すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

ブロガーが陽の目を見るって大変だ

2007-11-12 10:06:38 | メディア論
 前回は、おもしろいものを書く人はすでに参入し終わってるぞ幻想について書いた。実際、ブログ界ってまだ未開拓な要素が多い。「ブログは終わった」なんて鬼が笑うぞ。

 だいいちまだ始めてない人がいる一方、おもしろい文章を書いてんのに発掘されてない人もたくさんいる。

 ここ数日、ブログ論をやってる未知のエントリをはしごしてるんだけど……。「なぜこんな面白いのに1ブクマなんだ?」とか、いい記事だなあと思うと「うちの訪問者はせいぜい日に数十人だ」なんて書いてる人が山のようにいる。

 Googleみたいな検索サイトや「はてなブックマーク」に代表されるソーシャル・ブックマーク、ニュースサイト、人気ランキングサイトなど、知の集約化や発掘をするシステムはここ数年で格段にふえた。だけどまだまだ拾い切れてないのだ。

 だいいちソーシャル・ブックマークなんて、はてブ以外は機能してない感じだ。ブクマしてるユーザが1人や2人の記事がズラーッと並んでるだけ。はてブは技術系のネタが多いんで「もっと文系のとこはないかなあ」と随時のぞいてみるが、まだサービスが育ってない気がする。

 てか自分で書く以外にSBMやろうなんて人は、実は少ないのかも? アーリーアダプタまでと、せいぜいアーリーマジョリティの中でもちょい尖がった人だけとか? どうなんだこれ。

 発掘の問題は、手当たり次第に見て回るって人力じゃ解決できない。やっぱりシステム論や技術論になるんだろう。私はそのへんあんまり興味ないんで、今日はこれにて撤退します。はてブは衆愚化なんてしてるヒマないぞ、もっと働け、って感じ。

【本日の結論】

「ブログは限界」「終わった」んじゃなく、現状まだ発掘するためのシステムがブログ人口の爆発に追いついてない。そんだけネットは広いんだよ。どうすんのこれ?

【関連エントリ】

『ブログ祭りが終わり、僕らは日常へ帰った』

『みんなが書くことについてマジメに考える時代』

『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』

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ブログ祭りが終わり、僕らは日常へ帰った

2007-11-10 23:57:36 | メディア論
 あれは祭りだった。

 え? 僕が今どうしてるかって? 日常へ帰っただけさ。

            (1947年夏、ジェームズ・ブロゴスフィア)

 なんかボーガスニュースみたいな始まり方だな(主幹さん、怒ってないよね?)。ええと、リンクをあれこれたどりながら、「ブログはもう山を越えた。下り坂だ」みたいな議論をボーッと数日ながめてた。すると愛・蔵太さんのコメント欄で、おもしろい意見を見つけた。

 エントリ自体は確かリアルタイムで読んだと思うが、コメントはなぜか記憶になかった。してみると一度読んだエントリを再読するって、けっこう有意義かもしれない。さて本題だ。Tigerさんなる方のコメントである。

読んでておもしろい人って、そもそも、そんな沢山いるものか、と思うわけで、初期の頃はその密度がやはり高かったのではないかと思うのです。

しかし、今は、云い方は悪いですが「たいしておもしろくもない沢山の人々の『それこそ普通の』ブログ」^^; がわらわらわらと出てきていて、その中で、キラリキラリと光るブログがごくごくたまにいくつかあるという、いわば、日常の状態になりつつある、というように思います。

それを終わったと云うならそうかもしれませんが、正確には、終わりを迎えつつあるのは「祭り」で、その後には、長い「日常」の始まりがあるのだと思います。

●愛・蔵太の少し調べて書く日記『ヤバい、というかブログ全体がもうヤバい』コメント欄より


 考えてみたらブログ・ブームだったんだから、確かに祭りだ。だけどこのコメントの場合、「祭りと日常」という組曲で攻めたのがキモである。

 もうひとつ「祭りと日常」って、生活に密着した昔からあるふつうの言葉だ。であるがゆえに批評した対象の現象が、リアリティをもって感じられた。

 自分を大きく見せたがる学者や評論家は「ハレ」なんていう手アカ系の言葉を使いたがるが、ふつうっぽい日常語で表現したのがよかった。座布団三枚である。

■面白いものを書く人は全員ブログを始めてるぞ幻想

 さてここからは私自身の深読みなのだが、実際の図式はこんなにわかりやすくはないだろう(もちろん一面は鋭く突いているが)。

 どうゆうことか?

「ブログ(ブーム)は終わった」みたいな議論がされるときって、論者はたいてい面白いものを書く人はすでに参入し終わっているというのを前提にしてる。だけどホントにそうだろうか?

 そうじゃないと仮定した場合、少なくとも2種類の人間(ブロガー予備軍)が想定できる。

 タイプ1は、仕事で文章を書いてる人たちだ。彼らはふだん書くことで収入を得てるから、「お金にならないのになぜブログなんか書くの?」って考える。(私も以前はそうだった)

 この種の人は往々にして、書くだけじゃなく書いたものを元にコミュニケーションするのが面白いんだってのがわかってない。(私も以前はわかってなかった)

 たとえば紙の媒体に書いてると、情報はほとんど一方通行だ。読み手の顔が見えないし、見えてないくせにステレオタイプの読者像を想定してたりする。彼らに伝わる読み手の反応はせいぜいこんなふうだ。

「自分の本が○万部売れたなあ。きっとおもしろいと思ってもらえたんだなあ」

「自分が書いた雑誌『○○』の11月号が売れたらしい。ひょっとしたらオレの原稿がウケたのか?(思い込み)」

 売れた、売れないの単純な反応ばかり。「あなたの原稿はここがこう面白かったよ」とか、「あそこがイマイチだった」的な情報はフィードバックされない。しかもネットとちがってリアルタイムじゃなく、数字が出るまでにはタイムラグがある。

 彼らはある意味、虚像に向かって書いているのだ。だから実像を相手に書くおもしろさに気づけば、ブログにハマる可能性は高い。もちろん彼ら全員が、おもしろいものを書く人ばかりであるはずはないんだけれども。

■「ブームにゃ乗らないぞ症候群」の人はまだ書いてない

 かたやタイプ2は、「人と同じことをするのが大きらいだ」って人だ。このテの人は個が確立しており、自分をもっている。だからマスコミが寄ってたかって取り上げるモノやコト(つまりブーム)を見ると、拒否反応を起こす。死んでもブームになんか乗るもんか、って層だ。

「ほう、そうか。ブログなるものが流行ってるのか。じゃあおれは死んでも書かないぞ」

 人と同じになりたくない。埋没したくない。だからわざと逆のことをやっちゃったりする。このテの人もまだ参入してない可能性がある。彼らは強い個をもってるから、視点がハッキリしている。「オレはこうだ」、「こう思う」的な個性や主張のあるものを書く確率が高い。

