東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

義母

2013年03月12日 10時50分03秒 | Weblog
 今朝3時、S赤坂(老人ホーム)から電話があって、義母の様態が悪いので、救急車で病院にいくとの事でS会病院に入院した、心筋梗塞か、早いうちに手当てしているので助かるようである、

 ばあちゃんの歴史は以下のとおりである、

 生まれは福島の相馬である、義母の母が横須賀(義母の父が海軍で戦艦三笠に乗っていた)に住み横浜のキリスト教系の学校に行っていたので、母から習った賛美歌の少しを今でも歌える、北海道の帯広に移り、女中さんのいる生活をしたという、徒競走が早く、勉強ができるおてんばであった、小学校の教科書の3年分くらいを暗記している、結婚して、家内も帯広で生まれたが、佐賀に引越しをした、こどもが3,4人いたはずだ、幼い子供をつれて戦時中の日本を横断するとはずいぶんと大変であったろう、私から見たらガバイバーチャンだけど本人は佐賀の生活に慣れなかった、

 儀父であるが、東京で法政大学を卒業して銀行員になった、北海道に軍隊でいる時義母と結婚、それから佐賀に転居して田んぼを買い、馬もいる本格的な農家になってしまった、のんべいで、私たちが結婚したころ、朝から飲んでいた、左利きの皆様ほどほどにしておいた方だよいと思う、この人は60歳くらいで亡くなった、忘れられないエピソードがある、儀父が死んだ時、義母は一晩、なきがらと一緒の布団で寝た、嫁は私と一緒に寝てくれるかしら、

 ついでにうちの母鳩山(こんなとこでなんで鳩が出るんだと思ったら、は富山)父は兵庫県の明石で、帯広、佐賀とあわせて、日本の4隅から来てるから、うちの子供はとても混血でホントの日本人である、

 4月28日の100歳まで生きるであろうか、104歳までもってほしいものである、104の根拠は特にないけど、

 一日に黒アメ一袋、食事は烏賊の塩辛を、一週間に一個食べている、



 佐賀県歌人協会に載った歌を書いてみたい、


 
   孫たちは                   古賀イネ


   我がままを咎めたことが仇となり徒歩で帰った曾孫の反抗

   目のふちに涙ひとつぶ落ちもせず抱けばにっこり孫は目覚めて

   小城山荘見下ろす夜景おさな孫町は花火のごとしといえり

   北国の種を求めて蒔きにけり莢豆付き始めてふるさとの顕つ

   写真入賀状の主はおさな友想いははるか故郷の正月

 

 



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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
anikobeさま (東京老人)
2013-03-13 21:56:01
今でも、、、
そうですね、2年ぐらい前までかしら、
作れといえば作っていました、
aniさまの短歌もたまにはみたいです。
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今も (anikobe)
2013-03-13 20:23:10
お義母さまは短歌をたしなまれるのでしょうか。
その時その時の気持ちや感動を、5・7・5・7・7の調べに載せて、おかれることいいですね。
私も20歳頃から新聞の投稿が楽しくて始めた短歌が、今は呟いて生きた証として残しています。
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anikobeさま (東京老人)
2013-03-12 16:36:14
いま病院から帰ってきましたが、
高熱があって苦しそうでした、
何とか持ち直してほしいです、

ほんとに文書を書くと小説みたいです、
佐賀県歌人協会の歌集がありましたので、
2,3の歌を入れておきます、
どうぞご覧になってください、
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自分史から義母さんへ (anikobe)
2013-03-12 15:04:51
義母さんの突然の入院に驚かれたことでしょう。
早い時期での処置がよかったですね。
1日も早いご回復を祈念しています。

この義母さんもまたそのお母さんも、かなりドラマチックな人生を送られたのですね。

あの当時の時代が、そのようになっていたのかもしれませんね。
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