▽先日島根の生家に帰ると寝床にある本棚が目に入った。
母の集めた絵本を中心に詰められた本棚である。
母は僕の姉が小学生の時分から学校での読み聞かせを行っていた。と記憶している。
絵本を蒐集しはじめたのは読み聞かせ開始がきっかけなのかそれ以前から集めていたのかは定かではないが、それ以前からのような気がする。
元来母は本の好きな人のようだ。
彼女は今も中学校の図書室司書を務める傍ら、小学校や図書館での読み聞かせを行っている。
僕も幼稚園の時分は母親の読み聞かせを聞きつつ右手で母親の髪を触りながら自分の左手の親指を咥えて(しゃぶってという方が正しいが)いなければ眠りにつけなかった。
僕が母を語る上で本は切っても切り離せない関係にあると言える。
なぜ急に昔を懐かしむようなことを書き始めたのかと聞かれれば、いつだって俺のブログ記事は思いついたままの何の脈絡もないものなのに何言ってんだとまずは言うであろうが、
強いてあげるならその時(先日の帰省時)目についた絵本を見てなんとなく昔を振り返りたくなったからだと思う。
つまりはいつも通りの思いつきだ。
▽『はらぺこあおむし』。
内容は覚えていなくても題名は聞いたことがあるという人が多いのではないだろうか。
メッセージ性に富んだいい絵本なのであらすじを。
日曜日に生まれた「あおむし」が月曜日にりんご1つ、火曜日に梨2つ、水曜日はすももを3つと、どんどん食べて大きくなる。
木曜日にイチゴを4つ、金曜日にオレンジを5つ。
土曜日にはチョコレートケーキとアイスクリームとピクルスとチーズとサラミとぺろぺろキャンディーとさくらんぼパイとソーセージとカップケーキとそれからすいか。
その晩「あおむし」はたくさん食べすぎてお腹を壊してしまう。
次の日の日曜日に緑の葉っぱを食べてすっきり。
その後何日も何日も眠って
そしてついにはきれいな蝶々へと成長する。
と、情緒も何もなしに語ればこのような話だ。
幼稚園の時に何度か読んでもらったと思う。仕掛け絵本だ。
この話には子供への強いメッセージが込められているらしい。
食べることしかできない「あおむし」が色々な経験を経て成長する話であるとか、
土曜日には高カロリーなものを食べて、食べ過ぎてお腹を壊したが緑の葉っぱを食べることですっきりする、子どもに野菜も食べることの大切さを示す話であるとか。
その辺は自分は作者のエリック・カール氏でないからわからないし、
読者によって解釈が変わるのが本のいいところだと思うし、
今書きたいことではないので書かない。
▽さて、目についたその『はらぺこあおむし』は「ミニエディット」、10×13センチの鞄にいれて持ち運びやすい方の絵本であった。
ふつうは22×30センチの大きさ。
ふつうサイズの『はらぺこあおむし』も家の中のどこかの本棚を探せばあるのだろうが、今はそのミニエディットの話である。
その本を見た時、ふと懐かしいものを感じた。
外出中、待合室かどこかで鞄の中からその小さい絵本を母が取り出している姿が目に浮かんだのである。
実際にそのような経験があったのかと言われれば、定かではない。
あったような気もするし、なかったような気もする。
幼少期の母との記憶と言えば僕がおもちゃを泣いて欲しがって結局買ってもらっているシーンがほとんどである。
我儘であった。
「であった」ではないか。現在もそのころからさして変わらず我儘である。
はっきりとした覚えはないのに、僕には絵本を取り出す母が見えた。
そのサイズの絵本のあることに、退屈している(または退屈するであろう)僕を気遣ってくれた母の愛を感じたのである。
「母の愛」は少し大げさだったかもしれない。
書いていて赤面。
とにかく、毎晩寝る前に母の髪を右手でいじりながら自分の左手の親指をしゃぶりつつ母に絵本を読んでもらうことは、今の僕の本好きのルーツであると考えるわけである。
小中高のころはあまり本を読んでいなかったが少なくとも「物語」は大好物であった。
母の集めた絵本を中心に詰められた本棚である。