 こんなふうにまだ潜在層がいるのだ。気が向いたら続編を書いて「まだこんなやつも残ってるぞ!」ってやるかもしれんが、今日はもう疲れたんで寝るわ。

 いや寝ない。まだ全部書き終わってないんだ。
 
 しかもアーリーアダプタ(早い時期に新しいものを取り入れる人)って、私のイメージでは新しいものをおもしろがりはするが、キャラ的に飽きっぽい感じだ。気がつくともう次の新しいものに行ってる、みたいなところがある。なら発掘はしても、カルチャーとして熟成させる機能は果たすのかなあ、てな疑問もわく。

 だとすればアーリーアダプタの一部が飽きてブログをやめちゃってても、もう大勢に影響ないんじゃないの? むしろタイプ2みたいな人のほうが、定着させ、発展させるには向いてるはずだ。

 そもそも文章を書くって行為は、3年や4年で終わったり始まったりするもんじゃない。スパンが短すぎる。そんなのは社会現象をこれすべて、ブームの構造でしか見られない人の言説だ。

 その典型が、ネタのほしいマスコミやマーケッターであり、短サイクルで「次」が来ないと買い替え需要で儲け損ねる業界人なのだ。「○○は終わった」とか言ってる人は、すでに彼らに洗脳されてる可能性があるぞ。あぶないぞ。だいいち私を見ろ。20年も書いてんのにまだ修行中だぞ。(ああそれ才能がないのか)

 いやそれはともかく。

 狂騒的な祭りは終わったけど、熟成させるための日常はむしろこれから始まるんじゃないの?
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CGMは集合知を発信するツールである(くどいけど反論)

2007-08-19 13:05:21 | メディア論
 おとといの夜、東京へ帰ってきました。南の国へ優雅に夏休みのバカンス(笑)に出かけてる間に、集合知についていろんな「お手紙」をいただいたようだ。

 夏休みだし、次は「人生スルー」系とか生き方関連のエントリを連発したいって思ってたんだけど……まあいいや。ここ何回かは寄せられたお便り群への反応エントリとさせていただく。

 まずブログ「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」さんのエントリ『「実名匿名論争」のその後』である。

 筆者のmb101boldさんは、バランス感覚のある客観的な視点と筆致が特徴だ。私が言いたいこと、および私に反論されている方々の主張を、私よりうまくまとめられている。このエントリに反応しておけば、おおよそ他の反論エントリへのお返事にもなりそうだ。

 なので私が提示する反証の第一回目は、mb101boldさん方面から書き始めることにしよう。

■実名制度は水戸黄門の印籠か?

『CONCORDE』のTristarさんが言うとおり(参照)、ブログは娯楽の領域に入っているんだと思うんですね。そういう人が大多数の場合、より精度や質の高い論議を守るために、実名化を制度化するとなると、少数の利益のために大多数が不利益を被ることになるんですね。だから、匿名の害悪をデフォルメせざるを得ないのかな。

●ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね):『「実名匿名論争」のその後』(以下、同)


 同意できるご意見だ。ただし一点、少しちがうと思うポイントもある。それは弁護士・小倉秀夫さんらが主張されている実名制度をもってしても、「より精度や質の高い論議を守る」ことができるのか? が不透明な点である。

 ゆえに、「彼らがそれによって『質の高い議論が可能になる』と考えている実名制度を導入しようとすると」みたいな書き方のほうが正確かもしれない。

 加えてインターネットの実名化は、メリットよりむしろデメリットのほうが大きいと私は考えている。繰り返しになるので、その理由については文末にあげた過去の「関連エントリ」を参照してください>読者のみなさん。

■小倉さんはSNSの活用やコメント欄の閉鎖に否定的だ

要は、Tristarさんは、匿名さんと一緒にいるのが嫌な人は、じゃあ、自分たちの場所を別に作ったらいいんじゃないですか、ネットの空間は無限だし、SNSとかもあるし、ということだと思うんですね。それよりも、学会の活性化を行えばいいじゃん、と思います。その誤解がちょっと生まれているのが、残念かなあ、と思います。


 この点については後日、Tristarさんへの反論エントリで書こうと思うが少しだけふれておく。

 私は基本的に小倉さんのご意見へのアンチテーゼとして、一連のエントリを書いている。でなければ議論にならないからだ。

 で、(Tristarさんのお考えとは関係なく)当の小倉さんはSNSを否定されている。またコメント欄を閉じる手法も支持されていない。これらは小倉さんと、えっけんさんとの質疑応答ですでに明らかになっている。

 つまり小倉さんはSNSの活用やコメント欄閉鎖などの空間の閉域化を行わず、かつ、そのオープンな空間から匿名者を排除したいとお考えだ。なのでTristarさんが個人的にSNSの活用をイメージされていたとしても、それは小倉さんへの対案にはならない。

 もっとも個人的には、小倉さん的な発想の方はご自分がSNSに閉じこもるなり、何らかのアクセス制限をかけるなりするのが筋だと私は思う。

 だけど小倉さん個人はそうするつもりはないようだし、また世の中にそれらの対策を呼びかける意思もお持ちになっていない。

 つまりオレは自分でできる対策はいっさい取らない。だからお前らは言葉を発するな。匿名の人間はみんな実名で書けってことなわけ。

 でもさあ、これって車の両輪じゃないの? 自分でできる対策と、(実名化に限らず)それ以外の社会的な対策は同時にやんなきゃだめでしょう。で、私は一連のエントリにおいて、このご意見に対する反論をしているわけだ。

 ※mb101boldさんのおかげで、かなり論点が整理できました。

■集合知の概念ってそんなにわかりにくいかなあ?

 またmb101boldさんは、こうもお書きになっている。

「集合知」というネーミングが誤解を与えるのかなあ。それは、「みんなの意見(集合知)」と書き直されていたので、もしかすると松岡さんは気づかれているのかもしれないですが。集合知、質が高い、専門性、アカデミズム、みたいな連想になりますが、この「実名匿名論争」も「集合知」のひとつですよね。W-ZERO3[es]というウィルコム端末があるのですが、この本質的に不完全なスマートフォンをよってたかって素晴らしい端末に変えてしまったのは、ネットにいる有名無名人たちです。これも立派な「集合知」だと思うんですわ。


 前段については、「もしかすると」じゃなくその通りです。

 実際、ブログ「幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする」さんが7月31日にお書きになったエントリ『インターネットはローカル現実と違うリアリティを目指した方が良いよね』の次のくだりを読み、「ああ、そういう誤読のしかたもありえるのか」とは感じていた。

「集合知」って単語だけを聞くと「世界中の天才の知性を集結!」的なファンタジーを思い浮かべがちで、小倉センセイ辺りは松岡さんの説明だけだと誤解しちゃうんじゃないかと思ったり。


