ヴェスヴィオ山、浅間山がよく似た山容をもつと共に、時代は異なるものの、過去によく似た規模の噴火・山体崩壊を起こしていたことを、前回紹介した。そして、今後予想されるヴェスヴィオ山の噴火については、イタリアでは国をあげての防災対策が作られていることを見た。
今回は浅間山と桜島という、日本の2大火山の噴火の歴史と、2地域における現代の防災対策について見ておこうと思う。桜島を加えたのは、前回紹介したように、鹿児島市とナポリ市が姉妹都市提携をしていることによる。
ヴェスヴィオ山、浅間山、桜島の3火山を中心に、過去の火山噴火規模を、前回紹介したVEI基準で分類すると次のようである。尚、発生頻度と過去1万年間の発生回数は、全地球規模の数字で、この3火山についてのものではない。
VEIで分類したヴェスヴィオ山、浅間山、桜島などの噴火の歴史
小山教授も前記著書の中でヴェスヴィオ山と浅間山の類似性を指摘しているが、79年のヴェスヴィオ山と2.4万年前の浅間山の噴火はほぼ同規模と考えられている。1108年の浅間山の天仁の噴火は、2.4万年前と同じVEI区分「5」にあるが、噴火の規模はその約1/3である。また1783年の天明噴火は、さらにその1/2で、79年のヴェスヴィオや2.4万年前の浅間の噴火規模と比べると約1/6ということになる。
ヴェスヴィオについては前回、小山教授の著書から、詳細を引用したが、今回は浅間山について、村井 勇著「浅間山」(2013年 浅間火山博物館発行)を参考に、過去の噴火と、それによる災害の発生状況を見ておこうと思う。
浅間山は、周知の通り日本で最も活発な活火山の1つであり、世界でも代表的な活火山で、標高2,568m、東西約15km、南北約35km、面積約50km^2(平方キロメートル)、体積約56km^3(立方キロメートル)の成層火山である。
浅間山は新旧の3つの火山体によって作り上げられており、その最も古い火山体は黒斑火山である。この黒斑火山は、標高2800mほどのほぼ完全な円錐形の火山であったが、約2.4万年前の噴火の際に火山錐の東半分が崩れ、その後さらに山体の東部が陥没し、そのあとに仏岩火山が形成された。さらにその上に一番新しい前掛山が成長した。以前、当ブログ「山体崩壊」(2017.4.28 公開)で紹介したが、改めて今回掲載の写真で書き直したものと、ヴェスヴィオ山とを比較してみると次のようである。
2.4万年前の噴火前の旧浅間山(黒斑火山)の姿の想像図
79年の噴火前のヴェスヴィオ山の姿の想像図
前掛火山の頂上部には、天仁の噴火(1108年)の際に陥没してできた大きなくぼみがあり、その中に成長した中央火口丘の釜山の頂上に現在の噴火口がある。
黒斑火山の活動の末期(2.4万年前)に起きた大規模な噴火は山体の崩壊を伴い、南は現在の佐久市、軽井沢町、北は長野原町に岩塊や土砂が流れ、小丘状の流れ山を作っている。南軽井沢では岩屑なだれの堆積物により湯川がせき止められ、湖沼ができた。
岩屑なだれは北の吾妻川に流れ込み、さらに泥流となって下流を襲い、中之条盆地では30m~40mも河床が上昇し、利根川合流点付近でも40mの河床上昇があった。前橋付近まで流れて土砂を15mも堆積させた。現在の前橋市街はこの体積土砂の上にある。
南麓では岩屑なだれが佐久平で千曲川に入って泥流が発生し、上田盆地にまで達して厚い堆積層を残した。
これに次いで起きた、有史以来の記録に残る最初の噴火は、嘉承三年/天仁元年(1108年9月)の、現在の火山体である前掛火山の噴火であった。噴火は8月下旬から10月にかけて発生し、最初はブルカノ式爆発的噴火で始まった。初めは主に火山灰を降らせたが、やがて噴火の勢いが激しくなり、軽石を噴きだし、続いて莫大な量のスコリア(暗色の多孔質塊)、軽石、火山灰が噴出した。現在でも中腹の峰の茶屋付近では2mのスコリア、火山灰の層が見られるという。
8月30日頃に莫大な量のスコリア質の岩塊と火山灰が一度に火口から噴き出され、一団となって火砕流を形成し、山腹を流れ下って、南側と北側の山麓に広がった。火砕流は南麓の御代田町東半分から軽井沢町追分付近の湯川までに達し、北麓でも山麓一帯に広がり、大笹付近で吾妻川に達した。その面積は80平方km、体積0.6立方km、平均の厚さ8mほどになった。この火砕流は追分火砕流・嬬恋火砕流と呼ばれ、キャベツのような形の火山弾状の本質火山岩片(浅間石)を含むことが特徴である。
