これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

令和維新のすゝめ (その10)

2020-11-14 11:13:37 | 改革
★★★★ 教育、学習、勉強 ★★★★

【はじめに】
 今回は、「教育、学習、勉強についての見直し/改革が必要だ!」と言う、私の持論の第一稿です。

 教育は人間を幸福にすることがポイントです。 勉強が嫌いな子供に「勉強しろ!」と言うのは止めましょう。 100人の社員がいたとします。 一人か二人が優秀な社員で、数人がまあまあ優秀で、あとは凡庸な社員の集団の方が人間的で、効率的に仕事が出来る様に思います。

 東大法学部卒の優秀な政治家が、「このハゲ!」と叫んで物議を醸しました。彼女は頭の良い子供が集まる私立の中学/高校から東大に進みました。 世の中には凡庸な人間が沢山いる事を、学校で学ばなかったのでしょう! 優秀な人間ばっかりでは、組織は低迷してしまいます。 「社会にとっては、凡庸な人間も重要な存在だ」と私は思います。 そんな前提で教育を改革すべきです。

【私の経験】
 私が今までどんなにして勉強したかは、①~④のブログに書きました。 興味の有る方は読んでみて下さい。 私は、「学校で学んだ事がベースで、社会人になってその延長線上の分野の勉強をした人間だ」と思っています。

 私は沢山の方と仕事を通して接し、その経験から、「学校で学んだ事が直接仕事に繋がらなくても、その人の人生や仕事に役立っている」と考える様になりました。 今回は、そんな考え方を教えてくれた人の例を書きます。 大学も含めた学校では、学問以外に①友人と遊ぶこと/人との接し方、②善人/悪人・色々な人間がいる事、③左派/右派・色々な考え方が有ること、④社会には嫌な事/矛盾する事が多々ある事、・・・等々を知らず知らずのうちに学んでいるのです。

① 私の中学卒業までの勉強 :2020年6月27日投稿
② 私の大学合格までと勉強 :2020年7月4日投稿
③ 私の貧乏学生時代 :2020年7月11日投稿
④ 社会人になってからの勉強 (その1~4):2020年7月18日~8月15日投稿

【文学部→建築学科修士課程に転入】
 2010年に某中小企業で数ヶ月間働きました。当時は就職難の時代で、修士1名、大卒3名が入社して、私が2週間ほど新入社員教育を担当しました。 修士は超有名な国立大学の文学部を卒業し、その大学の建築学部の修士課程に進学しました。 彼は博士課程に進みたいと言ったのですが、教授が「博士論文を指導するのは無理だ」と考えて、(知り合いの)機械のメンテナンスをする会社の社長に頼んで引き取って貰ったのです。

 彼は建築についても知識が乏しく、機械については全く何も知りませんでした。普通の専業主婦程度の知識しか有りませんでした。 私の講義は殆ど理解出来ていない様子で、トンチンカンな質問をしていました。

 大学の偉い!偉い!教授達が、「我が大学は優秀な学生ばかりだから、文学部卒業生でも、修士と博士課程で教えたら、立派な建築家になれる!」と考えたのでしょう。 彼自身も甘い考え方だったと思いましたが、偉い!教授達の方はバカだったのです。 彼の様な犠牲者が二度と出ない事を祈っています。

 彼は修士号を持っていると言っていました。「どんな基準で修士号を出しているのか?」不思議に思いました。 (一二を争う国立大学だったのです。)

【文学部卒→シーケンサー制御】
 2000年頃に、社員30名程のシーケンサー制御の設計/派遣会社の社長と親しくなりました。 事務所を訪問すると、社長が「うちの会社には若い優秀な社員が多いい! 数年前までは求人に苦労していたが、最近は必要な数の社員は簡単に確保出来る」と得意げに言うのです。

 社長の遠いい親戚の息子が、私立大学の文学部を卒業したのですが、適当な就職先が見つからなかったので、両親に泣き付かれて引き取ったそうです。予想に反して、彼は短時間にシーケンサー制御言語をマスターして、プログラムの腕を上げたのです。

 制御プログラーマには論理一貫性が要求されます。 プログラムのバグ(bug :プログラムの誤り)を最小限にする必要が有るのです。 社長は、「文学部卒の若者は論理一貫しているから、制御プログラーマに向いている」と考えて、私立大学の文学部に求人を出したら、予想以上に応募者が有ったそうです。

 機械の制御プログラーマは、現地に行って、プログラムの微調整をするケースが多いいです。 顧客担当者とのコミュニケーション能力も重要です。「この点でも、文学部卒は適しているのでは?」と私は思いました。