 集合知って概念はもう常識だと思ってたんで、私は当初よけいな説明を省いた。私の文章はただでさえ長文になりがちなので、読みやすく整理するためだ。ところが上記のご指摘を読み、何も知らない方にもわかる書き方をしなきゃダメだなと考えた。

 そこで私はその後に書いたエントリ『みんなの意見(集合知)が正しい場合と、そうでない場合』の中で、かなりわかりやすく集合知について再説明したつもりだ。

 また客観性を持たせるために、いくつかの参考文献もあげている。ところが小倉さんとTristarさんのその後のエントリを読む限り、お二方は依然として集合知なる概念・定義を誤解されているようである。

 だけどこれ以上の説明を加えるのもくどいし、なによりmb101boldさんが上記の後段で一発回答されている。なのでそれにからめてもう一度だけ、集合知について以下の通り補足しておく。

----------------------------------------------
 CGMから生み出される集合知が有効に機能するための要件は、多様性や独立性など前々回のエントリで説明した通りだ。また広い意味では、CGMによって総体としてなされる意思決定や作られるトレンド、世論など、思考のありようやそのメカニズム自体も集合知だと個人的には思っている。ただし、もちろんそれらが常に正しいとは限らない
----------------------------------------------

■「匿名で書くか、実名で書くか」は他人が判断すべきことか?

 一方、mb101boldさんの次の主張もうなずける。

実名の人から、おまえら匿名で卑怯だと言われると、まあ、少しばかり後ろめたいとこあるから、うーん、となるんですが、私は本業が広告屋でいま午前4時30分で、一仕事終えてから「実名匿名論争」という仕事に何の関係もないことをつらつら書いているわけで、実名でやってるとおまえ仕事中途半端にして何をしてるんだ、と言われそうですよね。それが匿名だと、気楽に書けると。別に、私個人は別人格でこれを書いてるわけではなくて、匿名が与えてくれるこんな自由は認めてくれてもいいんじゃないですか、と思うのですがねえ。


 おっしゃる通りだ。実際、私も2005年4月1日に書いたエントリその他で、実名でブログを運営することの窮屈感について以下の通り言及している。

おい、仕事の原稿たまってんのに、こんなん書いててどうするんだよ? 編集者様もこれ見てるぞやばいぞ、おまい。

『ほりえもんで読み解く「ブログはアウトサイダー」か?』


 私は実名なので、仕事の締め切りをシカトしてブログを書けない。それどころかコメント欄に応えることすら不可能だ。「松岡さんは仕事の原稿が1日遅れてるのに、ブログなんか書いてるッ」ってなっちゃうからだ。

 いや私の個人的な事情が主題なんじゃなく、一般論として実名で書くといろんな縛りがかかりますよって話だ。

 かといって私は別にだから匿名のほうが優れてるとも言わないし、逆にもちろんネット全体を実名化しよう。実名以外のヤツは書くななんてことを言うつもりもない。

 匿名で書くか? 実名で書くか? んなこた、各自が勝手に判断すりゃいいことなんだから。

■その昔、ネット上には「公益」なる概念があった

 さてその他の方々への問題提起や反論は、別途、次回以降のエントリで書くつもりだ。

「おいおいまだ続くのかよ」と思わないでもない。けど、こりゃ徹底的に論点をあぶり出し、みなさんに提示しておいたほうが公益にかなうかな? って気がしてきたのだ。

 そのほうが勝ち負けにこだわりがちな論争の当事者以外(読者のみなさん)の判断材料になる。また、なによりこの論争を読まれている第三者の方々がネットを使う上で、何かしらのメリットになるかもしれない。

 なんでかって? いや、このテの質疑応答やら問題提起自体がコレすべて、みーんな集合知なんだからね。

(こう書くとまた誤読されるのかなあ。ポリポリ)

【関連エントリ】

『みんなの意見(集合知)が正しい場合と、そうでない場合』

『実名制度は集合知の多様性を奪うか?』

『インターネットの「リアル世界化」は正解か?』

『誰のための実名制か? ~小倉さんへの擁護が説得力を持たない理由』
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みんなの意見(集合知)が正しい場合と、そうでない場合

2007-08-08 16:51:36 | メディア論
 ブログ「CONCORDE」のTristarさんと、弁護士の小倉秀夫さんからトラックバックをいただいた。お二方とも集合知に疑問をお持ちのようだ。そこで寄せられたご意見をもとに、集合知について概観してみよう。

■集合知が機能するためには多様性や独立性が大切だ

 結論を先に言えば、集合知がうまく機能するには条件がある。集まった個が多様であること、また彼らが他人に影響されない独立性を保っているか? などの要素により、集合知が有効に働く場合とそうでない場合があるってことだ。

 まず議論の前提をはっきりさせるために、集合知の定義を確認しよう。わかりやすい参考文献をあげておくので、ご一読願いたい。

『Web2.0と集合知』(Much Ado about Web ウェブのから騒ぎ)
『多様化する個を集めて新しい価値を生み出す「Wisdom of Crowds」』(伊藤直也の「アルファギークのブックマーク」)
『The Wisdom of Crowds: Why the Many Are Smarter Than the Few and How Collective Wisdom Shapes Business,Economies, Societies and Nations』(H-Yamaguchi.net)

 ではTristarさんのご意見から見て行こう。

「ネットのオープンさ」に対してなのか、「ブログ」に対してなのか、
ともかくそれらに過剰に期待しすぎてはいませんか。

『現実世界へのメリットや有益有能が前提なら、それ専用の場でするのが効率的だと思うよ、という図示』(CONCORDE)


 いや別に過剰な期待などしていない。私は前々回のエントリで、国家が戦争を回避するケースや会社の売上高を予測するケースを例に取り、集合知が有効に機能した場合の説明をしている。

 文中で私は、多様性が重要なポイントだと書いた。また売上高予測の項では、逆に多様性がなく、集合知が適切に働かないケースについても触れている。「集合知は常に有効だ」とか、「必ず正しい」なんていう極論は書いてない。

 加えて私は以前、ネットに過剰に期待しすぎると「参加型ジャーナリズム」はどうダメになるか? さらには人々の集団が衆愚に陥る危険性についても言及している。次のエントリをお読み願いたい。

 ●『質を問わない「参加型ジャーナリズム」って意味あるの?』
 ●『参加型ジャーナリズムと「衆愚」のあやうい関係』

 つまり意図(集合知がうまく機能する場合)と逆の結果が出る可能性を常に考えながら、頭の中でバランスを取るのが大事だってことだ。そうすれば「自分の考えはいつも正しい」みたいな愚を犯さずにすむ。

 だからこそ私はメディアリテラシーが大切だと書いているし、

 ●『ほりえもんに見るメディアリテラシーの憂鬱』

 なぜブログ界に多様性が必要なのか? についても次のエントリでふれている。

 ●『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』

■Googleは集合知を集約しフィルタリングするシステムだ

 さて、結論としてTristarさんはこうお書きになっている。

実名匿名どっちにしたって才能を生かしたエントリー・有益な文章が前提なのであれば、実名匿名のメリットデメリットに話が矮小化されてまとめられつつある件について。(2007.07)より再掲しますが:『我は「玉石の玉なり」と信ずる者たちの"ゲーテッド・コミュニティ"』のなかで発信/コミュニケーションを行えばメリットを得るにしろ"集合知"の醸成にしろはるかに効率的ではないのでしょうか?