南麓では御代田町から軽井沢町にかけての広い地域が火砕流堆積物により完全に埋没してしまった。軽井沢付近から碓氷峠を通る東山道はこのために路線変更をしたと思われるという。
この噴火の総噴出量は1.0立方kmを超えると計算されている。
これに続く天明三年(1783年8月)の噴火は日本の災害史上最も重要な噴火で、噴出物の総量は0.5立方kmに達し、天仁噴火の半分ほど、1991年の雲仙普賢岳噴火の1.5倍ほどであった。この時の噴火による被害は主に群馬県側に集中した。特に鎌原火砕流・岩屑なだれの発生と、それに伴って起こった吾妻川と利根川の泥流による被害がほとんどすべてであった。一方長野県側では軽井沢宿が噴石の降下で家屋が潰れ、火災を起こし、噴石に当たった1~2名が死亡した。沓掛(中軽井沢)では泥流が発生したのみで、大きな被害はなかった。特に著しい被害をこうむったのは北側の鎌原集落で、100軒ほどの家があったが、全村が岩屑なだれの下に埋まってしまい、住民560~570人のうち477名が死亡し、93名が助かった。この岩屑なだれは、熱いガス雲を伴っていなかったため観音堂に駆け上った人は無事であったという。
全体での死者の数はいろいろな数字があげられているが、当時の幕府が派遣した根岸九郎左衛門の覚書によると、おそらく1,500名を少し超えるほどと考えられるとされる。
岩屑なだれに埋没した鎌原集落の発掘調査は1979年に浅間山麓埋没村総合調査会が組織され、本格的に進められた。これにより、3軒の潰れた家と多くのガラス製の鏡などの生活用品が発見され、30~40歳の女性の遺体も見つかっている。また、観音堂の前の石段が掘り下げられ、50段の石段が現れ、5.9mの最下部から2名の女性の遺体が発見されている。テスト・ピット調査の結果によると、鎌原地区での岩屑なだれ堆積物は厚いところで9m、薄いところで2~3mに達していた。
こうしたことから、鎌原村は日本のポンペイと呼ばれることがある。観音堂近くに建てられた「嬬恋郷土資料館」では天明の大噴火に関する資料の数々を見ることができ、また火山災害という共通の歴史を持つ事が縁でポンペイの噴火犠牲者の人型レプリカも展示されている。
多くの被災者を出した浅間山の天明の大噴火であるが、この噴火の影響は直接的なものだけに留まらなかった。この時代は世界的に火山活動が盛んであり、1766年フィリピンのマヨン、1772年ジャワのパパンダヤン、1775年グアテマラのパカヤが噴火し、大量の火山灰が上空高く吹き上げられた。浅間山の噴火と同じ年1783年6~8月にはアイスランドのラガキガル(アイスランド語、英名はラキ)でも有史以来世界最大級の噴火があった。吹き上げられた火山ガスと火山灰は成層圏に停滞して日照を妨げ、気象に大きな影響を及ぼす。中でも浅間山とラガキガルの噴火は特に規模が大きく、両者とも気候に対して同程度の影響があったとされる。この影響は全世界、特に北半球に及んで、気温低下が起こった。
ヨーロッパでは1783年から1784年の冬は平年より5℃も低下した。日本でも1783年から1787年にかけて冷夏が続いた。吾妻川や利根川沿いの村々では田畑に泥が入って使えなくなり、関東地方一帯の降灰が厚く覆った地域も耕作に大被害を受け、秋頃から飢饉が起こった。吾妻川の谷合の村々では多くの餓死者が出た。
降灰の被害を受けた群馬県だけではなく、東日本、特に奥羽地方一帯が凶作となり、破壊的な飢饉となった。東北地方だけで数十万人の餓死者が出、疫病の流行もあって、天明の飢饉による餓死者・病死者の総計は全国で100万人近いという途方もない結果を招いた。
次に桜島について見ておく。今年3月に九州旅行をした時に立ち寄った鹿児島市の仙厳園では、折から噴煙を上げる次の写真のような桜島を見ることができた。
仙厳園から見た噴煙を上げる桜島(2019.3.15 撮影)
