今回は、大戦後の韓国の李承晩時代についてです。 なお、朝鮮戦争については、『朝鮮半島の歴史(その4)』を参照願います。
【韓国の第1代(第1回)総選挙】 1947年~48年
1947年末から、アメリカを中心とした国連は、朝鮮半島で南北統一の総選挙を実施しようとしましたが、北側(ソビエト)が拒否したために、48年の5月に南側でのみ総選挙が行われました。
南側の左派の人達は、分断選挙に対する反対運動を起こし、選挙に参加しませんでした。特に済州島では暴動にまで発展し、死者が出ました。(済州島四・三事件の始まりです。)
1948年7月に憲法を制定し、国会議員の投票で初代大統領(李承晩)を選出しました。
【李承晩の時代の始まり】 1948年~1960年
1904年に大韓帝国の高宗がアメリカに派遣した”李承晩”は、それ以来アメリカに住んでいました。1945年に帰国し、アメリカでのロビー活動で得た人脈を活かして、第1代総選挙で国会議員になり、首班候補になりました。 選挙を有利に展開するために、1920年頃から”日本軍と戦ってきた”と言う嘘の経歴をでっち上げました。
1960年に大統領選挙の不正に対する大衆運動「四月革命」が起こり、李承晩は失脚し、住み慣れたアメリカに亡命しました。
【李承晩時代の韓国経済】
韓国併合時代、半島の北部には世界的レベルの大工場が沢山有りましたが、南部には工場は少なく、南側は農業が主だったのです。 その上に、日本が残した貴重な資産の多くを朝鮮戦争で失いました。
朝鮮戦後にアメリカから総額23億ドルもの巨額の援助を得ましたが、(どぶに捨てる様に金を使って)製粉・製糖・紡績などの工場を過剰に建設してしまい、供給過剰になってしまいました。 アメリカの援助が少なくなるにつれ、どんどん貧しくなって、約12年間続いた李承晩の末期には併合前(1910年)の状態に戻ってしまいました。(結局、世界の最貧国になってしまったのです。)
ちなみに、アメリカの援助・23億ドルは、後に日本から得た援助金(総額11億ドル)の2倍以上もあったのです!
韓国では、『併合時代に日本が収奪したために、朝鮮半島は李氏朝鮮時代よりも貧しくなった』と主張している一派がいる様です。 朝鮮戦争と李承晩の愚鈍な経済政策を隠蔽するための主張だと思われます。
【李承晩ライン】 1952年
朝鮮戦争の休戦協定が締結される前年(1952年)、李承晩は一方的に”李承晩ライン”を設定して、竹島を実行支配しました。 なお、李承晩ラインには対馬も入っています。
当時はまだ自衛隊が設立されておらず、竹島に手を出しても日本が何も出来ない事を見越して行動したのです。
【李承晩による大虐殺】 1948年~1957年
韓国側に共産党の組織が温存された状態で、1948年に韓国は建国されました。共産主義者達は北朝鮮との統一を画策していました。李承晩の時代には、共産主義者を撲滅すると称して多量の虐殺が行われました。 これらの事件について書くことは、韓国では今でもタブーの様になっています。
★朝鮮戦争の前の虐殺 : 1948年 ;①麗水叛乱・順天事件(被害者=8,000人)、②済州島四・三事件 (総被害者=約8万人)
注記 :済州島四・三事件は李承晩が大統領に就任する前(1948年4月3日)に発生しましたが、虐殺のほとんどは就任後で、57年までには8万人の島民が虐殺されたと言われています。
★朝鮮戦争中の虐殺 : 1950年 ;①保導連盟事件 (被害者=公式には約5,000人、非公式には20万人から120万人)、 ②信川虐殺事件(被害者=約3.5万人) ・・・実行者はいまだ解明されていません。
★国民防衛軍事件 :1951年1月に軍の幹部達が戦争中にも関わらず、軍事物資や兵糧を横領したために、9万人以上の兵隊が餓死しました。(にわかには信じられない話です。)
【大虐殺を私の子供の頃の体験から考えると!】 ~1955年
私の故郷は山深い山村です。戦前に水力発電所が3か所建設されましたが、電気は町に送られ、村では役場や学校など以外には電力は供給されていませんでした。1950年頃に、やっと我が家にも電気が来ました。 ほとんどの家は、安い『一戸一灯契約』で、最初はラジオも普及していませんでした。新聞を取っている家は2~3軒ほどしかなく、殆どの人は政治についての知識がありませんでした。