 いや現にGoogleは、玉も石もあるネットの大海から、効率よく有益な情報をすくい上げている。

 Googleやソーシャルブックマーク、Wikipediaなどは、集合知を集約してうまく機能させるツールである。人々から得られた知識やものの見方をあれこれ比較し、よりよい結論を出すためのシステムだ。これらがあれば効率のよさは担保されるし、同時に多様性も維持できる。別に専門家だけが集まって何かをやる必要なんてないのだ。

■問題は「総体」として信頼性が高いかどうかだ

 じゃあ次は小倉さんのエントリに移ろう。

集合知が価値を持つためには、意見を発する「衆」の側に一定の能力と誠実さがあることが求められます。「おふざけ」を含めた邪な気持ちで発信される情報の割合が増えれば、集合知の価値はどんどん下落していきます。

『集合知の価値を維持するのは大変だ』(la_causette)


 もちろんすべての人間が能力や誠実さをもっているのが理想だ。だけどそんな世の中ってありえない。小倉さんの持論通り、ノイズは一定レベルで存在する。ではどうすればいいのか? 先に書いたように、Googleやソーシャルブックマークを使えばいいのだ。そうすればノイズをフィルタリングしながら、質的にも総体として一定水準をクリアできる。

 こんなふうに小倉さんは、部分を見て全体をジャッジしようとする。だけど問題は全体のほうではないだろうか?

例えばWikipediaですら、特定の人物に悪意を持つ者により執拗な「編集」が行われると、その内容は途端に実態を乖離したものとなります。Amazonのレビューでも、特定の人物に悪意を持った人々がその人物の著書について軒並み最低の評価点をつけることにより、その著書のレビューポイントを落とすことができます。

●同


 もちろん小倉さんが指摘しているようなケースは一部にはあるだろう。だけど問題は総体として信頼性が高いかどうか? である。

 ちなみにイギリスの科学雑誌「Nature」は、「Wikipediaの情報はブリタニカと同じくらい正確だ」という調査結果を出している。体感的にも同意できる分析だ。

 なにより小倉さんの極論メソッドで行けば、Googleの検索結果の10万位に「バカ!」「死ね」って出てきたからGoogleはダメだ、捨ててしまえ、って話になりますよ。小倉さん、Googleやめますか?

■スルーはノイズをフィルタリングするための民間療法だ

 で、小倉さんはこんなふうに結論づけている。

 そういう意味で、単純に「集合知は、束ねられた意見の数が多ければ多いほど価値が増す」と言ってしまっている松岡さんの「集合知」に対する理解には疑問を挟まざるを得ません。


 同じことを何度も書くことになってしまうが、これまで見てきた通りだ。数や多様性は集合知が成立する前提条件である。たくさん集まったせいでノイズが混入したら、あとからGoogle等でふるいにかければいい。

 その意味じゃスルーは、ノイズをフィルタリングするための自分でできる民間療法といえるだろう。

 逆に多様性がなく、意見がひとつやふたつしかなければ保険がきかない。それらの意見がまちがっていればおしまいだ。前々回のエントリで書いた通りである。

■ブクマする前に他人のコメントを読まないのは正解か?

 最後に小倉さんは文末で、こんな指摘をされている。

 さらにいえば、匿名さんは何をしても無責任でいられる環境では、匿名さんたちのお気に召さないであろう発言は回避されがちになり、結局、意見の多様性は奪われていきます。実際、匿名さんに牛耳られている場所では、匿名さんたちから「空気を読む」ことを強要されることもあって、しばしば、既存メディア以上に意見の多様性に乏しかったりします。


 もちろんこれはありえる話だ。集合知が成立する要件のひとつに、「参加者がほかの参加者の影響を受けず、たがいに独立していること」がある。小倉さんの言うような同調圧力が強ければ、確かに独立性は損なわれるだろう。

 また私は以前、エントリ『いきなりコメントを書いてブクマするか、他人のブクマコメントを読んでからはてブるか』で、次のように書いている。

 はてブるとき、私は自分にひとつの決まりを課している。それは他人のコメントを決して先に読まないことだ。まず自分のファースト・インプレッションをコメントに書き、ブクマする。それからおもむろに、同じ記事をブクマしている他人のコメントを読むのである。なぜそうするのか? 先に人の意見を聞いてしまうと、影響されて自分の視点がブレるからだ。


 これも意味は同じだ。他人のコメントを先に読むと感化され、独立性が失われる。その結果、集まった意見に多様性がなくなる。で、これを避けるため、他人のコメントを先に読まないようにするわけだ。

 だけどこれって集合知がうまく働く場合もあれば、そうでない場合もあるというだけの話である。だからといって集合知なんかダメだ、使えない、ってことにはならない。くれぐれもそのテの極論の愚には陥らないようにしたいものである。
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個室文化圏はネット上で成立するか?

2006-11-09 10:07:05 | メディア論
 ちょっと前にこんなことを書いてるmixiユーザを見かけた。

「最近、マイミク以外の『足あと』がふえてきた。すごく気持ち悪い。もう日記は、友だちだけに公開する設定に変えようかな」

 なぜこの人はすごく気持ち悪いのかが私にはわからなくてすごく気持ち悪い。

 自分がインターネット上にいるってことは、渋谷の交差点に立ってるのと同じだ。「渋谷には私の知らない人がたくさんいる。すごく気持ち悪い」と言われてもなぁ。

 まあそれだけインターネットの「個室化」が進んでる、ってことなんだろう。彼らにとっては、アクセス制限をかけた状態のほうが正常なのだ。私の感覚ではネット上に「団体席」とか「個室」があることのほうが驚きなのだが、今後はそれが普通になって行くのである。

「素通りは禁止だ。私のサイトに来た人は、必ず何か書き残せ」とか主張する人がいるのも、個室化のあらわれなのだろう。そんなめんどくさいサイトには行きたくないが。あと無断リンク禁止問題なんかも、個室化の副産物といえるかもしれない。 