桜島(さくらじま)は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77平方キロメートルの火山。かつては島であったが、1914年(大正3年)の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きとなった。
明治以前は2万以上であった島内の人口は、大正大噴火の影響によって9,000人以下に激減。その後も減少が続き、1985年(昭和60年)には約8,500人、2000年(平成12年)には約6,300人、2010年(平成22年)には約5,600人となっている。
約1.3万年前に発生した噴火によって噴出したテフラ(火山灰)で、火砕物の総体積は11立方kmに及び、2.6万年前〜現在までにおける桜島火山最大の活動であったとされている。VEIは6。他の桜島火山起源のテフラで火砕物噴出量が2立方kmを越えるイベントはないので、桜島-薩摩テフラは他のテフラとくらべ桁違いに大きい。この噴火によって、桜島の周囲10km以内ではベースサージが到達したほか、現在の鹿児島市付近で2m以上の火山灰が堆積しており、薩摩硫黄島などでも火山灰が確認されている。
有史以降の噴火としては、30回以上の噴火が記録に残されており、特に文明、安永、大正の3回が大きな噴火であった。
1471年(文明3年)9月12日に大噴火(VEI5)が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、死者多数の記録がある。
1779年(安永8年)11月7日の夕方から地震が頻発し、翌11月8日の朝から、井戸水が沸き立ったり海面が紫に変色したりするなどの異変が観察された。正午頃には南岳山頂付近で白煙が目撃されている。昼過ぎに桜島南部から大噴火が始まり、その直後に桜島北東部からも噴火が始まった。夕方には南側火口付近から火砕流が流れ下った。夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出し、江戸や長崎でも降灰があった。
11月9日には北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出が始まり、翌11月10日には海岸に達した(安永溶岩)。翌年1780年(安永9年)8月6日には桜島北東海上で海底噴火が発生、続いて1781年(安永10年)4月11日にもほぼ同じ場所で海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。一連の海底火山活動によって桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が形成され安永諸島と名付けられた。島々のうちいくつかは間もなく水没したり、隣接する島と結合したりして、『薩藩名勝志』には八番島までが記されているという。死者は150人を超えたが、最も大きい燃島(現・新島)には1800年(寛政12年)から人が住むようになった。
噴火後に鹿児島湾北部沿岸の海水面が1.5–1.8 m上昇したという記録があり、噴火に伴う地盤の沈降が起きたと考えられている。一連の火山活動による噴出物量は溶岩が約1.7立方km、軽石が約0.4立方kmにのぼった。VEIは4。薩摩藩の報告によると死者153名、農業被害は石高換算で合計2万3千石以上になった。
1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。流出した溶岩の体積は約1.5立方km、溶岩に覆われた面積は約9.2平方km、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m、最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。この時の噴火はプリニー式噴火であり、火山爆発指数4、被害は死者58、傷者112、焼失家屋2,268であった。
桜島の黒神集落にあった鳥居は、1914年噴火で上部をわずかに残し約2mの噴石や火山灰に埋もれてしまい、埋没鳥居として残されている。
ここで、ヴェスヴィオ山、浅間山、桜島とその周辺の都市の位置関係を見ておくと次のようである。
ヴェスヴィオ山と周辺の都市