母は僕の姉が小学生の時分から学校での読み聞かせを行っていた。と記憶している。
絵本を蒐集しはじめたのは読み聞かせ開始がきっかけなのかそれ以前から集めていたのかは定かではないが、それ以前からのような気がする。
元来母は本の好きな人のようだ。
彼女は今も中学校の図書室司書を務める傍ら、小学校や図書館での読み聞かせを行っている。
僕も幼稚園の時分は母親の読み聞かせを聞きつつ右手で母親の髪を触りながら自分の左手の親指を咥えて(しゃぶってという方が正しいが)いなければ眠りにつけなかった。
僕が母を語る上で本は切っても切り離せない関係にあると言える。
なぜ急に昔を懐かしむようなことを書き始めたのかと聞かれれば、いつだって俺のブログ記事は思いついたままの何の脈絡もないものなのに何言ってんだとまずは言うであろうが、
強いてあげるならその時(先日の帰省時)目についた絵本を見てなんとなく昔を振り返りたくなったからだと思う。
つまりはいつも通りの思いつきだ。
▽『はらぺこあおむし』。
内容は覚えていなくても題名は聞いたことがあるという人が多いのではないだろうか。
メッセージ性に富んだいい絵本なのであらすじを。
日曜日に生まれた「あおむし」が月曜日にりんご1つ、火曜日に梨2つ、水曜日はすももを3つと、どんどん食べて大きくなる。
木曜日にイチゴを4つ、金曜日にオレンジを5つ。
土曜日にはチョコレートケーキとアイスクリームとピクルスとチーズとサラミとぺろぺろキャンディーとさくらんぼパイとソーセージとカップケーキとそれからすいか。
その晩「あおむし」はたくさん食べすぎてお腹を壊してしまう。
次の日の日曜日に緑の葉っぱを食べてすっきり。
その後何日も何日も眠って
そしてついにはきれいな蝶々へと成長する。
と、情緒も何もなしに語ればこのような話だ。
幼稚園の時に何度か読んでもらったと思う。仕掛け絵本だ。
この話には子供への強いメッセージが込められているらしい。
食べることしかできない「あおむし」が色々な経験を経て成長する話であるとか、
土曜日には高カロリーなものを食べて、食べ過ぎてお腹を壊したが緑の葉っぱを食べることですっきりする、子どもに野菜も食べることの大切さを示す話であるとか。
その辺は自分は作者のエリック・カール氏でないからわからないし、
読者によって解釈が変わるのが本のいいところだと思うし、
今書きたいことではないので書かない。
▽さて、目についたその『はらぺこあおむし』は「ミニエディット」、10×13センチの鞄にいれて持ち運びやすい方の絵本であった。
ふつうは22×30センチの大きさ。
ふつうサイズの『はらぺこあおむし』も家の中のどこかの本棚を探せばあるのだろうが、今はそのミニエディットの話である。
その本を見た時、ふと懐かしいものを感じた。
外出中、待合室かどこかで鞄の中からその小さい絵本を母が取り出している姿が目に浮かんだのである。
実際にそのような経験があったのかと言われれば、定かではない。
あったような気もするし、なかったような気もする。
幼少期の母との記憶と言えば僕がおもちゃを泣いて欲しがって結局買ってもらっているシーンがほとんどである。
我儘であった。
「であった」ではないか。現在もそのころからさして変わらず我儘である。
はっきりとした覚えはないのに、僕には絵本を取り出す母が見えた。
そのサイズの絵本のあることに、退屈している(または退屈するであろう)僕を気遣ってくれた母の愛を感じたのである。
「母の愛」は少し大げさだったかもしれない。
書いていて赤面。
とにかく、毎晩寝る前に母の髪を右手でいじりながら自分の左手の親指をしゃぶりつつ母に絵本を読んでもらうことは、今の僕の本好きのルーツであると考えるわけである。
小中高のころはあまり本を読んでいなかったが少なくとも「物語」は大好物であった。
大概の絵本や小説、一部漫画。
打ち込める趣味がほしいw
くわちゃん!お母さんを僕にくださ…おっと、誰か来たようだ