 はやりの言葉で言えば文化圏のちがいだ。

 で、今後、ネットユーザは個室文化圏の人と公道文化圏の人とに分化して行くわけだが、これってめんどくさいよねえ。

 個人的には、人それぞれ考え方がちがって当たり前だと私は思っている。むしろ画一的なのより、そういう世の中のほうがおもしろい。

 だけどネット上での発言や行動は、究極的にはひとりごとでは終わらない。必ずどこかで他者とのコミュニケーションが発生する。

 そのときは結局、「あなたは個室文化圏のしきたりに違反している。従いなさい」みたいな話になるのだ。

 で、いちいち「いや私は文化圏がちがいますから」と説明したり、説明しても理解されずに軋轢が生まれたりする。

 うわぁー、考えただけでめんどくさいぞこれ。

【関連エントリ】

『インターネットをホントに「個室」だと思い込んだ人騒がせな実例』
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いきなりコメントを書いてブクマするか、他人のブクマコメントを読んでからはてブるか

2006-10-30 04:27:39 | メディア論
 はてブるとき、私は自分にひとつの決まりを課している。それは他人のコメントを決して先に読まないことだ。まず自分のファースト・インプレッションをコメントに書き、ブクマする。それからおもむろに、同じ記事をブクマしている他人のコメントを読むのである。なぜそうするのか? 先に人の意見を聞いてしまうと、影響されて自分の視点がブレるからだ。
 
 仮にこれを、はてブにおける松岡メソッドと名づけておく。さて松岡メソッドにはメリットもあればデメリットもある。まずメリットから分析していこう。

 ひとつめは冒頭にあげたように、他人の意見に左右されずに素の自分を引き出せることだ。

 たとえば読後の意見が分かれるような記事を読んだとしよう。あなたは直感的に「AはBである」と感じ、ぜひその考えをはてブっておこうと考えた。もしそのとき、同じ記事をすでにブクマしている他人のコメントを先に読んだとしたら? 

「ん? AはCであるって書いてるヤツがけっこういるなぁ。俺はA=Bだと思ったんだけど……よく考えたらAはCみたいな気もしてきたなあ。それでいくか。カタカタカタっ。AはCである、っと」

 これではあなたにしか書けないコメントは、決して書けない。常に大勢をうかがい、勝ちそうなほうにセコく賭けるという関が原の戦いにおける小早川秀秋のようなはてブりようになってしまう。

 あなたはそれでいいのだろうか? 本当に後悔しないといえるか? 男だったら(いや女でも)一世一代の生き様を、はてブの晴れ舞台に叩きつけるべきではないのだろうか?

 ああコーフンしてちょっと筆がすべった。またえっけんさんに「松岡さんたら、まーたゴーインなたとえを!!」とコメントされてしまうぞ。頭を切り替えて冷静に次へ行こう。

 他人のコメントを読まずにブクマする第二のメリットは、フタをあける瞬間がスリル満点になることである。

 まず自分のコメントを書いてブクマする。で、次にほかの人はどんなコメントつけてんだろうなあ? と、『このエントリーをブックマークしているユーザー』一覧を開くときのあの高揚感。ジェットコースターがじりじりと頂点まで登り切り、ガーッと落ち始める瞬間のような快楽がある。

 あーっ、みんな私と正反対のこと書いてるじゃないかっ!

 もちろんそんなケースはありえる。だがこれを「赤っ恥かいた」と捉えるのか、それとも自分と他人の思考形態のちがいを整理できたと考えるのとではえらい差だ。

 人とのちがいを認識することで、いままで気づかなかった自分が見えてくる。ちがいを材料にして自分の生かし方に気づいたり、あるいは逆に反省することだってあるだろう。

 そういえば俺って、こういう局面でいつもネガティブ思考にハマってるよなあ──。

 うわぁ。こんな自己顕示欲の出し方をすると痛いヤツだって思われるぞ。これからは気をつけよう──。

 そうか。人はこのとき「AはCである」と認識するのか。自分はいつもA=Bだと思っていたけど、これからはCの可能性も考えてみるようにしよう──。

 ……とまあ、ちがいから教えられることは多い。

 さて次はデメリットである。その代表格は、他人のコメントを読まずにブクマすると、コメント内容が思い切りかぶることがある点だ。(あとで書き直せばいいのだが、他人の意見に振り回されてるみたいでアレだし、みたいな話)

 たとえば自分の考えたポイントが大きく分けて3つあるとしよう。だがブクマコメントには100文字しか使えない。とすればポイントを絞る必要がある。仮にポイントAとポイントBは、すでにほかの人が書いているとしたら? それならポイントCについて書いたほうがいい。

 こうすればブクマコメントを他ユーザと共有したとき、総体としてより多くの論点をあぶり出すことができる。つまり公共の利益にかなうわけだ。

 もっともそんなことを考えてコメントするのが「正しい」のかどうかは知らない。ユーザたちのコメント内容が自然にポイントAに偏っていることで、世論のベクトルが浮かび上がるじゃないかという考え方もあるだろう。

 あるいはたとえ他人がすでに言及していたとしても、「俺がいちばん強く感じたのはポイントAなんだから」と思うならそれを書けばいい。要は人によってちがうってことだ。

 同様に他人のコメントを読まずにブクマするか、読んでからブクマするかは、どっちがいい悪いの問題じゃない。極端な話、記事そのものじゃなく人のブクマコメントを分析するためのコメントだってアリなわけだから。これまた人によるのである。

 つまりそれだけソーシャル・ブックマークなるものは、まだ使い方のセオリーやルールが固まってない新しい分野だってことなんだろう。

 最後に、今回のエントリを書くきっかけになったのは、aozora21さんのブログ「メモ」の次のくだりを読んだからだ。

自分は誰かのブクマコメントに左右されて考えるのをやめちまうようなことはしたくないなあと軽く決心してみたり。

『記事を読ませないブクマコメント?』
 この一節を読んだおかげで、「ああ、そういえば私はブクマする前に他人のコメントを読まないようにしてるなあ」と自分を発見し、それを言語化することができたのである。

 人間にとって読む、書く、という作業はすべて、一種の心理テストになっているのかもしれない。

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ジャンル別SNSの時代か? SNSでマンガを描いてプロになる3つの方法

2006-10-27 09:29:05 | メディア論
 mixiか? GREEか? と騒がれた第一次SNS戦争は、mixiの圧勝に終わった。で、今、にわかにホットになっているのが第二次SNSの乱である。

 SNSの第一期ブームは、mixiに代表される総合型SNS同士の覇権争いだった。「ウチに来れば何でもありますよ」てなデパートの縄張り争いだ。

 ところが今の第二期ブームはまるで様子がちがう。音楽やマンガ、ジョギング、医療と、特定のジャンルに絞った専門店型SNSが次々にオープンしているのだ。

 これらニューカマーをさらにカテゴライズすると、「プロのクリエイターを目指す」、「プロを育てる」という目的に特化した「新型SNS」という流れができつつある。

 たとえばインディーズバンドが自作の曲をSNSにアップロードし、みんなに聞いてもらう。すると固定ファンがついてアクセスが増え、人気が盛り上がり……やがてはプロデビュー、みたいなパターンだ。