浅間山と周辺の都市
桜島と周辺の都市
さて、ヴェスヴィオ山では、地質学者協会会長のフランセスコ・ルッソ氏による『今後100年間に大噴火が起きる可能性は27%』との予測に基づいて各種防災対策がとられていることを前回紹介したが、日本ではどうか。
日本には、北方領土を含めると111の活火山があり、その内50の火山では24時間体制で監視が行われている(常時観測火山、気象庁資料による)。そのうち13の火山がAランク(気象庁ではこの分類は用いていない)に位置付けられているが、その中に浅間山と桜島が含まれている。
浅間山では、以前から防災マップが作られていた。ここには最近100年間に発生した小~中規模噴火の場合と、天明噴火(1783年)の場合を想定した「火山ハザードマップ」が記されている。この場合、噴火により火口から噴出した高温の岩塊や火山灰、軽石などが高温のガスと混合し、それらが一体となり地表を流下する「火砕流」だけではなく、これに加えて、冬期間、山頂付近で雪が積もっている時期に中規模の噴火をし、火砕流が発生した場合、この火砕流により雪が解け、土砂や火山灰と一緒になり、斜面を高速で流れ下る「融雪型火山泥流」のシミュレーション結果が公表されていた。
これに加え、過去に発生した大規模噴火と同等の噴火に備え、避難計画等の策定を進めるため、大規模噴火を想定したハザードマップが検討された。浅間山火山防災協議会に県、市町村、関係庁など19機関により構成された専門部会が設置され、平成28年10月18日~平成30年3月31日の期間をかけて、ハザードマップを新たに作成するとともに、平成15年に作成した小~中規模ハザードマップをわかりやすくするため、一部改訂が行われた。
この結果は、関連する県、市町村からホームページなどを通じて発表されることとなったが、軽井沢町では2018年6月1日に公表されている。また、2019年7月初旬にはこの新たな内容を盛り込んだ浅間山火山防災マップが各家庭に配布された。
新たに作成され、ホームページで公開された大規模噴火(噴火警戒レベル4・5相当)のハザードマップは次のようなものであり、少なからず関係地域住民に衝撃を与えたようである。図で、濃い赤の部分は「火砕流」の到達範囲を示し、その周囲の淡い赤の部分は、「火災サージ」(火山ガスを主体とする希薄な流れ)の到達範囲を示している。
浅間山、大規模噴火時のハザードマップ(軽井沢町公式HPより)
浅間山では、1933年に東京大学地震研究所の浅間火山観測所が開設し、以来観測網を整備しつつ、監視活動を継続しているが、今のところ大噴火につながる兆候は見られておらず、ハザードマップの利用についても、私の住む軽井沢町では個々の家庭に実態を周知し、避難場所情報の提供などが行われているレベルであり、ヴェスヴィオ山のような緊迫した状況にはない。
一方、桜島には1950年に京都大学の桜島火山観測所が設置され、監視活動を行ってきている。鹿児島市では「一人の死者も出さないために」というスローガンを掲げて、桜島を中心とした避難訓練も、大正大噴火発生日に因んだ毎年1月12日に桜島の噴火を想定して行われている。この訓練には桜島フェリー等の船舶や海上保安庁の巡視船艇による海上脱出訓練等が含まれているという。
桜島のハザードマップ
ちょうどこの原稿を書いている最中、2019年8月7日の22時10分頃に、軽井沢町の広報放送が流れ、浅間山の噴火を伝えた。同時に、気象庁発表の鬼押出しのカメラ映像がネットを通じて発表されたが、火口からまっすぐに吹き上がる噴煙が映し出されていた。また、これを受けて浅間山の噴火警戒レベルは従来の1から3に引き上げられた。これにより、火口から4km以内への入山は規制されることになる。また、今回の浅間山噴火は従来とは異なり、前兆を捉えることができなかったと気象庁は発表している。
気象庁発表(2019.8.7 22:09:55)の鬼押出しのカメラ映像
一夜明けた今朝の浅間山は元の状態に戻っており、噴煙は見られなかった。
南軽井沢から見た小噴火後の浅間山(2019.8.8 5:46 撮影)
御嶽山や草津白根山の例を引くまでもなく、いつ起きるか判らない火山噴火であるが、最新の情報を基にした被害想定と対応計画の策定や、常日頃の訓練がやはり重要なのだと改めて感じさせられる。