【理学部卒→機械開発/設計部署に配属】
 旧帝大の理学部・修士卒の男性社員が、私の開発チームに配属されました。図面を描くこと、機械部品の名称等々の基礎から教える必要がありました。 幸いにも、彼は報告書の作成と実験は、ほぼ合格点を付けても良いレベルで、気立ての良い・皆に好かれる若者でした。 「彼を機械の開発/設計部署でやって行ける様にする義務が、私には有る」と思ったので、毎日・毎日、彼の教育に時間を割きました。 (一年間ほど最終退場者になってしまいました。)

 3年間ほど彼と机を並べましたが、その後・彼は相当苦労したと想像します。 私の会社の人事部は無茶苦茶でした。『適材適所』と言う言葉を無視した、配属や転属が結構沢山有りました。 日本には『人事心理学』を研究されている先生方がおられる様ですが、私は『人事学』が必要だと思います。

 ①適材適所の方法、②人事評価の方法、③採用してはいけない人の見抜き方、④セクハラやパワハラを繰り返す社員への対応方法、・・・こんな問題を研究するのが、私の持論の『人事学』です。

【文系卒→機械加工会社の社長】
 大手重電(ME社)の協力会社に出向していた時に、精度の高い機械加工業者を探す事になりました。ME社に相談すると、鳥取県の社員数名の小さな会社(K社)を紹介してくれました。

 訪問すると、田圃と果樹園の中に真新しい工場が一つだけ建っていました。工作機械は全て数年以内に購入したと思われる、最新鋭の物でした。 社長は50歳ほどの方で、従業員は少なかったですが、皆さん忙しそうに働いていました。

 一人息子が、「大学を出たら跡を継ぐ」と言ったので、卒業前に会社を移転して、新しい工作機械を買い揃えたのです。 東京の私立大学の文系を卒業された息子さんが、約束通りに帰って来て、職人になりました。 私が最初に訪問した時、息子さんは二十歳代後半で、その工場ではダントツに若い工員でした。

 それまでに、私は工作機械(旋盤、フライス盤、ボール盤・・・マシニングセンター等々)について一通り勉強していました。 社長が工作機械を案内してくれました。ボール盤には手作りと思われるドリルの監視カメラが付いていました。ジット見ていると、社長が「ドリルが折れたら警報が出ます。息子が作った!」と誇らしげに言われました。他にも同様の工夫が何カ所かに施されたいて、全て文系卒の息子さんが作ったそうです。

 K社はME社の孫請け会社でした。、ME社の下請け(子請け)会社が反対したので仕事を受けて貰えませんでした。 それから数年後に、私はME社とは取引の無い別の会社に出向しました。その会社に、K社にピッタリの仕事が有ったので、K社に行って見ました。

 先代社長は既に亡くなっていて、三十歳そこそこの息子さんが立派な社長になっていました。工場を増設して工作機械も増やし、従業員は十名ほどいました。 この時も、ME社の下請け会社の反対で、話を進める事が出来ませんでした。

【工学部卒→大手商社→機械メーカーの社長】
 社員が300名程(中規模)の機械メーカーの社長が若くして急死されました。 子息は有名な私立大学の工学部を卒業されて、大手商社の東京本社に勤務していました。重役達が毎週の様に上越新幹線で上京して、「社長になって下さい」と子息を説得しました。根負けして、彼は社長に就任しました。 その直ぐ後に、「アドバイスしてやって欲しい」と頼まれたので、二、三回会いに行きました。

 考え方のシッカリした、25~6歳ほどの好青年でした。先代はガソリンスタンドや賃貸マンションや色々手広く手掛けていましたが、彼は本業以外の事業は全て整理しました。殆どアドバイスが必要無いと、私は判断しました。

 それから15年ほどした・ある日、テレビをつけると立派になられた彼が映っていたのです。NHKだったと記憶するのですが、優良企業として彼の会社を紹介する番組でした。

 「大学を卒業して直ぐに父親の会社に入っていたら、これほど成功しなかったのでは!?」と思いました。「商社での社会勉強で、視野が広がったのだ」と勝手に思った次第です。

【文系卒→プレス加工会社の営業】
 1980年頃の話しですが、東京六大学野球のピッチャーだった若者が、就職先が無くて、伯父さんが経営する小さなプレス加工会社に雇って貰いました。職工にするには歳を取り過ぎているので、営業を任せる事になりました。 (彼は、文科系の学科卒だった様でした。)

 彼が営業を始める様になって注文が増えて、それまでの工場の倍ほどの用地を買って第二工場を建てました。 更に、本社工場の機械も全て新しくしました。 ドンドン注文が増えて、第三工場を建てました。 私が最初に訪問したのは1990年でしたが、既に優良企業になっていました。

 彼が高卒で伯父さんの会社に入っていたら、職工になっていたと思います。大学で学んだ事は、仕事には直接関係が無い様に思えますが、東京の4年間で得た世の中に関する知識と経験(社会勉強)は、彼の営業の仕事に大いに役立ったと思いました。