 ただしこの形式のように個人が自分のSNSに作品を投稿するんじゃなく、はっきり「プロを育てる目的」で運営されてる商業的SNSに自作をアップロードする形態が登場してきた。

 そのマンガ版といえるのが、今回、仕事で取材した総合マンガ情報サイトの「マンガ読もっ!」である(注・現在はサービス終了)。ブロードバンドサイトの「RBB TODAY」さんから、お仕事のご依頼を頂き、取材して以下の記事を書いた。

◼️松岡美樹・連載(第7回)「時代を射抜くコンテンツの作り方」(RBB TODAY)

 ファンタジスタ「マンガ読もっ!」 ~SNS付きマンガ専門サイトが漫画家を発掘する~

 このサービスはSNSとマンガを投稿できるギャラリー、Wiki(マンガのデータベース)、ポータルの4本立てだが、会員の種別に「サークル」なるものがあり、コミケをパロってるところがおもしろい。

 振り返ればSNSの第二期ブーム初期には、「専門店型SNSが勝つのか? それとも結局はmixiなのか?」的な議論があった。

 ところが新しくオープンした各ジャンル別SNSのセグメントとユーザのライフスタイルを分析してみると、どうやらそうはなりそうにない。

 実はmixiと専門店型SNSは共存するのだ。というか、そもそも競合自体しない気配が出てきた。今回の取材では、そんな特化型SNSの最新事情を記事化している。(注・残念ながら本サービス終了のため私の当該記事も現在は削除済)。

 このネタを短くまとめると、同じ1人のユーザがマンガをあれこれやるときにはマンガのSNSを、その他もろもろのコミュニケーションをするにはmixiを使う、ってお話だ。

 もちろん1人の人間の活動量には限界がある。だから専門店型SNSをいくつも掛け持ちするのは考えにくい。ゆえに今後は「mixi+α」がSNS界の定番コースになるのだろう。

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藤田社長、YouTubeで耐震偽装をビデオ告発

2006-10-25 21:29:40 | メディア論
 私はまだ事実関係を抑えてないので言及できないが、YouTubeジャーナリズムの時代がきたことだけはまちがいない。

 ■第1回『藤田東吾1 耐震偽装を語り始める』(YouTube)

 およその経緯は、「blog channel」の下記の書き込みがわかりやすい。

303: 294 :2006/10/25(水) 05:38:24 ID:li98xLh00 ?2BP(1)

まとめ

イーホームズは建築物の建築確認・性能評価などを行う企業。そこが一連の耐震偽装問題の公表を国土交通省に対して行った。

そこの藤田社長が去年冬頃に新たな偽装を見つけ、朝日新聞の斎賀記者と共にそれを告発するが、国はこれについてはなぜか動こうとしなかった。

新たにわかった偽装マンションのいくつかを経営しているアパの元谷会長が、安倍晋三の後援会である、安晋会の副会長を務めていたことがわかる。

斎賀記者の謎の死
http://blog.so-net.ne.jp/spiraldragon/2006-10-21

同じ時期にイーホームズに立入捜査が入り、藤田社長も逮捕される。その罪は、確認検査機関としての指定を受けられるよう、資本金を約2300万円から約5000万円に増資したとする法人登記の変更を申請したが、実際には資金がなかったため、知人の司法書士から一時的に借り入れた資金などで増資を装い、虚偽の登記申請をした、というもの(http://www.egawashoko.com/c006/000197.html より)。
一連の耐震偽装問題とは全く関係がない。
これにより事務所にあったアパグループ等の資料はすべて押収される

10月18日、その判決が言い渡される。判決が言い渡された後、これらの新たな疑惑、偽装について多くのマスコミがいる中訴えるが、その内容自体についてはどのマスゴミもスルー。

判決が出るまで温存していたそれら全ての内容をきっこのブログを借りて訴える

自らがようつべに動画をUPするが音が小さくてよく聞き取れないぞゴルア←いまここ

 いま、まさにメディアリテラシーが問われている。みなさん、自分の頭で考えて自分で判断してほしい。

【関連動画】

第1巻『藤田東吾社長官邸直訴「警官集合!」』(YouTube)

第2巻『藤田東吾社長官邸直訴』(YouTube)

【ご参考】

『フェアではない』(江川紹子ジャーナル)

写真家・藤原新也氏サイト『朝日の様子がどうもおかしい』(Shinya talk)

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オーマイニュースが悩んでいるらしい

2006-10-25 00:33:07 | メディア論
 市民みんながアルファ・コメンテーターだ──。

 と編集部が考えていたかどうかは不明だが、オーマイニュースが悩んでいるらしい。記事のコメント欄にネガティブ・コメントが殺到し、市民記者のみなさんから「さまざまなご意見や苦情」が編集部に寄せられているそうである。

【ご意見募集】「この記事にひと言」欄について(OhmyNews編集部)
運用ルールの再検討を始めています


オーマイニュースは今、悩んでいます。「この記事にひと言」欄の最適な運営方法は何か、と。

そこで、市民記者とオピニオン会員のみなさんにご意見を伺おうと、この記事を掲載することにしました。
 コメント欄の運用に関してアイデアを募集するこの告知記事によれば、市民記者からはこんな泣き言、いや苦情がきているそうだ。

「誹謗中傷がひどすぎる。これでは議論にならない」

「『ひと言』欄を読むのが怖い。もう記事を書きたくない」

「このような誹謗中傷を書き込まれるなら、市民記者を辞めたい」

 だったら辞めればいいと思うが、まあ確かにコメント欄の問題はむずかしいものだ。同じネガティブ・コメントでも、正当な批判なら心して読むべきである。だが仮にコメントが100つけば、そのうち5つや6つはどう考えても面白半分でしかない煽りコメントが書き込まれるのが世の常だからだ。

 世の中にはいろんな人がいる。よって、このテのコメントを根絶しようったってどだい無理な話だ。

 そこで求められるのがスルー力である。

 心頭滅却すれば火もまた涼し。ひどい煽りコメントを目にしても、「ああ、隣の犬が鳴いてるなぁ」てなもんで軽く受け流す。インターネットを使って情報をやり取りする以上、いちいちノイズに反応してたらキリがない。

 作用があれば反作用がある。反作用の中には必ず一定の比率でノイズが含まれる──。これがニュートン力学以来の世の中の法則である。いわばコメント欄の問題は永遠のテーマみたいなものだ。

 オーマイニュースが今回の意見募集で、そんな難題にケリをつける画期的な最終兵器を考案したりすればおもしろいのだが。

 まさか……。

 みなさんとの有意義な議論の結果、コメント欄は閉鎖することに決定致しましたなんていうオチはなしでお願いしますよ。

【過去の関連エントリ】

『オーマイニュースは燃えているか? ~「誰でも参加」のドグマから抜け出せ』

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ブログジャーナリズムの時代がきた ──無断リンク問題・Yokoさんインタビュー