今回は浅間山と桜島という、日本の2大火山の噴火の歴史と、2地域における現代の防災対策について見ておこうと思う。桜島を加えたのは、前回紹介したように、鹿児島市とナポリ市が姉妹都市提携をしていることによる。
ヴェスヴィオ山、浅間山、桜島の3火山を中心に、過去の火山噴火規模を、前回紹介したVEI基準で分類すると次のようである。尚、発生頻度と過去1万年間の発生回数は、全地球規模の数字で、この3火山についてのものではない。
VEIで分類したヴェスヴィオ山、浅間山、桜島などの噴火の歴史
小山教授も前記著書の中でヴェスヴィオ山と浅間山の類似性を指摘しているが、79年のヴェスヴィオ山と2.4万年前の浅間山の噴火はほぼ同規模と考えられている。1108年の浅間山の天仁の噴火は、2.4万年前と同じVEI区分「5」にあるが、噴火の規模はその約1/3である。また1783年の天明噴火は、さらにその1/2で、79年のヴェスヴィオや2.4万年前の浅間の噴火規模と比べると約1/6ということになる。
ヴェスヴィオについては前回、小山教授の著書から、詳細を引用したが、今回は浅間山について、村井 勇著「浅間山」(2013年 浅間火山博物館発行)を参考に、過去の噴火と、それによる災害の発生状況を見ておこうと思う。
浅間山は、周知の通り日本で最も活発な活火山の1つであり、世界でも代表的な活火山で、標高2,568m、東西約15km、南北約35km、面積約50km^2(平方キロメートル)、体積約56km^3(立方キロメートル)の成層火山である。
浅間山は新旧の3つの火山体によって作り上げられており、その最も古い火山体は黒斑火山である。この黒斑火山は、標高2800mほどのほぼ完全な円錐形の火山であったが、約2.4万年前の噴火の際に火山錐の東半分が崩れ、その後さらに山体の東部が陥没し、そのあとに仏岩火山が形成された。さらにその上に一番新しい前掛山が成長した。以前、当ブログ「山体崩壊」(2017.4.28 公開)で紹介したが、改めて今回掲載の写真で書き直したものと、ヴェスヴィオ山とを比較してみると次のようである。
2.4万年前の噴火前の旧浅間山(黒斑火山)の姿の想像図
79年の噴火前のヴェスヴィオ山の姿の想像図
前掛火山の頂上部には、天仁の噴火(1108年)の際に陥没してできた大きなくぼみがあり、その中に成長した中央火口丘の釜山の頂上に現在の噴火口がある。
黒斑火山の活動の末期(2.4万年前)に起きた大規模な噴火は山体の崩壊を伴い、南は現在の佐久市、軽井沢町、北は長野原町に岩塊や土砂が流れ、小丘状の流れ山を作っている。南軽井沢では岩屑なだれの堆積物により湯川がせき止められ、湖沼ができた。
岩屑なだれは北の吾妻川に流れ込み、さらに泥流となって下流を襲い、中之条盆地では30m~40mも河床が上昇し、利根川合流点付近でも40mの河床上昇があった。前橋付近まで流れて土砂を15mも堆積させた。現在の前橋市街はこの体積土砂の上にある。
南麓では岩屑なだれが佐久平で千曲川に入って泥流が発生し、上田盆地にまで達して厚い堆積層を残した。
これに次いで起きた、有史以来の記録に残る最初の噴火は、嘉承三年/天仁元年(1108年9月)の、現在の火山体である前掛火山の噴火であった。噴火は8月下旬から10月にかけて発生し、最初はブルカノ式爆発的噴火で始まった。初めは主に火山灰を降らせたが、やがて噴火の勢いが激しくなり、軽石を噴きだし、続いて莫大な量のスコリア(暗色の多孔質塊)、軽石、火山灰が噴出した。現在でも中腹の峰の茶屋付近では2mのスコリア、火山灰の層が見られるという。
8月30日頃に莫大な量のスコリア質の岩塊と火山灰が一度に火口から噴き出され、一団となって火砕流を形成し、山腹を流れ下って、南側と北側の山麓に広がった。火砕流は南麓の御代田町東半分から軽井沢町追分付近の湯川までに達し、北麓でも山麓一帯に広がり、大笹付近で吾妻川に達した。その面積は80平方km、体積0.6立方km、平均の厚さ8mほどになった。この火砕流は追分火砕流・嬬恋火砕流と呼ばれ、キャベツのような形の火山弾状の本質火山岩片(浅間石)を含むことが特徴である。