私の家は20戸ほどの集落にありましたが、選挙が行われる度に、誰かの家に集まって『誰に投票するか』決めていました。
併合時代の朝鮮半島は、電気の普及率は内地より高かった様ですが、識字率は内地より低かった様です。 当時の韓国では 選挙などの時は、(私のふる里の様に)集団で態度を決めていたのではないかと推察します。
第1代総選挙の時に、共産党が主導した運動が激しかった地域では、全員が共産主義者だと見なされて、”誰彼構わず”に虐殺されたのだと私は見ています。
【在日の韓国人と朝鮮人】
終戦までに朝鮮半島から日本に渡って来た人達は、約200万人ほどいましたが、1946年3月までに約140万人は朝鮮に帰還しました。約60万人は日本に留まったことになります。
1959年~84年の北朝鮮への帰還事業によって、9万人程が帰国されました。(大半は現在の韓国の出身者だったようです。) 現在、(北)朝鮮籍の在日人は約3万人しかいません。
我が国には、朝鮮総連が実質的に運営している、金王朝を礼賛する朝鮮学校(幼稚園~大学)が多数あります。(北)朝鮮籍の子供達だけでなく、韓国籍、日本国籍を取得した朝鮮人、純粋に日本人の子供も在籍している様です。 年々生徒数は減少して、1970年頃には4~5万人でしたが、2015年頃には6,000人程になっている様です。
戦後の李承晩の時代に何回も行われた虐殺事件により多量の難民(60万人と言う説もあります)が日本に密入国しました。日本政府は帰還させようと韓国と交渉しましたが、「殺戮すべき共産主義者か、そのシンパ(Sympathizer)である」と見なしていたために、引き取りを拒否されました。
その後、日本国籍を取得された方も多く、現在も韓国籍の在日韓国人は約45万人です、韓国に帰りたければ(現在は)帰れる状況になっています。 彼らの子供達は、ほとんど日本の公立の学校で学んでいます。
【在日韓国人についての私の考え】
最後に密入国された方でも、70年程日本に住んでいる事になります。もう孫の世代が活躍されています。幸いにも日本は働き手が不足しています。日本に住み続けられて、何か支障が有るでしょうか? 勿論、北朝鮮のスパイは摘発して追放すべきですが!
差別やヘイトスピーチは止めましょう! 私は、二世の立派な社長さん(数人)と取引したことがあります。何れの方も、沢山日本人を雇用していました。
★★予告★★
次回は、三代続いた軍人政権時代の韓国の歴史です。
【韓国の第1代(第1回)総選挙】 1947年~48年
1947年末から、アメリカを中心とした国連は、朝鮮半島で南北統一の総選挙を実施しようとしましたが、北側(ソビエト)が拒否したために、48年の5月に南側でのみ総選挙が行われました。
南側の左派の人達は、分断選挙に対する反対運動を起こし、選挙に参加しませんでした。特に済州島では暴動にまで発展し、死者が出ました。(済州島四・三事件の始まりです。)
1948年7月に憲法を制定し、国会議員の投票で初代大統領(李承晩)を選出しました。
【李承晩の時代の始まり】 1948年~1960年
1904年に大韓帝国の高宗がアメリカに派遣した”李承晩”は、それ以来アメリカに住んでいました。1945年に帰国し、アメリカでのロビー活動で得た人脈を活かして、第1代総選挙で国会議員になり、首班候補になりました。 選挙を有利に展開するために、1920年頃から”日本軍と戦ってきた”と言う嘘の経歴をでっち上げました。
1960年に大統領選挙の不正に対する大衆運動「四月革命」が起こり、李承晩は失脚し、住み慣れたアメリカに亡命しました。
【李承晩時代の韓国経済】
韓国併合時代、半島の北部には世界的レベルの大工場が沢山有りましたが、南部には工場は少なく、南側は農業が主だったのです。 その上に、日本が残した貴重な資産の多くを朝鮮戦争で失いました。
朝鮮戦後にアメリカから総額23億ドルもの巨額の援助を得ましたが、(どぶに捨てる様に金を使って)製粉・製糖・紡績などの工場を過剰に建設してしまい、供給過剰になってしまいました。 アメリカの援助が少なくなるにつれ、どんどん貧しくなって、約12年間続いた李承晩の末期には併合前(1910年)の状態に戻ってしまいました。(結局、世界の最貧国になってしまったのです。)
ちなみに、アメリカの援助・23億ドルは、後に日本から得た援助金(総額11億ドル)の2倍以上もあったのです!