2006-10-19 21:21:30 | メディア論
 はてな界隈で時の人になっているYokoさん(tinycafeさん)に、チャットでインタビューした猛者が現れた。いい仕事するよなあ、この人は。つらつらとインタビュー記事を読むうちに、CGM(Consumer Generated Media)の可能性をつくづく思い知らされた。

『無断リンク問題で渦中のYokoさんとチャットで話した。その1』(Onlooker+beta)

 まずいちばん感じたのは、本人インタビューの威力だ。いままでは「強制義務とする!」的なゴーマン一本槍に感じられた人物像(イメージ)に、血が通い、肉がついて行く感じがする。これぞジャーナリズムのなせるわざだ。

 またインタビュアーであるUKさんが、まるで来談者(クライエント)中心療法(client-centered therapy)のカウンセラーみたいな応接の仕方をしていることも印象的だった。

 来談者中心療法というのは、まず相手に深く共感し、理解することからスタートする心理療法だ。同時にこれは、ジャーナリストが相手から「ここだけの話」を引き出すときのテクニックのひとつでもある。人間は自分に共感してくれる人物を前にすると、つい相手に打ち明け話をしたくなるものなのだ。

 それにしてもこのインタビューは、ブロガーが電突以外で裏取り取材をしたエポックメイキングな事例になるんじゃないだろうか。

 考えてみればチャットなら、自分や相手がどこにいようがインタビューできる。もちろん取材相手の本人確認をどうするのか? とか、そもそもこのインタビュー自体本物なのか?(かつ、それをどう証明するのか?)みたいな技術的問題は残るが、ブログジャーナリズムのひとつの形を示したといえるだろう。

 いやあ世の中は変わって行くんだなあ。おじさんはちょっとコーフンしちゃったよ。

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エントリ単位で読み捨てられるブロガーの悲哀

2006-10-18 06:58:26 | メディア論
「トップページ以外にリンクするな」というサイト管理人さんの主張のひとつに、自分のサイトがコンテンツ単位で読み捨てられてしまうからだ、てな物言いがある。しかしこれってどうなんだろうか?

 たとえば私が読み手だった場合を考えてみる。

 さあ、私はいきなりどこかのサイトのトップページ以外に降り立った。それがどこだかわからない。ここはいったいどこなんだ? まあとりあえず読んでみるか。

 てな感じで、着地点いったいを読み進む。で、「おお。この人のものの見方はユニークだな」と思ったら、すぐさまトップページへ移動して、サイト全体の品定めをする。

 しかるのちに価値アリと判断したら、RSSリーダ、または(ブログ以外ならば)お気に入りに登録する。反対に「つまらない」と思ったら、もちろんトップページになんぞ移動せず読み捨てる。

 結局、少なくとも私の場合は、トップページにリンクされていたかどうかと、コンテンツ単位で読み捨てるか否かはほとんど関係ない。要はリンクうんぬんじゃなく、その文章がおもしろいかどうか? なのである。

 特にブログはエントリ単位で読むものだ。ゆえにこの傾向はますます強くなるだろう。

 そもそも筆者の目論見通り、すべての読者がトップページに来たからといって、みんなが「1ページ目」から読み始めるとは限らない。パラパラとページをめくって各章のタイトルを一瞥し、「おもしろそうだな」と感じた第3章から読み始めるかもしれないじゃないか。

 いや私も芸術をたしなむ者の端くれとして、冒頭にあげたような管理人さんの気持ちもわからないではないのだ。

「私のサイトはすべてのコンテンツが相互作用を及ぼしながら、全体でひとつの作品になっている。自分はそこまで計算して作っているのだ。だからトップページ以外にリンクされたりすると、すでにそれは私の作品ではなくなってしまう。そんなことは私には耐えられない」

 こう考える人もいるんだろう。

 だけどここはリンクの集積でできているインターネットであり、しかもエントリ単位で独立しているブログなのだ。

 自分でインターネットとブログを選んでおきながら、「トップページへのリンクを強制義務とする」というのは……「沖縄の大自然が好きだ」と言って沖縄に移住しておきながら、「家にヤモリが毎日侵入してくる。気持ち悪くて気が狂いそうだ。県は私の家のヤモリ駆除を強制義務とする」などと言うようなもんじゃないか?

 だったら初めから鹿児島か高知あたりにしておけばいいのである。

 またはどうしてもヤモリが嫌いなら、そもそも自分は本当に大自然が好きなのかどうか、自分を疑ってみる必要があるだろう。

 ん? なんの話だっけこれ? ああ、つまり自分が選ぶべき道具は本当に、インターネットとブログでいいのか? って話だ。

 ただしついでに書くけど、かたや、はてブをネガティブな方向に使うってのも個人的にはあんまりいい感じがしない。理屈じゃなく感覚的にだ。まあブクマの使い方は人それぞれだから、少なくとも「私」はそういう使い方はしないよ、ってだけの話なんだけど。

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[注]たまたま文中で沖縄、鹿児島、高知の県名をあけたが、地名には特に意味はない。「うちの県は田舎の代表だってか?」とか言って怒らないでくだされ。

テクノラティプロフィール
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自分の女房について? そりゃ日本政府より私のほうが詳しいよ

2006-10-16 11:15:05 | メディア論
「今後、一般のユーザからGoogle Earthに提供されるデータは増え続けるのか?」

 Google Earthを手がけるGoogle Chief TechnologistのMichael Jones氏は、CNET Japanのそんな質問に答えてこう言った。

 ある人は自分の住んでいる家や職場、近所について日本の政府や地図制作会社よりも詳しい情報を持っているはずです。そうした人々が持つ知識を無視することは、みすみす最良の情報を見逃すことに他なりません。
 『地球上の情報をリアルタイムに連携--開発者が目指す「Google Earth」の未来像』(CNET Japan)

 これはGoogle Earthについてだけでなく、Googleなるものが寄って立つ思想そのものだ。そして、どんなブログを書けば読み手の心に刺さるか? に対する答えにもなっている。

 一部の専門家やジャーナリストの情報だけに頼るんじゃなく、不特定多数の集合知を生かそう──Googleは徹底してるなあ。

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グーグル化するはてブ

2006-10-13 01:45:46 | メディア論
[あとで書く]

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安全地帯から2chに遠吠えするライブドアPJの「相変わらず」

2006-09-17 10:33:04 | メディア論
 ライブドアの「パブリック・ジャーナリスト PJニュース 取材班」なるものが、2ちゃんねるを糾弾する記事を連発している。

『言論へのテロ!ブログ炎上の恐怖と悪質性』
『2ちゃんねるの「良識」』
『「デスノート」と化す、2ちゃんねる』

 内容は言い尽くされてる話ばかりで新味はない。が、笑ってしまうのは文末である。引用しよう。

※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJニュースはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。

パブリック・ジャーナリスト PJニュース 取材班【東京都】
    ※文字の強調表現は松岡が加工した

「文責はPJ個人にある」という。じゃあ、この記事を書いた「PJ個人」てのはいったいだれなの? そう思ってさらに先を見ると、個人ではなく「PJニュース 取材班」なる組織が書いたことになっている。これを見た読者はどう思うだろうか?