南麓では御代田町から軽井沢町にかけての広い地域が火砕流堆積物により完全に埋没してしまった。軽井沢付近から碓氷峠を通る東山道はこのために路線変更をしたと思われるという。
この噴火の総噴出量は1.0立方kmを超えると計算されている。
これに続く天明三年(1783年8月)の噴火は日本の災害史上最も重要な噴火で、噴出物の総量は0.5立方kmに達し、天仁噴火の半分ほど、1991年の雲仙普賢岳噴火の1.5倍ほどであった。この時の噴火による被害は主に群馬県側に集中した。特に鎌原火砕流・岩屑なだれの発生と、それに伴って起こった吾妻川と利根川の泥流による被害がほとんどすべてであった。一方長野県側では軽井沢宿が噴石の降下で家屋が潰れ、火災を起こし、噴石に当たった1~2名が死亡した。沓掛(中軽井沢)では泥流が発生したのみで、大きな被害はなかった。特に著しい被害をこうむったのは北側の鎌原集落で、100軒ほどの家があったが、全村が岩屑なだれの下に埋まってしまい、住民560~570人のうち477名が死亡し、93名が助かった。この岩屑なだれは、熱いガス雲を伴っていなかったため観音堂に駆け上った人は無事であったという。
全体での死者の数はいろいろな数字があげられているが、当時の幕府が派遣した根岸九郎左衛門の覚書によると、おそらく1,500名を少し超えるほどと考えられるとされる。
岩屑なだれに埋没した鎌原集落の発掘調査は1979年に浅間山麓埋没村総合調査会が組織され、本格的に進められた。これにより、3軒の潰れた家と多くのガラス製の鏡などの生活用品が発見され、30~40歳の女性の遺体も見つかっている。また、観音堂の前の石段が掘り下げられ、50段の石段が現れ、5.9mの最下部から2名の女性の遺体が発見されている。テスト・ピット調査の結果によると、鎌原地区での岩屑なだれ堆積物は厚いところで9m、薄いところで2~3mに達していた。
こうしたことから、鎌原村は日本のポンペイと呼ばれることがある。観音堂近くに建てられた「嬬恋郷土資料館」では天明の大噴火に関する資料の数々を見ることができ、また火山災害という共通の歴史を持つ事が縁でポンペイの噴火犠牲者の人型レプリカも展示されている。
多くの被災者を出した浅間山の天明の大噴火であるが、この噴火の影響は直接的なものだけに留まらなかった。この時代は世界的に火山活動が盛んであり、1766年フィリピンのマヨン、1772年ジャワのパパンダヤン、1775年グアテマラのパカヤが噴火し、大量の火山灰が上空高く吹き上げられた。浅間山の噴火と同じ年1783年6~8月にはアイスランドのラガキガル(アイスランド語、英名はラキ)でも有史以来世界最大級の噴火があった。吹き上げられた火山ガスと火山灰は成層圏に停滞して日照を妨げ、気象に大きな影響を及ぼす。中でも浅間山とラガキガルの噴火は特に規模が大きく、両者とも気候に対して同程度の影響があったとされる。この影響は全世界、特に北半球に及んで、気温低下が起こった。
ヨーロッパでは1783年から1784年の冬は平年より5℃も低下した。日本でも1783年から1787年にかけて冷夏が続いた。吾妻川や利根川沿いの村々では田畑に泥が入って使えなくなり、関東地方一帯の降灰が厚く覆った地域も耕作に大被害を受け、秋頃から飢饉が起こった。吾妻川の谷合の村々では多くの餓死者が出た。
降灰の被害を受けた群馬県だけではなく、東日本、特に奥羽地方一帯が凶作となり、破壊的な飢饉となった。東北地方だけで数十万人の餓死者が出、疫病の流行もあって、天明の飢饉による餓死者・病死者の総計は全国で100万人近いという途方もない結果を招いた。
次に桜島について見ておく。今年3月に九州旅行をした時に立ち寄った鹿児島市の仙厳園では、折から噴煙を上げる次の写真のような桜島を見ることができた。
仙厳園から見た噴煙を上げる桜島(2019.3.15 撮影)
桜島(さくらじま)は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77平方キロメートルの火山。かつては島であったが、1914年(大正3年)の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きとなった。
