言葉の解釈をめぐる監督と選手の行き違い
東アジアカップは、今にして振り返れば監督と選手のコミュニケーション・ギャップを埋めるための大会だった。例えば非常に誤解されている「タテに速いサッカー」の真意である。
おそらくハリルは監督就任に当たり、あらかじめザックジャパンの映像を分析し「もっとタテに速く仕掛ける意識付けをすべきだ」と考えたのだろう。
というのもザックジャパンは、複数のショートパスを横につないで前が詰まるとバックパスするのが常だった。そしてひんぱんにGKまでボールを戻し、今度はバックラインでじっくりボールを回す。で、機を見てグラウンダーのショートパスを使い、最終ラインから丁寧にビルドアップし遅攻を仕掛けた。
だがこうした遅い攻めは、相手に守備の態勢を立て直す時間を十分に与える。いわば強い者が弱者を相手に仕掛ける「王者のサッカー」だ。しかしワールドカップでは立場がまったく逆になる。例えばヨーロッパや南米の強豪国と日本が戦うとき、ただでさえ格上の彼らに「さあ、守備体型をじっくり整えてくださいよ」などと余裕を与えていては勝てるチャンスがない。
日本のような格下がヨーロッパや南米の強豪とやるときは速攻、しかもボール奪取地点がより相手ゴールに近いショートカウンターが有効だ。で、ハリルは「タテに速く」と言い出した。
自分の頭で考えるサッカー脳がない
ここで選手が「自分の頭で考えるサッカー脳」をもっていれば、「なるほど。まずファーストチョイスはタテに通すことだ。そしてもしタテが空いてなければ、横か斜め、またはサイドチェンジを入れよう」と常識的に監督の指示を解釈する。
サッカーでは、なんでも同じだ。例えばフィニッシュの形にしろ、まずど真ん中が空いていれば中央から攻めるのが一番速い。ゆえに真ん中がファーストチョイスだ。で、中央が空いてなければ、セカンドベストのサイドを使った攻め方をする。こういう「湯加減」は、選手が自分の頭で考えるべきものだ。
ところが生真面目で応用力のない日本人選手は、監督が「タテに速く」といえば「どんな局面であろうと」常に無理やりタテを狙おうとする。愚直に指示「だけ」を守ろうとする。つまりこの時点で監督のイメージを選手が正確に読み取っていない。
「ケースバイケース」という当たり前の結論
で、今回の東アジアカップでは、合計3試合かけてやっとこのコミュニケーション・ギャップが修正された。
「そうか。タテが無理なら、横につないでもいいんだ」
そう選手が理解した。
ハリルにしてみれば「そんなことは初めから自分の頭で考えろよ」といいたいだろう。だが彼は日本人のメンタリティを理解してない。悲しいかな、自分の頭で考え、自分で責任を一身に引き取り「最終決定」を下す自決型の行動を取らない責任回避型思考の日本人は、こんなふうに一歩一歩進めていくしかない。
そんなわけで最終戦の中国戦では、かくてタテへの速さとポゼッションが共存した。例えば前半40分、槙野が出したタテへの速く長いスルーパスに抜け出した米倉が折り返し、武藤がゴールするというタテに速いパターンが登場した。
かと思えばボランチの山口蛍と遠藤航が必要な場面では中盤でボールを落ち着かせ、前へ急がなかった。つまり「タテに速く」はケースバイケースなんだ、と3戦目にしてやっと選手たちは「当たり前のこと」に気がついた。
ハリルは時間との戦いに勝てるか?
だが難題はまだまだ続く。例えばどのゾーンからプレスのスイッチを入れるのか? またそのとき後ろの選手はスイッチャーに連動し、どんなポジショニングを取るのがベストか? など選手全員が共通理解をもっておくべき要素は無限にある。しかしアジア最終予選まで、あと1年しかない。
300ページある教科書のうち、いまハリルがいったい何ページ目を開いて講義しているのか知る由もないが、「このペースじゃ、10年かかるんじゃないの?」と皮肉のひとつも言いたくなる。
ハリルは時間との戦いに勝てるか?
はたして納期までに完成品をお披露目できるのか?
