『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:32織田信長黒印状 天正六年十月廿五日

2020-06-12 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。


32織田信長黒印状 天正六年十月廿五日

<本文>

 (諸情報ある中で)なかんずく(摂)津国からの

情報につき、(貴殿から)切々とした申し越しを頂

いているのは、(実に)懇切であり祝着(至極)で

ある。その件につき、宮内卿法印(松井友閑)・万

見仙千代(重元)を遣わし、また惟任日向守(光秀)

には(当方の意図を)申し含めておくのでよく相

談してもらい、(貴殿から届けられた)情報がしか

るべき方向に向かうよう気遣い専一に願いたい。

なお詳しくは、松井(友閑)がお伝えするだろう。

天正六年十月廿五日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

  ※天正六年=1578年


**純野のつぶやき**

天正六年(1578年)の前回の書状(三月四日)の

七カ月後の書状です。信長公の動きは、

・四月四日 信長、大将軍を信忠として大坂向け

 に軍勢を送る。

・四月九日 信長公、右大臣と右近衛大将を辞任。

・四月十日 信長公、滝川一益・惟任光秀・惟住長

 秀の三人を丹波へ派遣→荒木山城を取り巻き、

 水の手を断つと、敵は降参の上退散。

・四月中旬 毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・宇

 喜多直家らが進軍し、山中幸盛の籠る上月城を

 攻囲する。

 →信長の元に、「中国衆が大亀山に着陣」との注

  進が入る。

・四月二十七日 信長公、「5月1日に播磨へ出陣し、

 西国勢を打ち破る。敵を追い落としてしまえ」と

 言う

 →佐久間信盛・滝川一益・蜂屋頼隆・惟任光秀・

  惟住長秀らが声をそろえて、「播州は嶮難な

  場所が多く、敵も要害を丈夫に構えていると

  聞く。したがって我々が出働して上月方面の

  状況を調べて申上するので、早急な行動は

  遠慮されたし」と申上する。

・四月二十九日 滝川一益・惟任光秀・惟住長秀

 が出陣。

・五月一日 織田信忠が、播磨へ向け出陣。

・五月~九月 摂津国(播州)のことにかかりっきり。

・八月 惟任光秀の女(むすめ)玉子が長岡忠興

 に嫁ぎ、勝竜寺城に輿入れする。

・十月二十一日 「荒木村重逆心」の注進が方々か

 ら入る(十月十七日?)

となっていますので、本書状の日付が十月二十五

日であることから見て、"津国雑説”とは"荒木叛心”

のことをを指すものと思われます。その後実際に

十一月に信長公は摂津国方面へと出馬します。

 そのほかのトピックとしては、惟任光秀の女(む

すめ)玉子と長岡藤孝の嫡男忠興の婚儀があげ

られます。戦国時代の婚儀は「婿が嫁の一族を大

事にする」という目的がありました(例:織田信長

は斎藤道三の娘"濃姫(あるいは帰蝶)”と婚儀を

結ぶことにより、道三を父として敬う姿勢を見せ

た)ので、「長岡藤孝・忠興父子よ、嫁である玉子

とその父惟任光秀(明智一族)を大事にせよ!」と

いう信長公からの指図の様に見えます。足利義昭

を輿に担いで上洛させる時から信長と対等な立

場で活動してきた藤孝にとって、「光秀の一族を

大切にせよ!」との指図は相当な屈辱ではなかっ

たか・・ひょっとしたらこの因縁が本能寺の変に

つながるとしたら・・

以上


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