 要は、だーれも責任を取らないのね。

 まともな読解力のある人ならば、こう思うにちがいない。エントリー『フリーランスは「人間じゃない」のか? 文化レベルを露呈したTBS盗用問題の実態』で私が指摘した、マスコミによる組織を使った責任隠蔽体質とそっくりなのだ。

 もうひとつ、これらの記事には不可解な点がある。書いたのが「取材班」となってる割には、取材した形跡がないのである。

 特にだれかのコメントが出てくるわけでもない。机の前に座っていれば書けるような論評と、現象面の記述ばかりだ。はてさて、これを見た読者はどう思うだろうか?(リピート)

 書いた人間の名前を出したくないだけじゃないのか?

 だから「取材班」とかいう組織が書いたことにしたんじゃないの?

 こう思われてもしかたがない。なにしろ前後のほかの記事は、みんな署名記事なのだ。本当に取材班が取材したんなら、次のように表記するのがふつうだろう。

 ■PJニュース 取材班(○○○○、△△△、××××)

  ※(松岡・注)○○○○、△△△、××××は、取材班を構成する記者の実名

 PJニュースは、2ちゃんねるが「匿名による悪質かつ卑劣な誹謗中傷を行っている」という。だけど自分たちこそがまさに匿名なのだ。

 おまけに当たり障りのないほかの記事は署名なのに、2ちゃんねるを扱ったセンシティブな記事だけは匿名にしているのである。

 別に2ちゃんねるの肩をもつわけじゃないが、こんな腰の引けた言説をマトモに受け取る人がいるんだろうか?

 聖人君子ヅラして人のことは批判するくせに、その実、自分がやってることは変わりない。こういう卑怯な輩を見ると無性に腹が立つ。

 くやしかったら私のブログみたいに、タイトルの後ろにどデカく筆者名を入れて文責を明らかにすればぁ?

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【過去の関連エントリー】

『ほりえもんに見るメディアリテラシーの憂鬱』

『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』

『自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋』

『ライブドアのPJってマトモな人はいないの?』

『「韓流」がいつも1面トップの新聞なんていらない』

『ほりえもんで読み解く「ブログはアウトサイダー」か?』

[追記]文章全体をコンパクトにした(9/17)

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「YouTube」を使った広告モデルは疑問でいっぱい

2006-09-14 22:28:32 | メディア論
 今年の後半から「YouTube」を活用した広告モデルが活発化しそうだ。だけど私にはかなり疑問がある。ホントにユーザは投稿された広告動画を素直に観るのか? そんなカンタンじゃないだろう、って話だ。

 いまやIT系経済誌は、「YouTube広告にはバラ色の未来がある」みたいな煽りでいっぱいである。

 ソフトウエア開発ツール・ベンダーの老舗である米ボーランドは,8月に発表した新製品「Turboシリーズ」の広告をYouTubeに投稿している。Turboシリーズは主にプログラミングの初心者向けツール。同社は「プログラミング人口を広げるためにいつもいろいろな方法を考えている」(デベロッパーツールズ事業本部の藤井等マーケティングディレクター)とし,YouTubeへの広告動画投稿もその一環だという(中略)。

 高い広告費を払ってTVで放映するためではなく,YouTubeやその類似の動画共有サイトに投稿するためにCMを作成する企業が増える可能性は高い。“広告の王者”テレビCMが凋落し,動画共有サイトを活用したマーケティングが勃興する。
     「テレビCMはいらない?YouTubeマーケティングの時代が始まった」(日経 IT pro)

 いや、そりゃまあ私だってさ、『アスキー ビジネス』の11月号(9月29日発売)に似たようなお題で書きましたよ、原稿を。自分のWeb連載でも書いてるし。

松岡美樹:時代を射抜くコンテンツの作り方「第5回:Askビデオ」(RBB TODAY)

 でもねえ、さっきの「IT pro」さんみたいなイケイケドンドンな論調で書いたんじゃないよ。だって根本的な疑問があるもん。

 たとえば「IT pro」が記事にしてるのは、企業が自社のCMをYouTubeに投稿するパターンだ。実際、私も以前にそっち方面の取材で同じネタを仕入れた。でもこれ、ユーザは素直に観るのかね。そのCMを。

【A】「YouTubeがブレイクしてる。爆発的に観られている」

【B】「YouTubeにCMを投稿すれば、たくさんの人に視聴される」

 当たり前の話だが、AとBはイコールじゃない。次の例と同じだ。

【C】「ブログが大ブレイクしている。ユーザ数が○百万人になった」

【D】「ブログを書けば、たくさんの人に読まれる」

 CとDはイコールですかぁ? そうじゃありませんね。いくらブログのユーザが多くなったからって、ブログを書きさえすりゃたくさんの人に読まれるわけじゃない。おもしろいブログを書かなきゃ読まれないのである。

 企業がCMをYouTubeに投稿する場合だって同じだ。問題はそのCMがおもしろいかどうか? あるいは「観てみようか」というモチベーションをユーザに起こさせる仕掛けが、そのCMにあるか? である。

 じゃあ仕掛けとはいったい何か?

 たとえば企業がクリエイターに発注し、しゃれたオチのついた3分くらいのショートフィルムを作る。で、その物語の中で自社製品を小道具に使う。

 かつストーリーの展開上、この小道具には重要な役割をもたせる。商品をオチにからませるか、あるいはその商品のせいで物語が急展開する構成を取るか。まあそのへんはどうにでもなる。

 ただし重要なのは、宣伝臭をさせちゃいけないってことだ。

 イメージ的にはタイアップ広告ね。純広告じゃなくて。小道具に使う商品はあくまで脇役、主役はストーリーそのものにする。でもその商品が物語上のカギを握ってるわけだから、フィルムを観た人は自然に小道具(商品)が印象に残る。

「ねえ、あの『○○』っていうショートフィルム、おもしろいよねえ。あの中に出てくる△△は、どこのメーカーのなの?」

 商品の正体を適度にぼかしておけば、逆に視聴者は気になるものだ。寸止め戦法である。

 で、「『○○』というショートフィルムはおもしろい」、「その中に出てくる△△はどこの製品なのか?」、この2つの話題がネット上を駆け巡るように誘導する。ウワサ作りだ。

 するとなんてことはない。あちこちのブログやSNSが勝手に取り上げ、あとは口コミ効果で自然に商品が売れる。

 なーんだカンタンじゃん、YouTube広告って。

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