 この会社が成長したのは、プレス加工の仕事が増え始めた時期に第二、第三工場を建て、最新の機械を導入した事と、この業界の常識に反して営業担当者を置いた事など、沢山有りました。正に『流れに掉さして』急成長したのです。

 営業をされた方には分かって貰えると思いますが、袖の下を要求したり、傲慢な態度を取る、嫌な顧客が結構います。 彼は大学まで野球をやった分けですが、厳しい練習と・嫌な先輩に耐えて頑張ったと思われます。 その会社で営業は彼だけでしたから、相談相手もいませんでした。 彼が成功したのは、野球の経験も大きな要因だった様に思いました。

【ティーチング・ロボットの開発】
 1970年頃のスエーデンの話しです。シャベルを作る小さな町工場が有りました。 息子さんが大学で機械制御を学んで卒業し、父親の会社で働き始めました。シャベルの最終工程は、人手による塗装です。 彼は仕事の合間に、塗装ロボットの研究をして、開発に成功しました。 当時、産業用のロボットは殆ど販売されていませんでした。

 私より十歳程年上の社員(NO氏)が、ドイツのデュセルドルフ国際展示会に出張しました。そこに前述のロボットが展示されていました。NO氏は甚く感心して、社長に「技術提携したい!」と申し入れました。既に、日本の数社を含め多くの会社から話が有り、各社に年間売り上げ予想台数を出させたら数百台とか千台と回答したそうです。NO氏は「二、三十台」と回答したそうです。 

 「息子が趣味で作ったロボットを、毎年数百台も売れる分けが無い」と社長は考えられていたのです。 「貴社と契約する」と言ってくれたそうです。帰国後、NO氏が私に色々話してくれました。

 技術提携を結ぶ為にはライセンスフィー(契約金)の額?とロイヤリティを何%にするか?会社上層部の許可を取り付ける必要があります。NO氏は説得のために走り回っていました。 「スエーデンのショベル・メーカーと技術提携するらしい」と聞いたので、NO氏に「シャベルを作る町工場だったのでは?」と私は尋ねました。 「シャベル・メーカーだったら許可が貰えないよ!」と言われました。 『ャ』と『ョ』だけの違いですから、ばれても「言い間違いでした」と誤魔化せます。

 私は現場に行った帰りに、ロボットの実験を時々見学させて貰いました。つい時間を忘れてしまう、面白い実験でした。時々でしたが、データーを記録している磁気テープが切断して、交換するのが大変でした。

 私は重役の一人から、「半導体の技術的な進歩と価格変動を調査して、時々報告書を提出」する様に命じられていました。 あっという間に半導体メモリーが安くなったので、ロボットの担当者に「磁気テープを半導体メモリーに変える」提案をしましたが、彼は勉強しようとはしませんでした。

 スエーデンのシャベルの会社は、その後・新しいロボットを開発しなかった様です。 「息子さんには才能が有る様に思えたし、毎年入って来るロイヤリティを開発に回せばロボット・メーカーになれたのでは?」と残念に思いました。

 当時のロボットは空気シリンダーか油圧シリンダーで動かしていました。その為に機械メーカーが開発/製造していました。 日本電産(株)が素晴らしいモーターを販売する様になって、ロボットはあっという間にギヤードモーター駆動が主流になりました。 日本電産(株)は急成長して、今では小形精密モーターの分野で世界一の会社になっています。

(余談 :ティーチング・ロボット) 人間の身体にセンサーを付けて、動きをデーター化して記録します。その記録データーでロボットを動かすのがティーチング・ロボットです。 当時は半導体のメモリーが高価だったので、エンドレスの磁気テープに記録データーのコピーを入れていました。 磁気テープを高速で走らせるので、切断トラブルが頻繁に発生しました。テープの交換作業は大変でした。

(余談 :シャベルとスコップ) 関東では大きいのを『スコップ』、小さいのを『シャベル』、と言いますが、関西は逆です。 JISでは、上に足を掛けて押し込めるのを『シャベル』、上が丸くて足が掛けられないのを『スコップ』と呼びます。 スコップの語源ははオランダ語の”Schop”で、江戸時代に日本に入って来たようです。

(余談 :語学の才能) NO氏は工学部卒でしたが、英語とドイツ語が堪能でした。私の席の近くで、英語とドイツ語でショッチュウ電話していました。重役の誰かが海外出張する時は、通訳としてお供していました。フランス語とスペイン語もマスターして、中国語も喋れる様になりました。 最後にお会いした時、「君は技術屋として素晴らしい仕事をやった、羨ましいよ! 僕は技術屋らしい仕事は何も出来なかった」と言われました。


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