしていた松永久

 秀・久通父子が謀叛を起こし、大和信貴山城に

 楯籠る
   ↓
 信長、宮内卿法印を通じて説得するも、松永は

 城から出てこず。

・九月二十七日 信忠、岐阜から出馬。当日蜂屋の

 肥田城泊。

・十月一日 信忠、安土を出発。勢田の山岡景隆

 の所に泊。

・十月一日 長岡藤孝・惟任光秀・筒井順慶山城

 衆らが、松永一味の森秀光・えびな勝正の楯籠

 る片岡城を攻略。

 *長岡忠興・昌興兄弟の活躍。信長から感状を

  下される。

 *惟任光秀の活躍

・十月三日 信忠、信貴山城に攻め寄る。

という流れになります。本書状は確かに長岡らの

軍勢が松永方の片岡城を攻陥した件を確認した

内容になっています。信長公本人にとっては特別

な軍働きのない四か月でした。

以上



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