プロジェクトの成否を分けるのは、いつの世も「タイム・イズ・マネー」である。
東アジアカップは、今にして振り返れば監督と選手のコミュニケーション・ギャップを埋めるための大会だった。例えば非常に誤解されている「タテに速いサッカー」の真意である。
おそらくハリルは監督就任に当たり、あらかじめザックジャパンの映像を分析し「もっとタテに速く仕掛ける意識付けをすべきだ」と考えたのだろう。
というのもザックジャパンは、複数のショートパスを横につないで前が詰まるとバックパスするのが常だった。そしてひんぱんにGKまでボールを戻し、今度はバックラインでじっくりボールを回す。で、機を見てグラウンダーのショートパスを使い、最終ラインから丁寧にビルドアップし遅攻を仕掛けた。
だがこうした遅い攻めは、相手に守備の態勢を立て直す時間を十分に与える。いわば強い者が弱者を相手に仕掛ける「王者のサッカー」だ。しかしワールドカップでは立場がまったく逆になる。例えばヨーロッパや南米の強豪国と日本が戦うとき、ただでさえ格上の彼らに「さあ、守備体型をじっくり整えてくださいよ」などと余裕を与えていては勝てるチャンスがない。
日本のような格下がヨーロッパや南米の強豪とやるときは速攻、しかもボール奪取地点がより相手ゴールに近いショートカウンターが有効だ。で、ハリルは「タテに速く」と言い出した。
自分の頭で考えるサッカー脳がない
ここで選手が「自分の頭で考えるサッカー脳」をもっていれば、「なるほど。まずファーストチョイスはタテに通すことだ。そしてもしタテが空いてなければ、横か斜め、またはサイドチェンジを入れよう」と常識的に監督の指示を解釈する。
サッカーでは、なんでも同じだ。例えばフィニッシュの形にしろ、まずど真ん中が空いていれば中央から攻めるのが一番速い。ゆえに真ん中がファーストチョイスだ。で、中央が空いてなければ、セカンドベストのサイドを使った攻め方をする。こういう「湯加減」は、選手が自分の頭で考えるべきものだ。
ところが生真面目で応用力のない日本人選手は、監督が「タテに速く」といえば「どんな局面であろうと」常に無理やりタテを狙おうとする。愚直に指示「だけ」を守ろうとする。つまりこの時点で監督のイメージを選手が正確に読み取っていない。
「ケースバイケース」という当たり前の結論
で、今回の東アジアカップでは、合計3試合かけてやっとこのコミュニケーション・ギャップが修正された。
「そうか。タテが無理なら、横につないでもいいんだ」
そう選手が理解した。
ハリルにしてみれば「そんなことは初めから自分の頭で考えろよ」といいたいだろう。だが彼は日本人のメンタリティを理解してない。悲しいかな、自分の頭で考え、自分で責任を一身に引き取り「最終決定」を下す自決型の行動を取らない責任回避型思考の日本人は、こんなふうに一歩一歩進めていくしかない。
そんなわけで最終戦の中国戦では、かくてタテへの速さとポゼッションが共存した。例えば前半40分、槙野が出したタテへの速く長いスルーパスに抜け出した米倉が折り返し、武藤がゴールするというタテに速いパターンが登場した。
かと思えばボランチの山口蛍と遠藤航が必要な場面では中盤でボールを落ち着かせ、前へ急がなかった。つまり「タテに速く」はケースバイケースなんだ、と3戦目にしてやっと選手たちは「当たり前のこと」に気がついた。
ハリルは時間との戦いに勝てるか?
だが難題はまだまだ続く。例えばどのゾーンからプレスのスイッチを入れるのか? またそのとき後ろの選手はスイッチャーに連動し、どんなポジショニングを取るのがベストか? など選手全員が共通理解をもっておくべき要素は無限にある。しかしアジア最終予選まで、あと1年しかない。
300ページある教科書のうち、いまハリルがいったい何ページ目を開いて講義しているのか知る由もないが、「このペースじゃ、10年かかるんじゃないの?」と皮肉のひとつも言いたくなる。
ハリルは時間との戦いに勝てるか?
はたして納期までに完成品をお披露目できるのか?
プロジェクトの成否を分けるのは、いつの世も「タイム・イズ・マネー」である。