明治以前は2万以上であった島内の人口は、大正大噴火の影響によって9,000人以下に激減。その後も減少が続き、1985年(昭和60年)には約8,500人、2000年(平成12年)には約6,300人、2010年(平成22年)には約5,600人となっている。
約1.3万年前に発生した噴火によって噴出したテフラ(火山灰)で、火砕物の総体積は11立方kmに及び、2.6万年前〜現在までにおける桜島火山最大の活動であったとされている。VEIは6。他の桜島火山起源のテフラで火砕物噴出量が2立方kmを越えるイベントはないので、桜島-薩摩テフラは他のテフラとくらべ桁違いに大きい。この噴火によって、桜島の周囲10km以内ではベースサージが到達したほか、現在の鹿児島市付近で2m以上の火山灰が堆積しており、薩摩硫黄島などでも火山灰が確認されている。
有史以降の噴火としては、30回以上の噴火が記録に残されており、特に文明、安永、大正の3回が大きな噴火であった。
1471年(文明3年)9月12日に大噴火(VEI5)が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、死者多数の記録がある。
1779年(安永8年)11月7日の夕方から地震が頻発し、翌11月8日の朝から、井戸水が沸き立ったり海面が紫に変色したりするなどの異変が観察された。正午頃には南岳山頂付近で白煙が目撃されている。昼過ぎに桜島南部から大噴火が始まり、その直後に桜島北東部からも噴火が始まった。夕方には南側火口付近から火砕流が流れ下った。夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出し、江戸や長崎でも降灰があった。
11月9日には北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出が始まり、翌11月10日には海岸に達した(安永溶岩)。翌年1780年(安永9年)8月6日には桜島北東海上で海底噴火が発生、続いて1781年(安永10年)4月11日にもほぼ同じ場所で海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。一連の海底火山活動によって桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が形成され安永諸島と名付けられた。島々のうちいくつかは間もなく水没したり、隣接する島と結合したりして、『薩藩名勝志』には八番島までが記されているという。死者は150人を超えたが、最も大きい燃島(現・新島)には1800年(寛政12年)から人が住むようになった。
噴火後に鹿児島湾北部沿岸の海水面が1.5–1.8 m上昇したという記録があり、噴火に伴う地盤の沈降が起きたと考えられている。一連の火山活動による噴出物量は溶岩が約1.7立方km、軽石が約0.4立方kmにのぼった。VEIは4。薩摩藩の報告によると死者153名、農業被害は石高換算で合計2万3千石以上になった。
1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。流出した溶岩の体積は約1.5立方km、溶岩に覆われた面積は約9.2平方km、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m、最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。この時の噴火はプリニー式噴火であり、火山爆発指数4、被害は死者58、傷者112、焼失家屋2,268であった。
桜島の黒神集落にあった鳥居は、1914年噴火で上部をわずかに残し約2mの噴石や火山灰に埋もれてしまい、埋没鳥居として残されている。
ここで、ヴェスヴィオ山、浅間山、桜島とその周辺の都市の位置関係を見ておくと次のようである。
ヴェスヴィオ山と周辺の都市
浅間山と周辺の都市
桜島と周辺の都市
さて、ヴェスヴィオ山では、地質学者協会会長のフランセスコ・ルッソ氏による『今後100年間に大噴火が起きる可能性は27%』との予測に基づいて各種防災対策がとられていることを前回紹介したが、日本ではどうか。
