【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
32織田信長黒印状 天正六年十月廿五日
<本文>
(諸情報ある中で)なかんずく(摂)津国からの
情報につき、(貴殿から)切々とした申し越しを頂
いているのは、(実に)懇切であり祝着(至極)で
ある。その件につき、宮内卿法印(松井友閑)・万
見仙千代(重元)を遣わし、また惟任日向守(光秀)
には(当方の意図を)申し含めておくのでよく相
談してもらい、(貴殿から届けられた)情報がしか
るべき方向に向かうよう気遣い専一に願いたい。
なお詳しくは、松井(友閑)がお伝えするだろう。
天正六年十月廿五日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正六年=1578年
**純野のつぶやき**
天正六年(1578年)の前回の書状(三月四日)の
七カ月後の書状です。信長公の動きは、
・四月四日 信長、大将軍を信忠として大坂向け
に軍勢を送る。
・四月九日 信長公、右大臣と右近衛大将を辞任。
・四月十日 信長公、滝川一益・惟任光秀・惟住長
秀の三人を丹波へ派遣→荒木山城を取り巻き、
水の手を断つと、敵は降参の上退散。
・四月中旬 毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・宇
喜多直家らが進軍し、山中幸盛の籠る上月城を
攻囲する。
→信長の元に、「中国衆が大亀山に着陣」との注
進が入る。
・四月二十七日 信長公、「5月1日に播磨へ出陣し、
西国勢を打ち破る。敵を追い落としてしまえ」と
言う
→佐久間信盛・滝川一益・蜂屋頼隆・惟任光秀・
惟住長秀らが声をそろえて、「播州は嶮難な
場所が多く、敵も要害を丈夫に構えていると
聞く。したがって我々が出働して上月方面の
状況を調べて申上するので、早急な行動は
遠慮されたし」と申上する。
・四月二十九日 滝川一益・惟任光秀・惟住長秀
が出陣。
・五月一日 織田信忠が、播磨へ向け出陣。
・五月~九月 摂津国(播州)のことにかかりっきり。
・八月 惟任光秀の女(むすめ)玉子が長岡忠興
に嫁ぎ、勝竜寺城に輿入れする。
・十月二十一日 「荒木村重逆心」の注進が方々か
ら入る(十月十七日?)
となっていますので、本書状の日付が十月二十五
日であることから見て、"津国雑説”とは"荒木叛心”
のことをを指すものと思われます。その後実際に
十一月に信長公は摂津国方面へと出馬します。
そのほかのトピックとしては、惟任光秀の女(む
すめ)玉子と長岡藤孝の嫡男忠興の婚儀があげ
られます。戦国時代の婚儀は「婿が嫁の一族を大
事にする」という目的がありました(例:織田信長
は斎藤道三の娘"濃姫(あるいは帰蝶)”と婚儀を
結ぶことにより、道三を父として敬う姿勢を見せ
た)ので、「長岡藤孝・忠興父子よ、嫁である玉子
とその父惟任光秀(明智一族)を大事にせよ!」と
いう信長公からの指図の様に見えます。足利義昭
を輿に担いで上洛させる時から信長と対等な立
場で活動してきた藤孝にとって、「光秀の一族を
大切にせよ!」との指図は相当な屈辱ではなかっ
たか・・ひょっとしたらこの因縁が本能寺の変に
つながるとしたら・・
以上
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
32織田信長黒印状 天正六年十月廿五日
<本文>
(諸情報ある中で)なかんずく(摂)津国からの
情報につき、(貴殿から)切々とした申し越しを頂
いているのは、(実に)懇切であり祝着(至極)で
ある。その件につき、宮内卿法印(松井友閑)・万
見仙千代(重元)を遣わし、また惟任日向守(光秀)
には(当方の意図を)申し含めておくのでよく相
談してもらい、(貴殿から届けられた)情報がしか
るべき方向に向かうよう気遣い専一に願いたい。
なお詳しくは、松井(友閑)がお伝えするだろう。
天正六年十月廿五日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正六年=1578年
**純野のつぶやき**
天正六年(1578年)の前回の書状(三月四日)の
七カ月後の書状です。信長公の動きは、
・四月四日 信長、大将軍を信忠として大坂向け
に軍勢を送る。
・四月九日 信長公、右大臣と右近衛大将を辞任。
・四月十日 信長公、滝川一益・惟任光秀・惟住長
秀の三人を丹波へ派遣→荒木山城を取り巻き、
水の手を断つと、敵は降参の上退散。
・四月中旬 毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・宇
喜多直家らが進軍し、山中幸盛の籠る上月城を
攻囲する。
→信長の元に、「中国衆が大亀山に着陣」との注
進が入る。
・四月二十七日 信長公、「5月1日に播磨へ出陣し、
西国勢を打ち破る。敵を追い落としてしまえ」と
言う
→佐久間信盛・滝川一益・蜂屋頼隆・惟任光秀・
惟住長秀らが声をそろえて、「播州は嶮難な
場所が多く、敵も要害を丈夫に構えていると
聞く。したがって我々が出働して上月方面の
状況を調べて申上するので、早急な行動は
遠慮されたし」と申上する。
・四月二十九日 滝川一益・惟任光秀・惟住長秀
が出陣。
・五月一日 織田信忠が、播磨へ向け出陣。
・五月~九月 摂津国(播州)のことにかかりっきり。
・八月 惟任光秀の女(むすめ)玉子が長岡忠興
に嫁ぎ、勝竜寺城に輿入れする。
・十月二十一日 「荒木村重逆心」の注進が方々か
ら入る(十月十七日?)
となっていますので、本書状の日付が十月二十五
日であることから見て、"津国雑説”とは"荒木叛心”
のことをを指すものと思われます。その後実際に
十一月に信長公は摂津国方面へと出馬します。
そのほかのトピックとしては、惟任光秀の女(む
すめ)玉子と長岡藤孝の嫡男忠興の婚儀があげ
られます。戦国時代の婚儀は「婿が嫁の一族を大
事にする」という目的がありました(例:織田信長
は斎藤道三の娘"濃姫(あるいは帰蝶)”と婚儀を
結ぶことにより、道三を父として敬う姿勢を見せ
た)ので、「長岡藤孝・忠興父子よ、嫁である玉子
とその父惟任光秀(明智一族)を大事にせよ!」と
いう信長公からの指図の様に見えます。足利義昭
を輿に担いで上洛させる時から信長と対等な立
場で活動してきた藤孝にとって、「光秀の一族を
大切にせよ!」との指図は相当な屈辱ではなかっ
たか・・ひょっとしたらこの因縁が本能寺の変に
つながるとしたら・・
以上