【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
30織田信長黒印状 天正五年十月三日
<本文>
一昨日の朔日(十月一日)に(貴殿らが)大和
片岡城を攻め崩し、数多くの首注文が到来した。
粉骨の(軍働きの)段神妙である。なおもって、
戦功を抽んでるよう願う。
天正五年十月三日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正五年=1577年
**純野のつぶやき**
天正五年(1577年)の前回の書状(六月五日)の
四カ月後の書状です。信長公の動きは、
・六月某日 信長、安土城下を楽市・楽座とする。
・七月三日 伊達輝宗が鷹を安土の信長に進上。
・七月六日 信長上洛。二条の新造御座所へ引越し。
・七月十二日 近衛前久の子息信基の元服式を
新造御座所でおこなう。
・八月八日 柴田勝家、加賀攻め。
・八月十七日 天王寺の城番をしていた松永久
秀・久通父子が謀叛を起こし、大和信貴山城に
楯籠る
↓
信長、宮内卿法印を通じて説得するも、松永は
城から出てこず。
・九月二十七日 信忠、岐阜から出馬。当日蜂屋の
肥田城泊。
・十月一日 信忠、安土を出発。勢田の山岡景隆
の所に泊。
・十月一日 長岡藤孝・惟任光秀・筒井順慶山城
衆らが、松永一味の森秀光・えびな勝正の楯籠
る片岡城を攻略。
*長岡忠興・昌興兄弟の活躍。信長から感状を
下される。
*惟任光秀の活躍
・十月三日 信忠、信貴山城に攻め寄る。
という流れになります。本書状は確かに長岡らの
軍勢が松永方の片岡城を攻陥した件を確認した
内容になっています。信長公本人にとっては特別
な軍働きのない四か月でした。
以上
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
30織田信長黒印状 天正五年十月三日
<本文>
一昨日の朔日(十月一日)に(貴殿らが)大和
片岡城を攻め崩し、数多くの首注文が到来した。
粉骨の(軍働きの)段神妙である。なおもって、
戦功を抽んでるよう願う。
天正五年十月三日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正五年=1577年
**純野のつぶやき**
天正五年(1577年)の前回の書状(六月五日)の
四カ月後の書状です。信長公の動きは、
・六月某日 信長、安土城下を楽市・楽座とする。
・七月三日 伊達輝宗が鷹を安土の信長に進上。
・七月六日 信長上洛。二条の新造御座所へ引越し。
・七月十二日 近衛前久の子息信基の元服式を
新造御座所でおこなう。
・八月八日 柴田勝家、加賀攻め。
・八月十七日 天王寺の城番をしていた松永久
秀・久通父子が謀叛を起こし、大和信貴山城に
楯籠る
↓
信長、宮内卿法印を通じて説得するも、松永は
城から出てこず。
・九月二十七日 信忠、岐阜から出馬。当日蜂屋の
肥田城泊。
・十月一日 信忠、安土を出発。勢田の山岡景隆
の所に泊。
・十月一日 長岡藤孝・惟任光秀・筒井順慶山城
衆らが、松永一味の森秀光・えびな勝正の楯籠
る片岡城を攻略。
*長岡忠興・昌興兄弟の活躍。信長から感状を
下される。
*惟任光秀の活躍
・十月三日 信忠、信貴山城に攻め寄る。
という流れになります。本書状は確かに長岡らの
軍勢が松永方の片岡城を攻陥した件を確認した
内容になっています。信長公本人にとっては特別
な軍働きのない四か月でした。
以上