日本には、北方領土を含めると111の活火山があり、その内50の火山では24時間体制で監視が行われている(常時観測火山、気象庁資料による)。そのうち13の火山がAランク(気象庁ではこの分類は用いていない)に位置付けられているが、その中に浅間山と桜島が含まれている。
浅間山では、以前から防災マップが作られていた。ここには最近100年間に発生した小~中規模噴火の場合と、天明噴火(1783年)の場合を想定した「火山ハザードマップ」が記されている。この場合、噴火により火口から噴出した高温の岩塊や火山灰、軽石などが高温のガスと混合し、それらが一体となり地表を流下する「火砕流」だけではなく、これに加えて、冬期間、山頂付近で雪が積もっている時期に中規模の噴火をし、火砕流が発生した場合、この火砕流により雪が解け、土砂や火山灰と一緒になり、斜面を高速で流れ下る「融雪型火山泥流」のシミュレーション結果が公表されていた。
これに加え、過去に発生した大規模噴火と同等の噴火に備え、避難計画等の策定を進めるため、大規模噴火を想定したハザードマップが検討された。浅間山火山防災協議会に県、市町村、関係庁など19機関により構成された専門部会が設置され、平成28年10月18日~平成30年3月31日の期間をかけて、ハザードマップを新たに作成するとともに、平成15年に作成した小~中規模ハザードマップをわかりやすくするため、一部改訂が行われた。
この結果は、関連する県、市町村からホームページなどを通じて発表されることとなったが、軽井沢町では2018年6月1日に公表されている。また、2019年7月初旬にはこの新たな内容を盛り込んだ浅間山火山防災マップが各家庭に配布された。
新たに作成され、ホームページで公開された大規模噴火(噴火警戒レベル4・5相当)のハザードマップは次のようなものであり、少なからず関係地域住民に衝撃を与えたようである。図で、濃い赤の部分は「火砕流」の到達範囲を示し、その周囲の淡い赤の部分は、「火災サージ」(火山ガスを主体とする希薄な流れ)の到達範囲を示している。
浅間山、大規模噴火時のハザードマップ(軽井沢町公式HPより)
浅間山では、1933年に東京大学地震研究所の浅間火山観測所が開設し、以来観測網を整備しつつ、監視活動を継続しているが、今のところ大噴火につながる兆候は見られておらず、ハザードマップの利用についても、私の住む軽井沢町では個々の家庭に実態を周知し、避難場所情報の提供などが行われているレベルであり、ヴェスヴィオ山のような緊迫した状況にはない。
一方、桜島には1950年に京都大学の桜島火山観測所が設置され、監視活動を行ってきている。鹿児島市では「一人の死者も出さないために」というスローガンを掲げて、桜島を中心とした避難訓練も、大正大噴火発生日に因んだ毎年1月12日に桜島の噴火を想定して行われている。この訓練には桜島フェリー等の船舶や海上保安庁の巡視船艇による海上脱出訓練等が含まれているという。
桜島のハザードマップ
ちょうどこの原稿を書いている最中、2019年8月7日の22時10分頃に、軽井沢町の広報放送が流れ、浅間山の噴火を伝えた。同時に、気象庁発表の鬼押出しのカメラ映像がネットを通じて発表されたが、火口からまっすぐに吹き上がる噴煙が映し出されていた。また、これを受けて浅間山の噴火警戒レベルは従来の1から3に引き上げられた。これにより、火口から4km以内への入山は規制されることになる。また、今回の浅間山噴火は従来とは異なり、前兆を捉えることができなかったと気象庁は発表している。
気象庁発表(2019.8.7 22:09:55)の鬼押出しのカメラ映像
一夜明けた今朝の浅間山は元の状態に戻っており、噴煙は見られなかった。
南軽井沢から見た小噴火後の浅間山(2019.8.8 5:46 撮影)
御嶽山や草津白根山の例を引くまでもなく、いつ起きるか判らない火山噴火であるが、最新の情報を基にした被害想定と対応計画の策定や、常日頃の訓練がやはり重要なのだと改めて感じさせられる。
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