韓国では、『併合時代に日本が収奪したために、朝鮮半島は李氏朝鮮時代よりも貧しくなった』と主張している一派がいる様です。 朝鮮戦争と李承晩の愚鈍な経済政策を隠蔽するための主張だと思われます。
【李承晩ライン】 1952年
朝鮮戦争の休戦協定が締結される前年(1952年)、李承晩は一方的に”李承晩ライン”を設定して、竹島を実行支配しました。 なお、李承晩ラインには対馬も入っています。
当時はまだ自衛隊が設立されておらず、竹島に手を出しても日本が何も出来ない事を見越して行動したのです。
【李承晩による大虐殺】 1948年~1957年
韓国側に共産党の組織が温存された状態で、1948年に韓国は建国されました。共産主義者達は北朝鮮との統一を画策していました。李承晩の時代には、共産主義者を撲滅すると称して多量の虐殺が行われました。 これらの事件について書くことは、韓国では今でもタブーの様になっています。
★朝鮮戦争の前の虐殺 : 1948年 ;①麗水叛乱・順天事件(被害者=8,000人)、②済州島四・三事件 (総被害者=約8万人)
注記 :済州島四・三事件は李承晩が大統領に就任する前(1948年4月3日)に発生しましたが、虐殺のほとんどは就任後で、57年までには8万人の島民が虐殺されたと言われています。
★朝鮮戦争中の虐殺 : 1950年 ;①保導連盟事件 (被害者=公式には約5,000人、非公式には20万人から120万人)、 ②信川虐殺事件(被害者=約3.5万人) ・・・実行者はいまだ解明されていません。
★国民防衛軍事件 :1951年1月に軍の幹部達が戦争中にも関わらず、軍事物資や兵糧を横領したために、9万人以上の兵隊が餓死しました。(にわかには信じられない話です。)
【大虐殺を私の子供の頃の体験から考えると!】 ~1955年
私の故郷は山深い山村です。戦前に水力発電所が3か所建設されましたが、電気は町に送られ、村では役場や学校など以外には電力は供給されていませんでした。1950年頃に、やっと我が家にも電気が来ました。 ほとんどの家は、安い『一戸一灯契約』で、最初はラジオも普及していませんでした。新聞を取っている家は2~3軒ほどしかなく、殆どの人は政治についての知識がありませんでした。
私の家は20戸ほどの集落にありましたが、選挙が行われる度に、誰かの家に集まって『誰に投票するか』決めていました。
併合時代の朝鮮半島は、電気の普及率は内地より高かった様ですが、識字率は内地より低かった様です。 当時の韓国では 選挙などの時は、(私のふる里の様に)集団で態度を決めていたのではないかと推察します。
第1代総選挙の時に、共産党が主導した運動が激しかった地域では、全員が共産主義者だと見なされて、”誰彼構わず”に虐殺されたのだと私は見ています。
【在日の韓国人と朝鮮人】
終戦までに朝鮮半島から日本に渡って来た人達は、約200万人ほどいましたが、1946年3月までに約140万人は朝鮮に帰還しました。約60万人は日本に留まったことになります。
1959年~84年の北朝鮮への帰還事業によって、9万人程が帰国されました。(大半は現在の韓国の出身者だったようです。) 現在、(北)朝鮮籍の在日人は約3万人しかいません。
我が国には、朝鮮総連が実質的に運営している、金王朝を礼賛する朝鮮学校(幼稚園~大学)が多数あります。(北)朝鮮籍の子供達だけでなく、韓国籍、日本国籍を取得した朝鮮人、純粋に日本人の子供も在籍している様です。 年々生徒数は減少して、1970年頃には4~5万人でしたが、2015年頃には6,000人程になっている様です。
戦後の李承晩の時代に何回も行われた虐殺事件により多量の難民(60万人と言う説もあります)が日本に密入国しました。日本政府は帰還させようと韓国と交渉しましたが、「殺戮すべき共産主義者か、そのシンパ(Sympathizer)である」と見なしていたために、引き取りを拒否されました。
その後、日本国籍を取得された方も多く、現在も韓国籍の在日韓国人は約45万人です、韓国に帰りたければ(現在は)帰れる状況になっています。 彼らの子供達は、ほとんど日本の公立の学校で学んでいます。
【在日韓国人についての私の考え】
最後に密入国された方でも、70年程日本に住んでいる事になります。もう孫の世代が活躍されています。幸いにも日本は働き手が不足しています。日本に住み続けられて、何か支障が有るでしょうか? 勿論、北朝鮮のスパイは摘発して追放すべきですが!
差別やヘイトスピーチは止めましょう! 私は、二世の立派な社長さん(数人)と取引したことがあります。何れの方も、沢山日本人を雇用していました。
★★予告★★
次回は、三代続いた軍人政権時代の韓国の歴史です。